真夜中のページ・ボーイ 
 
12. 白髪口髭の 老紳士
 
「あ、塩崎さん!」
 
 
僕は眠いのと怠いのを我慢して、早朝ミーティングの前に、動き出していた。
今日は、塩崎先輩を捕まえる!
そう思って、早くからホールの前で立って待ってたんだ。
 
「…………」
塩崎さんは、僕を見たとたん、可愛い顔をムッと顰めた。
 
―――怯むな、僕ッ……!
 
「あ……あの! 教えてください! ……お願いです!」
土下座する勢いで、頭を下げ、塩崎さんの前で手を合わせた。
「…………」
返事はしないけど、そこに立ったまま逃げないでいてくれる。
顔を上げると、不愉快そうに眉を寄せたまま、僕を見下ろしていた。
「塩崎さん、教えてください! bP01の紳士って、どんな方なんですか!?」
低姿勢のまま、必死に訊いてみた。
 
「……え?」
ちょっとぽかんとした顔になって、塩崎さんが聞き返してきた。
「どんなって……毎晩、行ってるでしょ?」
「行ってはいますが…………お会いしては、いないんです」
 
塩崎さんは暫く僕を見つめ続けて、また呟いた。
「でも、……ワイングラス二つって……」
「飲んでません、僕! アルコール、まったくダメなんですから!」
「………………」
「それより、二つグラスをオーダーするくらいだから、他に誰か居るのかと思っていたんですけど……」
「……いない。あの方だけだよ」
 
―――――!!
 
この塩崎さんが言うんじゃ、本当なんだろう。
僕は、心底気分が悪くなった。
―――じゃあ、アイツは……本当に……なんなんだ?
 
顔色の変わった僕を見て、愁眉を開いたように塩崎さんの顔から険が消えた。
「……毎晩、運ぶだけ?」
「……!! ……そうです。顔も声も、まったく僕、知らないんです」
「……ホントに?」
身体を起こした僕を、睨み上げてきた。
「ハイ! ……だから、その老紳士のこと……知りたくて」
「……なんだ」
ふと呟いて笑った顔は、以前の可愛らしい塩崎さんだった。
 
「……今日なら……」
「――――!!」
「今日なら、部屋から少しお出になるから……遠くからなら見れるよ」
 
――――!!
 
「でも、声掛けたらダメだよ!」
ボクのなんだから!
と、後に続きそうな言葉を呑み込んで、その時間と場所を簡単に教えてくれた。
「ありがとうございます!!!」
僕はさっきと同じように、腰まで頭を下げて、精一杯のお礼をした。
「…………」
塩崎さんは、照れたような困った顔をして、何も言わずに行ってしまった。
 
―――ありがとうございます!!
 
その背中に、心の中でもう一度お礼を言って、頭を下げた。
 
 
 
 
―――まるでお忍びだな……
 
午後もだいぶ過ぎた頃、教えてもらった渡り廊下の窓からその方向を見ていると、植木に沿って誰かの頭が横に移動していくのが見えた。
その頭髪は確かに真っ白で、動きが恐ろしくゆっくりだった。
 
………あれが……!!
 
僕は居ても立ってもいられなくなった。
―――塩崎さん、ごめんなさい!
心の中で謝るのと、駆け出すのは同時だった。
渡り廊下を戻って一階に駆け降り、業務用通路の非難扉から、中庭に走り出た。
 
―――いた!
 
想像よりかなり大柄な老人だった。
上品なツーピースを着こなして、杖を突いてはいるけれど、姿勢は綺麗だ。
真っ白い頭髪を、完全オールバックで後ろに撫で付けている。
 
「あの!!」
 
失礼を承知で、後ろから大声で呼び止めてしまった。
老人は、ぴたりと脚を止めて、ゆっくりと振り向いた。
 
 
―――うわっ………
  
 
心臓がバクバクしてくる。
やっと、近づけた…………
謎の老紳士に、出会えたんだ―――!
 
 
端正な整った顔。
”上品な口髭の紳士”は、確かに噂通りの顔で、そこにいた。
 
「………………」
向かい合ったまま、僕は何も言えない。
何年もホテルに住み続ける、超ビッグ待遇のお客様のお忍びに、不用意に声をかけてしまった。
そう恐縮させられる、オーラが、この老人にはあった。
 
 
―――でも……!!
 
