chapter5. lost world 2 -届かない声-
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 2
 
 放課後の校門。今は時間が遅くて、あまり生徒もいない。
 僕はもう、傷つくことを恐れるようになっていた。
 期待を打ち消して、それでも視線を走らせる。
「……………」
 黙ったまま、二人で校門を抜けた。
「天野、俺んちこないか?」
 僕は霧島君を見た。
「せっかく自由になったんだぜ。遊びたい放題じゃん」
 にやっと笑ってみせる。
 ………そうか。そんな考え方もあるんだ。
 友達と遊んじゃ駄目。外出も駄目。ダメダメづくしだったんだ、僕の学校以外の時間は。
 でも……そんな気分になれるはずもなく、僕は首を振った。
「……あの部屋には、いない方がいいと思うんだけどな」
 霧島君は小さくそう呟くと、淋しそうに笑った。
 ───ごめんね、霧島君。
 胸がきゅっと痛くなった。いつまでも心配を掛けてしまう。
 でも、……まだ待ってる。僕はまだ待ってるから、他のことをする気になれないんだ。
 僕を家まで送り届けると、心配そうに振り向きながら霧島君は帰っていった。
 
 僕は広くなってしまった部屋に、足を踏み入れた。
「……………」
 “ここには居ない方がいいのかも”
 ベッドに身体を倒した。突っ伏したまま動けない。
 ───そうかもしれない。思い出が、匂いが、ここにはありすぎる。
 でも……まだ、感じていたい。ここに居た克にぃを。
 
 身体がとても疲れていた。克にぃとは、こんなに疲れたことがない。僕に絶対無理させないからだ。
 
 『明日もおいで』
 
 呪いの言葉のように、先生は僕に繰り返す。
 
 ………克にぃ…
 ………助けて…
 
 あの時見せられた写真が蘇る。
 ────っ!
 その映像を打ち消したくて、突っ伏したまま顔だけ反対に向けた。
 ………言えない。霧島君にも、担任の先生にも。………両親にも。あんなの、見られたくない…!
 
 僕はまた、涙だけ流して一晩を過ごした。
 
 
 
 翌日の放課後、僕は一人で保健室に行った。
 克にぃが帰ってこなくなって、今日で6日目だった。
 
 僕は克にぃがいなくても、生きてる。歩いてる。それが不思議だった。
 今は、僕自身が僕を守っていないと……壊れる。克にぃがいないだけじゃ、済まなくなる。
 僕に起こっている、今までに遭ったことのない恐怖と束縛。その状況が、反対に僕を強くさせていたんだと思う。
 
「来たね」
 薄く笑う桜庭先生。手招きして、僕を引き寄せる。
 克にぃみたいに優しくて………僕は大好きだったのに。悲しくなって、その顔を、じっと見上げた。
 先生は優しく微笑み返すと、僕のあごをそっと上に向けて、唇を重ねてきた。
 僕はそれを受け容れる。これは始まりの儀式。身動き一つしないで、それに耐えた。
 
 好きで好きでたまらない人にするキス、真剣なキス…おとなのキスを、そう克にぃは教えてくれた。
 だから僕は、克にぃと大人のキスができて、本当に嬉しかったんだ。
 愛してる…そう囁きながら、……何度も何度も。
 
 桜庭先生のこれは、………ウソだ。こんなの真剣なキスじゃない。
「丈太郎には、なんて言ってきたの?」
 唇を離すと、両手に僕の頬を挟んで訊いてきた。温かい先生の手のひら。今はもう、怖いだけだ。
 喋れない僕は、視線だけ反らした。
 “昨日と同じ事、するだけ。すぐ済むから、霧島君はここで待ってて”教室で、ノートにそう書いて伝えた。一緒に来て欲しくなかった。
 保健室の外で待たれても、昨日みたいにすぐにここを出されたら、僕は対応できない。平気な顔なんて、できないから。
 昨日追い返されてるから、霧島君も強引に付いては来なかった。
 
「さあ、天野君……」
 ───先生の手が、僕にのびてきた。 
 
 
 
 
 
 
「天野! 大丈夫か?」
 心配そうに駆け寄ってきた霧島君が、僕を支えてくれた。
「…………」
 僕はただ頷く。………つらい。教室にたどり着くのはとても大変だった。
 桜庭先生の行為は、僕を引き裂く。嫌なのに、無理矢理身体だけ気持ちよくするから。
 行きたくてあそこに行ってるわけじゃない。それなのに、喜んでいるじゃないかと笑う。
 身体も心も傷付けられた。そしてまた、写真を撮っては、僕を恐怖させる。
 
 ………霧島君……。
 
 言うに言えず、下を向いた。
「なあ、今日は俺んち、来いよ」
 僕の様子が変なことに気付き、心配してくれた。
「……………」
 僕は、小さく首を横に振った。支えてもらわないと、歩けない。こんな身体で遊びに行っても、もっと心配させるだけだと思った。
 
 
 
