真夜中のページ・ボーイ
 
16. ダブル・シグナル
 
 ────はっ……!?
 
「……何、言ってん……」
 
 
 
 
「おまえ、ヘルプだろ」
 
 
 
 
 …………ヘルプって……そうだけど……
「……それは……ホテルの助っ人応援で……」
 
 ───あ……
 僕の脳裏に、微かに蘇った言葉……
 
 “おまえが、ヘルプだって言うから……”
 
 あの時、僕が眠りに落ちる直前に、コイツはそう言っていたんだ……
 “なんで僕なんだ”って、訊いたとき──
 
 
 
「……助けろ……?」
 
 
 
 ……僕が助けを、欲しがってんのに……
 胸の中で、呼吸を確保しながら訊いた。
 締め付けてくる腕の力が、尋常じゃない。
 
 
 
「俺を受け入れて、俺の側にいろ」
「─────!!」
 
 
 
 なに、言ってんだ──
 ……受け入れてって…………はぁ!? ……それ…どういう………
 僕は怒りで、耳まで真っ赤になるのが判った。
 そんなの、有り得ない──!
 ……しかも……
 
「何もかも、秘密で!? 何も知れないまま!? ……勝手なことばっか言って!」
 
 コイツの言ってること、無茶苦茶だ!
「冗談じゃないよッ!!」
 
 
 
 僕は太い腕の中で、力一杯藻掻いた。
 やっぱコイツ、おかしい!
 僕の中の、別のモノが、警報を鳴らし始めた。
 
 “コイツは危険”と点滅する警報の中……なぜか僕を引き止めていた、不可解なシグナル。
 僕のセンサーに引っ掛かっていた、もう一つの何か。
 ……今度はそれが、危険信号を発し始めた───
 
 
 ───痛ッ……!?
 
 
 手首をひねり上げられて、僕は抗うのを止めた。
 その掴み方に、妙な違和感を覚えて…… 
「…………?」
 見上げたすぐそこに、琥珀の双眸が僕を見下ろしていた。
 
 その眼の色は……判らない……余りに、無感情すぎて…………
 
 ─────くそっ……!!
「離せよ! ……僕はごめんだ!!」
 心臓が早くなっていく。
 なんでこんなに、焦ってんだ……僕……!
 
 
 
 
 
「ゴーストだと……言ったろ」
 
 
 
 
 
 押さえ付ける身体とは、反比例した掠れた声……。
「─────」
 
 
「幽霊である俺には、……名前も実体もない」
 
「…………?」
 いきなり切り出した言葉に、反応出来ない……
 何を……喋り出したんだ…………?
 無感情の瞳は、僕を見ているようで、映してはいなかった。
 
 
「……あれは、あくまでも “河霧八雲” が書いていて──それは、アイツの名前だ」
 
 ………………?
「わかんない……何、言ってんだよ……」
 
 
 
 
「俺は……アイツの飼い殺しの、ゴーストライーターだと言っている」
 
 
 
 
「ゴースト……ライター……?」
 
 
「もう何年も、アイツの本の中身は、俺が書いている……」
「…………」
「でもそれは、絶対に秘密だ。天下の中埜御堂都が、実は全てを愛人に書かせているなんてバレては、とんでもないことになる」
 ───愛人?
「なに……それ……」
「強いて言うなら、俺の立場は……それだからな」
面白くもなさそうに、嗤った。
「……ゴシップは、その言葉で “中埜御堂都”の恥晒しを、よってたかって書き立てる」
「…………!」
 
 
 ……ゴーストって……そういうこと……
 実体のない、幽霊……って………
 
 
 
「…………」
 ……え? ……でも……
「さっき、なんて言った? ……河霧八雲は……!?」
 パニックになりながら、また聞き返した。
 男は、顔を顰めて口の端を上げると、反吐でも吐くように言い捨てた。
 
 
「それこそが、“中埜御堂都”の最大の秘密さ……」
 
 
「………………」
「清廉潔白な歴史小説家。……時代考証文学、映画、エッセイ、ゲストコメント───
 そんな堅苦しい仕事に囲まれて、息苦しくなったヤツは……」
 
 
「河霧八雲の名前で、ポルノも書き始めたんだ」
 
 
「────!!」
 
 
 ──────え……
 中埜御堂都と、河霧八雲が……同一人物……!?
 
 
 頭が、ついて行かない。
「じょーだん……」
 掠れた声で、それだけ絞り出した。
「…………」
「ウソ言うなよ……」
 あの壮大でお堅い歴史小説を書くような作家が、あんな乱れたイヤらしいモノを書くなんて……
 あまりにも、イメージが違いすぎる。悪い冗談としか、思えない……
 
「俺だって、最初は冗談かと思ったさ」
 冷たく冴え冴えとしていた瞳が、揺れた。
「憧れの、偉大なる大先生に弟子入りした俺が……アイツに手込めにされるまではな!」
 
 ────────!!
 
