ベランダの鍵貸します
  

  
(いけない! 気付かれる前に、干さなきゃ)
我に返った名雪は、洗濯カゴをひっつかむと、干し竿まで走っていった。
 
 
「……気持ちいいなあ」
パンッと、タオルを引っ張って竿に掛ける。
晴れ渡っている冬空を見上げた。どこまでも、水色の空が冴え渡る。
柔らかい日光がさんさんと照らすその庭は、この季節でも、半日もすれば洗濯物を乾かしてしまうだろう。
「怒られちゃったけど……鍵、返さなくてよかった!」
目尻をさらに下げてにっこり笑うと、名雪は次々とカゴの中の物を干していった。
(みんな、仕立ての良いものばかりだ)
シャツを広げてみると、とても良い生地を使っているのがわかる。
(洗濯するとき、痛めてないといいけど……)
「どうせなら、洗濯するとこから、やりたいなあ」
他のシャツを広げては、呟いた。
 
そして、残り少なくなってきたカゴの中に、手を突っ込んだとき。
「―――あっ!」
思わず、叫び声を上げた。
(……これは)
郡司のトランクスを摘み上げていた。
その両端をもって目の前に掲げてみる。
「大きいなあ」
自然と顔が赤くなってしまった。
さっきの寝顔が思い出された。
(これ……彼女に洗って貰ってるんだ)
名雪は更に顔を赤くすると、あたふたと変な妄想を掻き消した。
「ふーっ」
溜息をつきながら全部干し終えると、早々に退散することにした。
カゴをベランダの端に戻しに行く。
「………………」
カーテンの隙間を遠目に見て、踵を返した。
 
名雪は大学に入っても、彼女が出来たことはなかった。
バイト三昧で、それどころではなかったからだ。
ドキドキする心臓を抑えながら、自分のアパートに走った。
マンション暮らしで、彼女に洗濯物を洗わせる「郡司」が凄いと思っていた。
ギシギシ音を立てる、錆びきった剥き出しの鉄階段。
縦筋が入って、ゆがんでいる板ドア。
入ると、薄暗い部屋に6枚の畳だけ。
申し訳程度に出っ張った空間に、一口コンロを置けるガス台と、小さな作りつけのコンクリートの流し台が設置されている。
トイレ洗面は、今時共用である。
「はぁ……世界が、違うなあ」
落ち込んだり、拗ねたりする性格ではない。
ただ、ギャップを感じずにはいられなかった。
大きなマンション、常に入れ替わる彼女、身の回りは他人任せ。
余りに違う世界に、郡司は居た。
「しょうがないよ、父親が違うんだもんね〜」
一人呟きながら、次のバイトの支度を始めるのだった。
 
 
 
 
 
郡司は薄ら寒さを感じて、目を覚ました。
いつの間にか、うたた寝をしていたらしい。
ソファーから身体を起こして、前髪を掻き上げながら外に目をやった。
約束通り、自分の洗濯物が綺麗に干してあった。
何となく思い付いたことだったけど、悪い気はしなかった。
(便利だな)
取っ替え引っ替えの女が珍しく不在で、身の回りに不便を感じていたのだった。
 
日曜日ごとに、名雪は必ず朝、洗濯物を干しに来た。
他の日は、郡司自身が不在のせいもあり、いつ来ているかわからなかった。
ふと、外を見るとシーツがはためいている。
ああ、今日来てたのか、と知るのだった。
 
日曜の朝、いつものようにカゴを出しておくと、いつの間にか名雪が来ていて、それを干し出していた。
たまたまそれを見た郡司は、なんとなくその作業を見つめ続けてしまった。
郡司の下着も、気にせず手早く干している。
ふわふわした茶色い髪の毛を、気持ちよさそうに風にそよがせて。
時々空を仰いでは、日光を体中に浴びていた。
(気持ちよさそうだな)
日陰しかないという苦労を知らない郡司は、名雪が喜んでいる姿が新鮮だった。
 
 
 
