年が明け、冬休みも終わった頃だった。
(あれは……。確か同じ大学の……)  
 郡司は庭の向こうを、大荷物を抱えて小走りに横切っていく男に目を留めた。
 同じ学年なら、3年の筈だ。
(……何やってんだ?)
 その青年は、大きなビニール袋を抱えて、よたよた走り去って行った。
 
 数日後、同じような時間に、またその姿を見た。
 考えてみると、よくその姿は見ていた気がする。それが知り合いかどうか、気にしなかっただけだった。
 郡司の部屋はマンションの一階で、ベランダの外に専用庭が付いているタイプだった。
 一階だけ特別で、ベランダに付けられた小さな階段を降りて、庭を囲っている柵から敷地外に出られるようになっている。
   
 今日も男の姿を見かけた。よりによって道路に抱えてた袋を、落としているようだ。慌てて叩いては小脇に抱えあげている。郡司は、庭に出て声を掛けた。
「……なあ、なにやってんの?」
「えっ」  
 いきなり声を掛けられた青年は、びっくりして動きを止めた。
 きょろきょろと、声の主を探している。
 郡司は柵を開けて、青年に姿を見せた。
「おまえ、そこの大学だろ? 顔、見たことある」
「あ……ハイ。そうですけど……」
 戸惑いながら、青年は郡司の顔を見返した。
 
 青年より頭一つ背が高い郡司は、180㎝を越えていた。
 左分けの長い前髪が、右顔を少し隠している。
 すっと伸びた鼻梁に、引き締まった口元。
 綺麗な二重が、きつくなりそうな印象の表情を優しく見せていた。
 
 その顔を、じっと見つめていたけれど、最後は困ったように眉を下げた。
「すみません、僕はちょっと……?」
 青年は郡司を知らなかった。
「……へえ、俺を知らないんだ」
「?」
「何してんの? それ」
 郡司は、青年の抱えている大袋を、目で指した。
「あっ……、これ」
 恥ずかしそうに顔を赤くした。
「……洗濯物…です。僕んとこ、北側に窓一つで、干しても乾かないんです」
 郡司は目を丸くした。
「だから、コインランドリーに行ってるんです」  
 情けなさそうに笑う、その目尻が垂れ下がった。
(すごい垂れ目だなあ)  
 笑うと目が無くなる、とは、こういう顔か……と、しげしげ見つめる郡司に、青年は声を発した。
「……あの、僕になんか……用ですか?」  
「いや、別に……」
 郡司も興味を惹かれただけで、用があったわけではない。
「じゃ、失礼します」  
 また、よたよたと走り去ろうとする。
 郡司はその背中に声を掛けた。
「おい、それ、ウチのベランダで干せば?」
「え?」  
 さっきと同じように驚いて、青年は振り返った。
「玄関から入んなくても、干せるぜ。鍵があればここから入れる」
「…………」  
 ぽかんと口を開けて見上げる青年に、郡司はもう一度言った。
「借りんの? 借りないの?」
「かっ、借ります! ……いいんですか?」
「ああ。なんか、頻繁にその姿見るから……。ベランダと庭だけなら、いつでも貸すぜ」
「あ、ありがとうございます!!」  
 青年は、目を輝かせて、郡司を見つめた。
「……おまえ、なんつー名前だっけ。俺は郡司」
「名雪です。名前の名に、スノーの雪で」  
「なゆき? ……おもしれー名前」
「グンジさんも」
 名雪はにっこり笑った。
  
「これ、鍵な。明日から使えよ。じゃな」  
 スペアキーを手渡すと、郡司はベランダから室内に戻って行った。
「はい! ありがとうございます!」
 名雪は手の中の鍵を見つめた。
(すごい……なんかわからないけど、嬉しいなあ)
 感謝を込めて、郡司の消えたガラス戸にお辞儀をした。
 
 名雪が借りている2階建てアパートは、窓が北向きなうえに、目の前に5階建てのマンションが建っている。
 日照権の侵害なんて、今の時代には関係ないようだった。
 
 
 
