chapter3. blank time -空白-
1. 2.
 
 1
 
 僕は泣いていた。
 
 
 
 真っ暗な部屋、広いベッドの上で。
 
 うずくまって、ただ涙を流して。
 抱えた膝の間に、はたはたと滴が落ちていく。
 
 
 ──克にぃがいない………。
 ──克にぃが、帰ってこない……。
 
 
 僕にはそれが、信じられない。
 いつだって側にいて、ずっと一緒にいるよって言ってくれて。
 
 抱きしめて。
 キスして。
 朝も夜もずっと一緒にいてよ。
 こんな急に、いなくなるなんて。
 
 
 「克にぃ……」
 抱えた膝をきつく抱きしめる。涙が止まらない。
 
 
 
 
 昨日の夕方、帰ってきたとうさんが、いきなり言った。
『今日から克晴は帰ってこない。大学に専念するから、下宿したんだよ。ここにいつ戻ってくるかは、まだ未定だ。何年先になるか判らない。恵ももう大きくなったから、自分のことは一人でできるな?』
 
 急なそれに、全然意味がわからないまま、僕は1人廊下に取り残された。
 
 学校に迎えに来てくれなかったから、おかしいと思ってたんだ。
 前に、ふっといなくなっちゃって、なかなか帰ってこない時を思い出していた。
 あの不安がまた過ぎっていた。
 でも、あの時は帰ってきてくれた。抱きしめて、キスして、ずっと一緒にいるって言ってくれたんだ。ごめんて、謝りながら。
 …………ずっと一緒にいるって。
 でも本当に、夕ご飯の席に、克にぃの姿はなかった。
 ぽっかり空いた克にぃの席。僕に給仕をしやすい位置に、それはあった。
 
 とうさんはそれ以上、何も言わない。聞くことを許されない空気を、纏っていた。
 かあさんも…とうさんが言わないことは、何も教えてくれない。 
 
 それでも、夜には帰ってくると思ったのに。
「メグ、ごめん!」
 て、抱きしめてくれると思っていた。
 だから僕は、ずっと窓際に蹲って克にぃの帰りを待っていた。
 ……僕はまた、動けなくなってしまった。
 克にぃしかいないのに。
 克にぃがいるから僕は動く、克にぃめざして僕は歩く。僕の世界は、克にぃ向かって続いている。
 笑うのも、話すのも、目線も。みんなみんな、克にぃを捉えるためだけの機能だった。
 
 でも、どんなに待っても、帰ってこない。時計の針は、次の日に変わっちゃったのに。
 ……克にぃ
 心の中で、呼んでみる。
 なんで帰ってこないの……。
 
 
 ……とうさんの言葉………動く口……見つめて……
 克にぃ…夕ご飯にいないなんて……本当に隣に座ってないなんて───!
 
 
 目から涙が零れた。
 ……僕の隣が寒いよ。克にぃの体温が無いから。
 なんで? …なんで、突然ここにいないの……?
 涙が伝い続ける。僕はそれを拭えない。
 だって、克にぃが僕を泣きやませてくれてたんだ。
 心配ないよって、抱え込んで、大きな手のひらで頬を拭って。
 
 
 
 
 帰ってきてよ……早く、帰ってきて。
 それだけを思い続けて、窓際で蹲っていた。朝までずっと。泣き通して眠れなかった。
 一人のベッドが、広すぎて。
 
 なんで……
 なんで…克にぃ。
 
 朝、僕の横に克にぃがいないなんて。
 
 
 
 
 泣き続けて動けない僕に、とうさんが言う。
『一人でも、学校に行きなさい』
 
 僕は、無理矢理ポーチの外まで送り出された。
 でも、足が動かない。だって、克にぃが帰って来るかもしれない。
 僕が居ない間に、帰って来るかも知れないのに。そう思うと、ここを離れられなかった。
 
 ……でも、もしかしたら、校門に来てるかもしれない?
「メグ、ごめんな」なんて言いながら。そうだ、きっとそうだ。
 僕の足は、やっと歩き始めた。
 
 でも、校門に克にぃの姿は無かった。
 ………克にぃ。
 呆然と立ちつくす僕に、他の子達がぶつかっていく。あんまり邪魔だったのか、突き飛ばされてしまった。
 でも僕には、何も感じなかった。尻餅をついたまま動けない。痛みもない、音もない。
 
 僕の心はもう、克にぃしか、追っていなかった。
 
 克にぃがいない。
 ……いない……いない。なんで? なんで?
 僕には、わからない。
 メグって、なんで呼んでくれないの。どうして、ここにいてくれないの。僕はこんなに、克にぃを呼んでるのに。
 何も見えない目から、また涙が出てきた。
 