 
「………」
名雪は、うたた寝している郡司を見てから、なんとなくカーテンの内側が気になっていた。
また見れないかな……と、無意識に思っていた。
(綺麗な寝顔……なんか、印象的だったなあ)
そんな思いが、名雪自身も気が付かないうちに、視線をガラス戸へ飛ばさせていた。
覗くなと叱られた手前、大っぴらに顔を向けることは、はばかられる。
身体は庭に向けながら、横目でついベランダを伺っていた。
でもそのガラス戸は、レースのカーテンで閉ざされていて、自分の姿を反射するだけだった。
何週間かそうやって、無意識にも視線を窓ガラスに飛ばしてしまいながら、名雪は洗濯物を干していた。
その窓ガラスの内側から、観察されているとも、気付かずに。
 
 
名雪の視線に郡司が気が付いたのは、3週間前だった。
(今日も相変わらず、気持ちよさそうだな)
日曜の朝は、何となくリビングで過ごすようになっていた。
名雪の作業を見ながら、珈琲を飲む。
「……ん?」
身体は向こうを向いたままだ。
顔もやや、こっちへ向けただけ。
その視線が、自分を見た気がした。
「…………」
窓際のカーテン越しに立っていた郡司は、名雪を見つめ返した。 
(気のせいか?)
自分に気が付いてる様子は、名雪には見えない。
手早く次々にタオルやシャツを干していく。
(ん? ……やっぱ、見てるな)
ちらっと、一瞬だけ視線がこちらに向けられる。
うたた寝を見られた事を知らない郡司は、それが不可解で、反対に名雪を見つめ続けた。
こうして、二人の奇妙な覗き合いが、始まったのだった。
 
 
 
 
 
2月の2週目の日曜日、いつも通り珈琲カップを片手に窓際に郡司が立つと、聞き慣れない声が聞こえてきた。
「……?」
耳を澄まして、驚いた。
名雪が、歌っていたのだ。
大きなバスタオルを竿に掛けながら、何かの歌を口ずさんでいる。
 
(へえ……可愛い声だな)
 
高くて優しいその声は、郡司の耳に聞き心地良く響いた。
「ぁ……」
気持ちよさそうに口ずさんでいた名雪が、ふいに歌をやめて、舌をぺろっと出した。
「違った、違った」
そう言うと照れたようにニコッと笑って、何事も無かったように、その続きを歌い出す。
 
「…………??」
 
郡司はそれを見てしまって、噴き出した。
(もしかして、歌い間違えて、自分でダメ出ししたのか……?)
その仕草が可愛くて、ますます眺めてしまった。
よく見ていると、しょっちゅう、ぺろっと舌を出しては違う違うと呟いている。
(そんなに覚えてないなら、歌わなきゃいいのに……)
呆れながらも、ずっと眺め続けていた自分に気付く。
持っていた珈琲カップから、すでに湯気は立っていない。
(……熱い珈琲、淹れなおすか)
窓際から離れるとき、もう一度名雪に目をやると、冷たそうに丸めた両手を口元に持っていくのが見えた。
その口からは、白い息が短くいくつも吐き出されていた。
 
 
 
 
 
次の週の日曜日、ベランダに見慣れない籠が出ていることに、名雪は気付いた。
「あ、もしかして!」
洗濯カゴの2倍くらいの大きさで、上品な蓋付きの焦げ茶色の藤籠。その上にメモが乗っていた。
 
――取り込んだ洗濯物は、この中へ入れてくれ――
 
取り込む作業まで全部、名雪がやっていた。
今までは、綺麗に畳んでプラスチックの洗濯カゴに入れ直して、ベランダに置いておいた。  
でも、洗濯物は洗った後は膨らむから、入れ間に合わないときがあった。
名雪はそのことをメモにして、郡司に伝えていたのだ。
「ああ。これで取り込んだあと、汚れないや」
嬉しそうに言いながら蓋を開けて中を覗くと、缶珈琲が一本置いてあった。
「あれ!?」
拾い上げると、まだかなり熱い。
(わあ……これ、僕に……?)
名雪は思わず、横のガラス窓を振り仰いだ。
「郡司さん……ありがとうございます!」
中は相変わらず見えないけれど、一言お礼が言いたかった。
にっこり微笑むと、陽の当たる暖かい庭に出て、美味しそうにそれを飲んだ。
「はぁ、……暖まるなあ」
その心遣いが、胸に染みる思いだった。

 

NEXT /長編SS短中編