  
「……君は?」
 
紳士から、声を掛けてくれた。
 
―――え……僕を知らない?
 
「あ……あの……短期間だけ、お手伝いのために移動してきた、ベルマンです」
顔を真っ赤にさせて、ロクな身分証明もできない僕を、老人は見つめてきた。
「……………」
僕は自分から呼び止めたくせに、それ以上喋れなかった。
老人の澄んだ目に、引き込まれる。
色素が薄れたような、グレーの瞳。
幾重にも刻まれた深い皺の中から、しっかりとその視界に僕を捉える。
口髭に隠れた唇の端が、優しく笑っていた。
 
「中庭で迷ったかな?」
 
子供をあやすように、話しかけてくれた。
「………!!」
「短期じゃ、慣れる前に終わりだね。……本館に戻れるの?」
優しく訊いてくれる。
「は……ハイッ! 大丈夫です。ありがとうございます! ……あの」
 
同じ目線か、やや高い老紳士の目を見つめながら、僕は本題を切り出した。
「bP01のお客様ですよね……」
 
「―――――」 
 
上品で優しげな顔から、笑みが消えた。
「お訊きしたいんです。101には、お客様の他に、もう一人いらっしゃいますね?」
 
不快に眉が寄せられていく。
 
「――なんだね、……君は」
 
そう発した声は、さっきまでの優しいそれではなかった。
厳しくたしなめるような、叱りつけるような……
 
「このホテルは、いつからこんな質の悪いボーイを置くようになったのか……」
僕を睨み付けながら、髭の奥で、そう呟いた。
「―――――」
僕はその般若のように様変わりした顔に、気圧されていた。
 
「君、それ以上わたしを侮辱すると……」
 
グレーの瞳が、鋭く光った。
背筋がゾッと凍り付くような、冷たい怒り。
 
「今後一生、どのホテルにも、出入り出来なくさせるよ」
 
 
―――――――!!
  
 
「……………」
……もう、声も出せない。
恐怖で竦んで、ピクリとも動けなかった。
怒鳴る訳でも、激しい脅しをかけてくる訳でもない。
一見やんわり、たしなめられた程度だった。
 
でも、その迫力は有無を言わせない……権力者の一声のような威圧。
 
……まさにその通りなんだと、思った。
bP01は、”不夜城”のトップビジター。
それは、このホテル界のトップをも指し示すことだった。
そして僕は、この人の触れてはいけない何かに、踏み込もうとしたんだ。
  
 
「…………」
生唾をやっと飲み込めるようになった頃、僕は独りで中庭に突っ立っていた。
 
口髭の紳士は……それ以上の言葉はなく、ゆっくりと姿を消していた。
 
それでも僕は動けなくて――。
結局、何も解決しなかった……その歯痒い思いと、底知れない恐怖だけが、心の重石となった。 
 
 
 
  
 
その夜も、オーダーはあった。
……今日は、乱れると思ったのに。
 
僕が動いたことで、アイツに何か変化が起きることを、少し期待していたんだ。
僕なんか、呼び出せないほど……。 
 
あの老紳士が、僕を知らないことが不可解だった。
塩崎さんはあの紳士から直接、ルームサービスのオーダー表を受け取っているはずなのに。
――”僕指名”の……
 
もう見慣れてしまった手の中のそれを、見つめた。これで五枚目。
須藤って、確かに書いてある。
 
今日は塩崎さんが直接、手渡してくれた。
 
「見れた?」
なんて、悪戯っぽく笑っていた。
……塩崎さんに、僕のこと言わなかったんだ。あの紳士。 
 
 
 
 
  
 
「失礼します」
いつも通りに、ワインクーラーとグラスを抱えて、室内に入った。
そしていつも通り、アンバーアイを確認しながら、用心してローテーブルの横に立つ。
その表情は、とても不機嫌に見えた。
 
「…………あッ!」
ローテーブルに各オーダーを並べ終わった途端、手首を掴まれた。
カフスボタンを外され、袖を引き上げる。
 
「……なに……」
 
無言で乱暴な男の動きに、ちょっと怖くなった。
――今日のことで、怒って何かしようと言うのか……
 
でも違った。
ベストのチェーンとシャツのボタンを外して、襟元をはだけると、首や胸を確認するように覗き込む。
 
「……今日はチーフに、寵愛を受けなかったようだな」
 
掴んでいた僕の胸ぐらから手を離すと、小馬鹿にしたように笑った。
 
「…………!!」
 
―――寵愛!? ……そんなこと、今、確認したのか!?
 
