1.
 
「えーっっっ!! またこれ!?」
 
 僕は初っぱなから、ぶー垂れた。
「この間の、えげつないのとは違うぞ。もっとストレートだ」
「嫌だ!」
「おい」
「嫌!!」
「巽!!」
 最後はもの凄い目で睨まれて、僕がその気迫に恐れをなしてしまった。
 でも、本当に嫌だった。
 
 今日は、1月5日。新年初、しかも光輝さんと、4ヶ月ぶりの仕事。
 窓の外は、すがすがしい冬の朝焼けが、何処までも広がっている。
 こんな朝に、久しぶりに光輝さんと二人っきりなんて。
 本当は、とっても嬉しくて、めちゃくちゃ感動的なシチュエーションなのに……。
 
 お正月を社内で過ごした僕は、特別年越らしいこともせず、新年を迎えた。
 社ビルの外にマンションを寮として借りてくれる筈だったのだけど、その話はいつの間にか、立ち消えになっていた。
 ビルの外に行く必要もない僕は、すっかり世俗と切り離された生活を、送っていた。
 だから、”外”に行くのもちょっと怖かった。
 
 僕はベッドの真ん中に正座して、光輝さんを睨み付ける。
 光輝さんはベッドの端に腰掛けている。
 今日は真っ白い開襟シャツに真っ黒のスラックス。営業用スーツの名残だろうか。
 真っ黒の髪と瞳にはよく似合う。
 ……やっぱ、格好いいなぁ。
 シャツの前はボタンを2つ開けているので、鎖骨と胸板が少し見えて、色っぽい。
 ……久しぶりに、じっくり見れる。僕は、自分の置かれている状況を忘れ、暫し見惚れた。
 
 僕の視線に力がこもらなくなって、光輝さんは怪訝な顔をした。
「おい、放心してんのか? ……そんなに嫌か?」
 ちょっと心配げな表情が、僕に迫ってくる。
 僕はドキドキしてしまった。どうしよう。
 
 実のところ、光輝さんにどう接していいのかわからないでいた。
 ただ、僕がこんなにも光輝さんにときめいてしまうことは、誰にも絶対に内緒だ。
 これだけは守らなければ、僕の就職安定と、光輝さんとずっと一緒の生活を壊すことになってしまう。
 平静を保つんだ。今まで通り。光輝さんに触れられても、なんでもないんだと……。
 
 
「うん、本当にやだ。そんなの付けて、しかも、”外を歩く”なんて! 社内でも十分広いと思うのに」
 僕はそこも引っかかっていた。
 だって、嫌なことは嫌って言えって、光輝さんが言ってくれた。
 睦月さんは聞いてくれなかったけど、光輝さんは自分で言ってるんだから、約束は守らなきゃ。
「まあな……。俺も外に行くのは……そこまでは、ちょっと」
「?」
「あ、いや、なんでもないよ」
 光輝さんは、僕の腕を捕まえると強引に抱き寄せた。
「あ……!」
 僕の両手首を掴み、自分の顔の前まで引っ張り上げる。
 僕は焦った。こんな風に捕まれて、側に寄せられたら、ドキドキが止められない。
 顔がどんどん紅くなっていくのが、わかる。
「……治ったな。良かった。痕が残らなくて…」
「………はい」
 手錠の傷跡……。心配してくれてたんだ。
 嬉しくて、顔を上げた。掴まれている手首越しに光輝さんを見つめた。
 顔が近い。優しい視線にぶつかった。
「………ッ」
 見惚れた僕は、膝起ちで無理な体勢だったため、よろめいてしまった。
「──巽!」
 斜めにベッドに倒れた僕を、光輝さんは背中から掬い上げてくれた。
 そのまま首に顔を埋めるように押し付けてきて、背後から抱きしめられた。
 僕は心臓が飛び出して、目覚まし時計の様に鳴り出すんじゃないかと思った。
 