 部屋に戻ってベッドに横になっていると、身体の痛みが心を重くする。辛いことばかり考えてしまった。溜息を付くたび、時計を見た。針はちっとも進まない。
 天井には、丸くて平たい照明。保健室の長いのとは違う……。
 こうやって僕が寝て、横から笑顔が覗き込んで……メグ……優しい声が耳もとで……。腕で、目を記憶と一緒に覆い隠した。
 
 
 ……やっぱり、行けばよかったかな。
 
 秒針のカチ…カチ…という音だけが、部屋の中に響いている。
 浮かんでは消えていた克にぃの顔に、霧島君の顔が重なった。
「────」
 会いたい……な。
 さっき別れたばかりなのに……側にいて欲しいと、思ってしまった。
 だんだん、居ても立ってもいられなくなった僕は、のろりと身体をベッドから起こした。
 “なにかあったら、ここに電話しろ! これ、俺んちの電話番号”そう言って、一片のメモを僕に握らせた。
 ……電話。
 随分前に一回だけ。克にぃに教えて貰って、一回だけ練習で掛けたことがあった。それ以外、僕は触ったことがない。
「…………」
 ポケットからメモを取りだして、手のひらに握った。
 未知のことをするとき、僕は大人の仲間入りをする気がして、嬉しくてたまらなかった。一人で新しいことが出来たとき、自分がひとつ大きくなった気がするんだ。
 それは、克にぃへ近づく大事な一歩。僕は、何をするにも楽しくてしょうがなかった。
 ……今は、誰のために僕は成長するのだろう。
 
 リビングの絨毯の上に電話機を下ろし、それの前に座り込んで、見つめ続けた。
 僕は霧島君の家の場所を知らない。会いたくても、会いに行けない。……だから、これしかないんだ。
 怖々、受話器を持ち上げた。メモに書いてあるとおり、ボタンを押す。呼び出しベルが鳴り始めた。僕はドキドキして、それを聞いていた。
『───はい、霧島です』
「!!」
 心臓が、跳ねた。
 霧島君だ! うわ! どうしよう………。
 受話器を持つのも、耳に当てるのも不慣れで、この声が途切れてしまうのではないかと、焦った。
「…………っ」
 霧島君! そう言ったつもりだった。
 ───あっ!
 そんな……。何度やっても、ひゅうひゅう鳴るだけの喉。
 ……声が……伝わらない。それが“電話”のすべて。そんなことさえ、僕は分かってなかった。
『もしもし……もしもしっ?』
 受話器の向こう側で、霧島君の声が叫んでいる。
 僕も叫ぶ。
 ───霧島君! 僕だよ!
 両手で受話器を握りしめて、一生懸命口を動かす。
『もしもーし!? ……なんだよ、悪戯か…』
 霧島君の声が、小さくなっていく。
 あ……待って! やだ、やだ……僕は夢中で声を出した。
「ひーっ!」
「ひーっ!」
 変な音を立てるだけだ。それでも、僕は叫んだ。
 ───霧島君、僕だよぉ!
 これが切れたら、すべてが終わってしまうような、取り残されてしまうような切迫感が僕を襲っていた。
 お願い、置いてかないで! 
 胸がきりきり痛む。伝わらないもどかしさが悲しすぎて、どんどん苦しくなる。泣きながら、空気を吐いた。
 おでこを受話器にこすりつけて、祈るように掠れた音を出し続けた。
 
『………天野!?』
 
 ふいに霧島君の声が大きくなった。 
『おい、天野なのか!?』
 僕は、その声をきいて、泣きじゃくってしまった。
 声は出ないけど、涙と鼻水を垂らして、しゃくり上げる。消えきらない不安と、安心感で、胸の締め付けがさらに激しい。
『天野! 今からそっち行くから!』
「……っ、………っ!」
 応えたい、返事がしたい!
『家にいんだろ? 動くなよ、そこにいろ!』
 ガチャン、と音を立てて、それはいきなり切れた。
 ツーッという音だけが響く。僕は受話器を胸に抱えて、絨毯に突っ伏した。
「────ッ」
 新たな涙が流れる。
 分かってくれた。……分かってくれた!
 胸が熱かった。霧島君に感謝の言葉を繰り返す。よかった、よかったよぅ! 霧島君、気づいてくれてありがとう…僕、嬉しいよ───
 
 興奮が冷めるまで、僕は受話器を胸に抱えたまま、絨毯に前屈みで突っ伏していた。
 ツーッ、ツーッという単調な電子音に変わったその音を、じっと聞き続けた。
 
 ………もうすぐ、来てくれる。
 ゆっくり顔を起こした。早く会いたい。僕はただそれだけを思った。
 
 僕はたぶん、霧島君に克にぃを重ねたんだ。
 桜庭先生に……克にぃと同じ匂いのする先生に、裏切られた。
 だから、今度は克にぃに似ている霧島君に縋ってしまったんだ。でも僕は、その時は必死だったから、そんなことには気付かなかった。
 


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