「純真な、文学を愛する青年たち……俺も、大先生に近づきたがる若い奴らの一人だった」
「………………」
「弟子入りしたまま囲われた俺は、テイのいい玩具……ストレスの捌け口にされたってわけだ」
「………………」
「始めは、夜の相手ばかりさせられていた……でも、アイツはそのうち楽しようと考え出したんだ」
 男は、辛そうに唇を噛み締めた。
 
「俺に……河霧八雲になれと、言った……」
 
「…………!」
 知らずに、息が詰まった。
 
「アイツ、俺に自分の濡れ場を書けって、命令しやがった」
「…………そんな……」
「散々痴態をネタにされていて……それだけでも、悔しいのにな」
 
 琥珀の双眸が、揺れた。
 あの、寂しげな翳りを見せて……
 
「いつか腹上死するんじゃないかと思うくらい、毎晩激しくて……でも……いい加減、歳を重ねるにつれ、いろいろ億劫がるようになった。執筆も、夜の方も───だから……」
「………………」
「代わりに書くぐらい、いいかと思った。それで、アイツの性から解放されるなら……」
 
 
 それ以上は、口を噤んでしまった。
 ……聞かなくてもわかる……まだ繰り返されている、悪魔の宴……
 その声を、僕は自分の耳で聴いたのだから───
 
 
 ────でも……
「なんで逃げないんだよ? あんた、自由に外、出歩いてんじゃん!!」
 そんな目に遭って……!
「……なんで、毎晩ここに帰るんだよ!?」
 
 逃げない理由が判らない。
 僕だって、この10日間でボーイすら辞めようとしてるのに!
 
 見上げた琥珀の宝石が、ギラリと凶暴な輝きを放った。
「───────!!」
 また思わず、息を呑んだ。
 
 
 
「お前には、わからない」
 
 
 
「──────」
 
 
 
「陵辱され続けて、恐怖を植え付けられて──隔離された世界で、何年もアイツの相手だけをさせられた」
 
 
「………………」
「アイツの代わりに書けと強いられて、俺は自分の名前を失った……」
 
 
 
 
「今更……逃げ出して、どうする……」
 黄金の眼がギラギラと光り出す。
 不穏な光を孕んだそれは、もうどこも見ていない──
 
 
「俺は……待ってるんだよ、アイツがくたばるのを!」
「………………!」
 
 
「本業の歴史物まで、俺に書かせるようになった時から……俺は心に決めたんだ」
 
 ───震えている…………腹の底から、絞り出す声。
 
「いつか、成り代わってやる! アイツと入れ替わって、俺が中埜御堂都になってやるってな!!」
 
「もう作品は、どっちも俺のモノになっている! あとは、アイツがくたばれば全てが手に入るんだ!」
 
 男は声を上げて、笑い出した。
 
 
 
 
 ───狂気……
 
 
 
 
 その瞳の奧に隠された暗い光は、救い様のない狂気に満ちていた。
 ゲラゲラと笑い続けるその声は……その顔は、僕にはちっとも笑っているようには、見えなかった。
 
 狂気に顔をゆがめて、獣が叫び続けている──
 その咆哮は……あの悪魔の雄叫びに似ている──!
 
 
「……や……!」
 僕は耳を塞ぎたくて、再び腕の中で身悶えた。
 ───聞いてられない……!!
 
 
 これだ……これだったんだ!!
 僕が感じていた、危険信号───
 初めてエレベーターの中で見た時に、本能が嗅ぎ取った恐怖。
 まだその警報は、鳴り続けている。
 
 ──コイツは、キケン、キケン、……危険……!!
 
 それが一際、頭の中で大きく鳴り響いた。
「─────ッ!」
 振り解いた手で両耳を塞いで、硬く目を閉じた。
 男の笑い声も、うるさいレッド警告も、頭の中から追い出したかった。
 
 
 
 ───怖い……!
 あまりに強烈な負の激情に、身体の芯から震えが来た。
 なんで……なんで、逃げなかったんだ…………僕は……!
 後悔が、胸を過ぎる。
 
 
 
「もういい…………」
 ──もう、やめろ……それ以上、嗤うな……
「わかったから……」
 
 
 
 僕は、泣いていた。
 恐怖のせいか、それとも……
 この男が、笑えば笑うほど、僕の胸は締め付けられた。
 
 
 
 なんでなんだ……この男の何かが、僕の琴線に触れる───
 
 
 
 腕の中で頭を抱えて泣き続ける僕を見て、男はやっと狂気を収めた様だった。
「…………」
 耳を塞いでいた僕の手を退けると、顔を覗き込んできた。
 
「……んっ」
 顎を捕らえ、唇を重ねられた。
 ……僕を知り尽くした、巧みなキス──
「…ん……んん……」
 生温かい舌が、奧の奧まで探ってくる。
 反対の手が、身体を這い始めた。
 さっきとは全然違う動きで、胸の中心を撫で回す。
 
 ぴくんと、身体が揺れてしまった。
 ───また、笑われる……
 そう思って、キスされたまま薄目で睨み付けた。
 
 …………あ
 
 僕を見ている。
 寂しい琥珀が、ずっと僕を見ている……。
 ──キケン…キケン…──鳴り続ける、もう一つのシグナル。
 ズキンと、心臓が痛くなった。
 
 


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