五月蠅い、お隣君 
 
3.
 
次の日は、雨だった。
鬱々と降っている。
こんな日は外出が億劫になる。
なるべくなら部屋で寝ていたいなあ……
そう思いながらベッドでうとうとしていると、小さな気配が壁の向こうでした。
カタン、とドアの音がする。
? ……染谷、帰って来たのかな。
いつもならすぐ騒がしくなるのに、妙に静かなままだ。
壁によっかかってきてズルッと布を擦るような音がした。
…………?
上半身を起こして、目の前の壁を見つめる。
このすぐ裏側で、この壁に染谷が寄りかかって蹲っている。
 
(……ぅ……ひっく)
 
!? ………泣いてる!
 
(……ひっ、……ぅぅ)
声を殺して、ずっと泣いている。悲痛な声で。
肩を震わす振動まで、伝わってくるようだ。
その声は、俺の心に黒雲を垂れ込ませた。
「染谷? 泣いてるのか?」
思わず、壁に向って声をかけていた。
降りしきる雨の音が、染谷の声をかき消す。
俺は焦燥感に掻き立てられていた。
「染谷! 返事しろ!」
(……桐生……さん?)
「そうだよ! どうした!?」
(……あれ、どこに居るんすか……?)
きょろきょろしているのが、目に浮かぶ。
俺は壁にドンと、両手をついて叫んだ。
「壁のこっち側、俺の部屋だ!」
(あ……、うわ、こんなによく聞こえるんだ……)
言いながら鼻を啜っている。
「なんだ、どうしたんだよ、なんで泣いてんだ?」
(……ぅ…………)
また泣き出している。声を殺して。
壁の向こうとこっちで、お互いが壁に身体をくっつけている。
体温を感じ、息づかいまで聞こえるようだった。
(……きりゅう、さん……僕……もう駄目です……)
やっと声を出すと、また嗚咽した。
その声に、俺は胸を掴まれたように痛くなった。
 
着替えもせず、眼鏡だけひっつかんで、サンダルで飛び出した。
「染谷!?」
半開きのままのドアを開けると、靴も脱がずに壁によりかかって蹲っている染谷がいた。
その髪はびしょ濡れで、額や頬に張り付いている。シャツもズボンもずぶ濡れだった。
「……おい、なんだよ。どうした?」
両肩を掴み、身体を揺さぶる。
顔を少し上げて、こっちを見た。涙で濡れた目が、俺を見る。
「ぅ……、きりゅうさん……」
また涙が溢れる。
「……美鈴ちゃんに……」
俯いて、しゃくり上げる。
「僕、……振られちゃいましたぁ……」
ううーっと声を殺しながら、また泣き出す。
胸が痛くなるような、悲しい声で。
この世の終わりの様な、辛い、掠れた声。聞いている方が苦しくなる。
しがみついてくる肩を抱き寄せて、背中を擦った。
その肩はびしょびしょで冷え切っていた。
少しだけ見えるその顔は、口を歪めて切り結び、八重歯が覗くことはなかった。
なんだこれは。
なんで染谷が泣いているんだ。
俺の心から湧いた黒雲が、身体中に充満していくような気がした。
彼女に笑顔をもらっているはずじゃ、なかったのか。
染谷はいくらでも笑顔をくれるのに……。
支えていた腕を、染谷の身体に巻きつける。胸の中に抱え込むように抱きしめた。
冷たく濡れた感触のあとから、じんわり肌の熱が伝わってくる。
 
「……染谷。そんな女のために泣くな」
抱えた頭に話しかける。
 
「そんな女、お前から振ってやれ」
ぴくっと頭が動く。
「……そんな、なんでそんなこと……」
「おまえの良さが判らない女なんて、馬鹿だ。別れて正解だよ」
染谷の身体が、硬く固まった。
ばっと、俺の腕を振り解き、身体を離す。
その目は……俺を睨み付けていた。
「酷いよ……美鈴ちゃんをそんな風に言うなんて! 桐生さんは何も知らないくせに!」
俺は驚いて、見返した。
「ほんとに、ほんとに好きだったのに……」
「じゃあ、なんで染谷を泣かす? 彼女はなぜお前を振ったんだよ!? きれいな別れ方してたら、こんなボロ屑になんないだろ!? 自分勝手に染谷をあしらったんだよ!」
「……違う! そんな事いわないでよ。いくら桐生さんだって……」
「……いくら? いくら俺だって? いくらって、なんだよ。どれくらいだよ! 染谷の中の俺ってどのくらいいるんだよ!?」
俺は染谷の二の腕を掴み、がくがくと揺すった。
腹が煮えくり返って、燃えるようだ。
染谷を振った女も、そいつを庇う染谷にも、どす黒い怒りが渦巻く。
 