 
「助かります、コインランドリーはお金がかかって」
 初めて入った、縦長に広い庭。
 次の日そこで、郡司は待っていた。
「洗うのより、乾かす方が何倍もお金掛かるんですよ」
 庭に設置されている物干竿に手早く洗濯物を引っかけながら、情けなさそうに笑う。
 これが染みついたような笑顔だった。
「そんなもんか?」
 ベランダの内側から手摺りに寄りかかって、名雪の作業を見ていた郡司は、その手際の良さに驚きながら聞いた。
「ハイ。……郡司さんはすごいですね。こんなマンションに住めるなんて」
「まあな。親父のだ」
「……そっか。いいな、お父さんがいて」
「?」
「あっ、僕、父親いないんです。小さいとき離婚しちゃったから」
 暗い話しになりそうなものだが、名雪はけろっと笑い飛ばして話していた。
「それより、なんか……お礼というか」
 急に歯切れが悪く、郡司を見た。
「ここをただ貸してもらうの、申し訳ないんで……僕に出来ることあったら、言ってください」
 本当に申し訳なさそうに、眉を下げる。
(犬……みたいだな)
 目の前の、頭一つ小さい名雪を見ていて、郡司は実家の犬を思い出していた。
 愛犬ジャスティは表情のころころ変わる可愛い子犬で、耳を立てたり伏せたりして、愛情表現をする。
「別にいいけど……そうだ、俺のも干してくれ」
「えっ?」
「俺んとこ全自動はいいんだけど、干すのが面倒で」
「…………」
「乾燥機も付いてるけど、やっぱ干した方がいいんだよな」
「…………」
 名雪は、ぽかんと郡司を見つめていた。
(……いいけど。干すぐらい。でも、下着とか…あると思うけど……いいのかな)
 郡司は、気付いてないのか、構ってないのか、平然として言っている。
「いつもは、どっかしらの女がやってくれんだけど、今いなくてさ。一人分だから、そんな量は無いけど……イヤか?」
「……いえ! やります! 出しといてもらえれば、干しときます!」
 名雪は顔を赤くして、言った。
(女! そっか、干して貰うのなんて、当然なんだ……)
「ああ、毎週日曜の朝に出すよ。ほんじゃ、ヨロシク」
 そう言うと、室内に入り、カーテンを閉めてしまった。
 普段からガラス戸とカーテンは閉めっきりだから、中に人がいるかどうか、気にしなくていいと郡司は説明していた。
 
 
 
 
 
 次の日曜日、名雪が庭に入ると、ベランダの端に洗濯カゴが出ているのが見えた。
 すでに数回干しに来ている名雪は、勝手知ったる芝生をひょいひょいとまたいで、ベランダに辿り着いた。
 カゴには濡れた衣類が、詰まっている。
(初めてのお仕事だ~)
 名雪はそれを取りにベランダに上がって、いつも締まっているはずのカーテンが半分開いていることに気付いた。
「…………」
 いけないと思いつつ、そっと中を覗いた。
 窓に向けて長いソファーが置いてあり、そこで、郡司がうたた寝をしていた。
 
(うわー、カッコイイなあ……)
 少し横分けの長めの前髪が片目を隠している。彫りの深い額とすっと伸びた鼻梁は、目を瞑っていても窪みに濃い影を作っていた。
 ソファーに凭れて投げ出している脚が、細くて長い。
 名雪は暫く見惚れていたが、我に返って洗濯カゴを掴み、庭に降りた。
(見つかったら、今度こそお終いだ)
 実は既に、一回覗いていた。
 やはり、カーテンが少し開いていて、興味をそそられたのだ。
 広いリビング。高そうな調度品。名雪には夢のような空間だった。
「うわー、綺麗だなあ」
 ガラス越しに見惚れていると、急に目の前に郡司が立った。
 窓ガラスを開けて、睨み付けてくる。
「覗いていいとは、言ってない」
「……ごめんなさい」
「泥棒みたいなことは、するな!」
 思いがけない剣幕で、怒鳴ってくる郡司に、名雪もむっとした。
(覗いたのは悪いけど、いきなりそこまで言わなくても!)
「ど、泥棒って……! そんなことしませんよ! そんな風に思われるくらいなら、もういいです、鍵、返します!」
 負けない剣幕で、捲し立てた。
 ズボンのポケットの鍵を掴みだして、郡司に突きつけた。
「こないだと、今日と、ありがとうございました!」
 目の前の胸に、鍵を握った拳を突き当てる。
 
 郡司は、予想外の反撃にびっくりした。
(逆ギレかよ……覗く方が悪ぃだろ?)
 でも、自分を見上げて、怒った顔をしている名雪を見て、郡司は笑ってしまった。
 名雪の眉は吊り上がっていても、目尻は垂れていた。
 右手で前髪を掻き上げながら、その顔を観察する。
(なんか、おもしれーなぁ)
「……冗談だ。でも、開いてるからって覗くな」
 厳しい声で、たしなめた。
「……ハイ。……ごめんなさい」
 名雪は、しょぼんとして謝ったのだった。
 


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