もの凄い辱めを受けた気がした。
僕が誰と……ムリヤリだろうが……何かしたか、何かされたか……
そんなの、コイツに確認される謂われは無かった。
 
「貴方に、関係ないでしょう!!」
シャツの首元を押さえて、怒鳴りつけた。
 
「僕が身体に何を付けてようが、そんなの、僕の勝手です!」
だいたい、チーフに襲われたのだって、コイツが原因なのに! ……寵愛って、なんだよ!
 
今日は幸い、チーフと二人きりにならなかった。
勤務時間中に老人と会っていた僕は、すっかり時間をロスしてしまい、休憩時間がなかったからだ。
 
「……………」
男は何も言わず、薄く笑っただけだった。
ソファーに戻ると、乱暴に腰を沈めている。
 
その姿を確認しながら、僕は制服の乱れを整えた。
―――切り出すなら、今だ……。
カフスボタンを嵌め直しながら決心して、横目で男を見た。 
 
「……今日、”白髪の老紳士”に会いましたよ」
 
思った通り、男の顔色がサッと変わった。
 
「…………」
何も言わない。 
 
「貴方のこと、訊いてみました」
「―――――」
「変なこと言うと、クビにさせるよ……と、脅されました」
 
斜め後ろの重厚な扉をチラリと見てから、青ざめた男の顔を、真っ直ぐに見据えた。
 
「このあいだ聞こえたうめき声…あれは、あの老人ですよね……」
「……………」
「その奥で、寝ているんですね?」
 
「…………だったら?」
押し殺したような、低い呻き。 
 
 
……やっとだ…… 
やっと、扉をまた一つ、開けることが出来た。
老紳士に質問しようとした時みたいに、心臓が高鳴り出す。
  
 
「なんで……内緒なんですか? ……何故、こんなにも秘密になっているんですか……貴方のこと」
 
 
その時、扉の奥から、またあの呻き声が聞こえた。
この間よりはっきりと……そして、その声は誰かを呼んでいた。 
 
「…………!!」
地獄から這い上がってくる声のようで、僕は思わず振り向いて、扉を見つめた。
視線を戻すと、蒼白になっている男がいた。
 
青ざめるどころじゃない。
真っ白になって、どこを見ているか判らない視線を、宙に彷徨わせている。
 
――――?
 
前回もそうだった。
この男らしからぬ、異様な取り乱し方……
 
男がゆっくりと立ち上がった。
 
「―――!」
一端伏せて、持ち上げたその顔は……
琥珀の双眸は暗く鋭く光り、身体全体からは鋭利な刃物のように…触れたら切れそうな気を発し始めていた。
 
「…………」
一変した男の様相に、僕は動けなくなってしまった。
 
「あッ――」
近寄ってきた男に手首を掴まれて、狼狽えた。
―――恐い……!
触れられた瞬間、ビリッと電気のような痺れが、全身を走り抜けた。
「――イタッ……」
男は今までにない乱暴さで、リボンタイを首から抜くと、僕の両手を縛り上げた。
「や……やめッ………」
そのままベッドの横まで引きずられて、絨毯に押し倒された。
そしてそのベッドの前脚に、括られてしまった。
 
―――なに……!?
 
 
「そこで待ってろ」
立ち上がった男は、無表情で僕を見下ろした。
「あの部屋で何が起こっているか……その耳でよく聞くんだな!!」
 
 
言い捨てると、奥の扉を開けて、中に入っていった。
 
 
音もなく閉まる扉。
 
 
 
その開いた一瞬にも……地獄からの使者のような、呻きが聞こえた。
 
 

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