これは、嫉妬か。
 
馬鹿な女をまだ庇っているなんて。
そんなに好きか、彼女が!
そう思うと、黒い感情が抑えられなくなる。
 
染谷が眉根を寄せて、怯えたような困惑したような目で見返してくる。
奪われた笑顔。目の前の顔が笑っていないことが信じられない。
俺まで笑わせるあの顔はどこへ消えた?
俺の言葉が届かない……。
見ていられなくて、もう一度抱きしめた。
「染谷……好きだ」
びくんと震えた。
「お前が好きだ。……染谷の笑顔を、俺はずっと見ていたい」
ゆっくり顔を起こす、染谷。
怯えた目で、俺を覗き込む。
その色の意味が、俺には判断できなかった。
「………んッ」
顎を捉えて、唇を奪う。
何も言わせないように塞いでしまえ。
泣かないように、声を奪ってしまえ。
この分からず屋に、身体で判らせてしまえ!
どす黒い感情が俺の全身を支配する。
 
同時に湧き起こる、愛しい感情。
触れているだけで、こんなにも体が震える。
染谷が好きだ。好きだ。止められない。この思いは……!
 
「んんーーっ」
無理やりねじ込んだ舌を、苦しそうに拒否する。
それを絡め取り、自分の中に飲み込んでしまう勢いで吸い上げる。
そして、歯列を舐めた舌が、八重歯をなぞった。
「……あ!」
瞬間、俺は慌てて唇を離した。
愕然として、苦しそうに咳き込む背中を見降ろす。
何してんだ、俺……。
ぎゅうっと掴まれたように心臓が痛くなった。
「染谷、ごめん……」
肩に手を添えて、俺に向かせた。俯いてる前髪の隙間から、涙で濡れた目が見上げてくる。
恐怖…嫌悪…? 戸惑いの色の意味が、やはり判らない。
「聞いてくれ……染谷」
肩を掴んだ手に、力を入れた。
「俺は……美鈴ちゃん…彼女より、染谷のいいとこたくさん知っている。染谷の良さを判ってるつもりだ。笑顔が可愛いのも。懲りないとこも。八重歯も。……みんな、愛しい」
真剣に瞳を覗き込む。
「彼女よりずっとっずっと、染谷を愛してる。……俺はこんなことで、おまえを泣かせたりは絶対にしない」
真っ直ぐに見返してくる、綺麗な瞳。
「染谷の中の俺は、………本当に、どれくらいなんだろう?」
俺は悲しくなりながら、言った。
今の俺は、あのコーヒーショップの女の子がしたような顔をしているのだろう。
自分の入る余地など無いほど、他の人を好きだと宣言されて…
……消えたくなるほど、切ない……
俺の目も涙で、霞んでしまった。
 
「………も?」
染谷が小さく、何か言った。
「………も、しってる?」
「………?」
 
「ぼくが……桐生さんを……兄貴以上に想っていることも、知ってる?」
「え?」
俺を見返す潤んだ目が、その視線が、縋るように絡んでくる。
「僕自身も知らなかったけど、桐生さんが隣にいないと、死ぬほど寂しくなっちゃうってことも?」
「………染谷?」
「僕、桐生さんが出かけちゃうと、何故だかセックスできなくなっちゃってたんだ」
「………」
「桐生さんのドアの閉まる音がすると、途端に萎えちゃって、続きができなくなって、……それが何度も続いたもんだから……美鈴ちゃんが怒って……あたりまえだよね」
染谷の両目から涙がぼろぼろ零れた。
「会話もつまらないって言われて……だって、僕、桐生さんの話ししかしないから」
「……染谷……」
「でも僕、美鈴ちゃんを好きだったから、振られてショックだった……」
「………」
「でも違ったの。部屋に帰っても桐生さんが居ないんじゃないかと思って、そっちの方が僕には辛かった」
「………!」
胸が何かに突かれたようだ。息が出来ない。
酸素を欲しがるように、染谷を掻き抱いた。
腕の中で、染谷の呼吸が熱くなる。
「僕も知らなかった。……僕、桐生さんが好き……」
俺はその言葉を、全身に染み込ませた。体内のヘドロが浄化されていく。
染谷の頬を優しく挟み、自分に向かせた。
きらきらしてる瞳を見つめる。
 