「天野!!」
 誰か何か言った。
「何やってんだ、こんなとこで! 授業、始まるぞ?」
 僕の耳は克にぃの声しか聞こえない。
 僕の頭は克にぃの……
 僕の……
「おい、天野!?」
 僕を覗き込んだ影が、腕を掴んで引っ張る。
 でも、僕の身体は動けないまま、引きずられてしまった。
「……チッ、ちょっと待ってろ! そこ動くなよ!」
 声はそう言って遠ざかったようだった。
 
 
 
 
 
「……………」
 目が覚めると、保健室だった。
 天井と蛍光灯。最近僕は、こういうことが多い。よく目にするようになった風景だった。
 なぜか保健室で目が覚めるんだ。来た覚えはないのに、その前のことは、ちっとも覚えて無いんだ。
 
「天野くん、起きた?」
 衝立カーテンの隙間から、桜庭先生が顔を覗かせた。
「先生……」
 僕は、身体を起こした。先生はゆっくりとベッドに近寄り、縁に腰掛けた。
「……ぼくが、わかるね?」
 優しく、僕の頬に手を触れた。
「………?」
「さっき君はとても酷い状態で、ぼくのことも丈太郎のことも、わからなかったんだよ」
「あ……」
 その言葉で、僕の意識ははっきりとした。
 思い出した。克にぃがいないんだ。
 
 僕の顔は、また歪み始めた。
 桜庭先生の手が、両手で頬を挟み直す。正面から、目を覗き込まれた。
「何があったのか、……教えてくれる?」
 優しく微笑む。
 ……手のひらがあったかくて。
 優しい空気が、克にぃに似てるから。僕は、気が弱くなっちゃったんだ。
「克にぃがいない……帰ってこないの」
 ぽろぽろと、涙が零れる。
「? お出かけ? ……それとも、引っ越しとか?」
 先生はちょっと目を丸くして聞き直した。
「わからない……」
 首を横に振った。
 僕だってわからない。僕が教えて欲しいよ、ほんとのこと。
 だって克にぃから、直接聞いてないんだ。
 急すぎて、いきなりいないから。僕は……僕の心は、それについて行けない。
 
 克にぃが、わからない。
 ずっと一緒だよって言ったのに。僕はそれを信じてた。
 僕を待ってるって。克にぃだけ大人にならないで、僕を待ってるって。
 そして、一緒に歩こうって。そう言ってくれたから、僕は一生懸命大人になった。
 克にぃに追いつきたくて。独り、置き去りにされないように。克にぃが、どこかへ行ってしまわないように。
 
「……かつにぃ………」
 首を横に振りながら、呻いた。
 僕の目はまた見えなくなっていく。克にぃの姿を追って、過去へと遡っていく。
「あいたい……あいたい……」
 なんで? なんで? 
 僕を置いてかないで。どこにいるの。もう、僕を呼んではくれないの。
 メグ……メグって……優しく呼んで。抱きしめて……抱きしめてよ……。
「かつにぃ……かつにぃ……」
 うわごとのように、ただ繰り返した。
 呼んでさえいれば、いつか応えてくれるんじゃないか。泣いていれば、どこからか飛んできてくれるんじゃないか。
 僕の心は、そうしていないと、壊れそうだった。もう何も見えない、何も聞こえない。自分の声さえも。
 
「……かつにぃ、かつにぃ! かつにぃ! ────んっ」
 叫び出した僕の唇が、不意に塞がれた。
 何かが口の中に、入ってくる。僕の中で、それは動き回った。
 ……克にぃ? 克にぃのキスなの?
 僕は、夢中でそのキスに縋った。
「────っ!」
 …や……違う! …こんなの、克にぃのキスじゃない!
 そう気が付いた瞬間、僕は意識を取り戻した。何かわからないものを、突き飛ばした。
 
「───!! なに……今の、せんせい!?」
 手で口を押さえて、目の前の人を見る。
「……なんでっ…」
「……ぼくが、見える?」
 桜庭先生は、また同じ事を聞いてきた。ほっとした顔をしている。
「天野君が、また何も見えなくなっていきそうだったから、……強引に呼び戻しちゃった。ごめんね」
「……………」
 僕は驚いていて、何も言えなかった。
 克にぃじゃなかった! ……その、悲しみと。
 ……それから…
 
 ────このキスを、僕は知っている。
 
 そのことに、衝撃を受けていた。
 前に、霧島君にもキスされたことがあった。でもあれは、触れるだけのキスだ。
 そして、克にぃ以外の人と、僕が大人のキスをするはずがない。
 ……なのに。なのに……なんで?
 僕はゾッとした。
 
 克にぃがいない。
 克にぃじゃないキスを、僕は知ってる……
 なんだか、急に訳のわからない事が有りすぎて……。
 得体の知れない何かが起こり始めているようで、怖くなってしまった。
 


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