「染谷……もう一回、キスしていい?」
「……うん」
 
頬が赤くなり、唇の端から、八重歯がちょこっと覗いた。
俺は、ゆっくり優しく触れるだけのキスを繰り返した。柔らかさを楽しむ。温かみを感じるだけのキス。それから、啄ばむように唇のあちこちをつつく。少しづつ、その唇と歯列が開いてゆくように、焦らす。
「ん………」
染谷の腕が俺の首に、巻き付いてきた。
俺はその小柄な体を、壊れないように優しく抱きこむ。
胸と胸を密着させて、唇が解けないように絡み合う。
歯列をなぞり始めた俺の舌は、八重歯を見つけ出す。舌先で、何度もなぞるようにそれに触れる。
俺の体内の芯の部分から、黒雲はかき消された。
それを実感して、奥に入っていく。向えてくる温かい舌に、全体で密着するように押し当てる。
押して退いてを繰り返しながら、舌先を尖らせて、喉の奥まで探りに行く。
染谷の身体が、びくんと跳ねた。
「ん……ふ……」
俺は、唇を離して、目を覗き込みながら聞いた。
「染谷……ほんとに勃たなくなっちゃったのか……確認してみない……?」
瞳がさらに輝く。
「うん……」
照れたように微笑む。三日月型に開いた口元は、めちゃくちゃ可愛かった。
 
そのまま掬うように抱き上げ、俺のベッドに連れて行った。
濡れた服を全部脱がせ、自分も全裸になる。
「ここから聞こえる、染谷の喘ぎ声、聞くに堪えなかった」
横の壁に手を突いて、昨日までを想う。一緒に壁を見つめる染谷は、口をつぐんで苦しそうに眉を寄せた。俺も苦しくなって、乾ききらない体を優しく撫でた。
「だから、出て行くしかなかったんだ」
胸の飾りを舐める。
「んっ……」
全身への愛撫を繰り返しながら、唇は下へ降ろしていく。
「……でも、今は俺だけの声だ。壁越しじゃなく、本物の声が」
「ぁ……きりゅう……さん」
下のものを口に含む。
「あぁ……はぁ」
唇と舌の愛撫で、すぐにそれは大きくなった。
「可愛いな、染谷…もっと聞かせて」
後ろの蕾も指で弄る。舌先を入れて、奥を探る。
指も入れて奥を更に探る。
「ん……ぁあっ……」
染谷は俺の髪毛を両手で掴んで、身体をしならせた。
「ぁあ……きりゅーさんっ……きりゅ…さ……」
開いた膝はがくがくと震えている。
「はぁ……ぁぁ……」
「染谷、……いい? ……いくよ?」
こくこくと頷く。
俺は染谷の両脚を肩に担ぎ上げると、自分の熱く滾っているモノを蕾に当てがった。
ゆっくり押し込んでいく。
「ん……んんっ」
染谷の身体が、びくんびくんと跳ね上がる。
体を倒してのし掛かり、腕ごと抱きしめて唇を吸う。そうしながら、俺の全てを染谷の奥まで沈めた。
中はキツくて、熱くて、めちゃめちゃ気持ちが良かった。
暫らくそのまま堪能して、ゆっくり前後に腰を動かし出した。
「ん……ふぅ………んんっ…」
呼吸の合間に喘ぎが漏れる。
その声は紛れも無く、俺が俺のために、俺の部屋で出させている、俺のものになった染谷の声だった。
「あ……、あぁ……きりゅうさん……はぁ……ッ」
その声に煽られる。キスのたびに歯に触れる。
一生懸命首にしがみついてくる。か細く呻く。
可愛い染谷。大好きな染谷……
 
「………忍」
 
その名を呼んでみる。俺だってそう呼びたかった。
ぴくんと反応する。
「………忍、……いくね。俺もう駄目」
俺は染谷の中に、熱い滾りを放出した。俺の掌の中でも、白濁が飛び散った。
「ぁ……だいすき……きりゅうさん……」
果てる時、染谷は最上級の笑顔をくれた。
俺は、一緒に微笑んだ。
 
「ダイジョブで良かったな」
耳に唇を当てて囁く。
「えっ、……あ、はい! ……僕、イけました!」
顔を真っ赤にして、俯く。それでも見えている俺の白い宝物。
愛しさが沸き起こる。俺もまた微笑む。
 
 
 
取り戻した。俺の癒し……
俺はおまえを、一生、愛す。
 
 
 
***********
 
 
 
僕は待ってたんだと思う。今僕、ここにいるよって。桐生さんに聞こえるように。
この声が届くように。あえて大きな声で携帯してた。いつかまた来てほしくて。
あの時のように、僕の部屋に来て欲しくて。
……まさか、あんなに聞こえが良い壁とは、思ってもみなかったけど。 
でも、聞こえてたって来てくれないし。
僕が行くしか、桐生さんには会えなかったんだ。
 
 
俺は途切れさせたくなかったんだな。壁を突き抜けて聞こえる、声という赤い糸を。
忍の存在を感じていたかった。
だから携帯が五月蝿いって、文句言う気になれなかったんだ。
 
 
 
きっと最初にドアを開けた、あの時から。
きっと二人は……
 
 
 
 
END 

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