 聞こえませんように。
 このドキドキが。
 
 ……ああ、光輝さんの匂いだ。
 さらさらの髪の毛。シャンプーの匂い。
「……お前の匂い、久しぶりだ」
「え……」
 僕はビックリした。同じ事思ってたなんて。
 首筋に押し付けながら喋る唇が、くすぐったい。
「本当に久しぶりだよな。……謝りたかったんだ。お前に」
「……光輝さん」
「ほっぽり出して、悪かったな。俺が連れてきたのに……」
 光輝さんの声。響くバリトン。
 これをまた、こんな近くで聞けるなんて。
 
 
 鳥が一羽、窓外を横切った。一瞬、影が差す。
 目を向ければ、澄み渡った冬の空。
 薄い水色が、どこまでも広がっている。
 柔らかい光が室内の奥まで差し込む。
 物音の一切しない、静寂の部屋に。
 光輝さんは、ベッドに腰掛けたまま、背後から僕を抱きしめて、ぴくりとも動かなかった。
 僕も抱きしめられたまま、体重を光輝さんに預けて、じっとしている。
 体温がほのかに伝わってくる。
 息遣い。心臓の音。淡い光。それしかこの世界にはなかった。
 
 この時が、このまま止まればいいのに。
 
 ただこうやって、身体を密着させている。これだけで、他はなんにもいらない。
 誰をどのくらい好きだとか、想いが伝わらないとか……、そんなごちゃごちゃ、必要ない。
 この間エレベーターの中で会った時、あの時もそう思った。
 一目見て。
 
 ああ、大好き。
 僕はやっぱり、光輝さんが大好き。
 
 それだけなんだ。
 一緒にいれればそれで幸せ。こんなに密着できる仕事なんて、他にない。
 僕は幸せの中で、生きていける。
「……泣いているのか?」
 いつのまにか、頬を濡らしていた。
 僕の涙が、光輝さんの腕に滴り落ちていた。
 
 ……ああ、自分で時間を動かしてしまった。
 僕は濡れた目のまま、光輝さんに顔を向ける。
 心配そうな切れ長の目が、僕を覗き込んでいる。
 
 ……涼しげな真っ黒い瞳。
 僕はなんでこんなに、光輝さんが好きなんだろう。
 つい、言いそうになってしまう。
 抱きついて、しがみついて、「光輝さんが好き」と。
 たったさっき、側にいるだけでいいと思ったばかりなのに。
 僕の目から流れ落ちて止まらない涙を、親指で何度も拭ってくれる。
 頬を包む大きな掌。
 光輝さんの手のひら………。
 
 ──光輝さんが好き…
 言いたい。
 伝えたい。
 だけど、……それは幕引きの言葉。
 近くにいるためには、表には出してはならない気持ち。
 
 こんな風に触れてもらえるだけ、……贅沢だ。
 僕は自分の手を、その温かい手の甲に添えた。
 怪訝そうにまた、覗き込んでくる。
 僕は、心配させないように、ちょっと微笑んだ。
 上手く笑えない。口の端を少しだけ上げて、目を細める。
 光輝さんの顔が滲んだ。
 その顔は、眉根を寄せて、顰められたように見えた。
 ああ、失敗しないようにしなきゃ。
 僕が変だと、光輝さんは怒る。
 パターンを掴まなきゃ。
 怒ったあとの後悔する光輝さんを、僕は見たくない。
 
「ごめんなさい。大丈夫」
 光輝さんの手に添えた自分の手に、力を込める。
「……お前、泣き虫な」
 ふっと目が細められて、光輝さんが笑う。
「……ここを、辞めちまうかと思った。ロクでもないこと、いっぱいされたろ」
 僕は真っ直ぐ光輝さんの目を見た。
 貴方がいるのに……辞められるわけない。
 睦月さんも優しかったし。でも、ここで睦月さんの名前を出すのは気が引けた。
「光輝さんこそ……。営業に移ってたなんて。びっくりした」
 姿も見ることが出来なくなっていたんだから。
「光輝さん……煙草吸うんだ?」
 思い出した。エレベーターの中で再会した時、仄かに臭っていた。
「ああ……、営業は喫煙OKだからな」
「ここは禁煙? 単に吸わないのかと思ってた」
「このフロアは全面禁煙。社長が大嫌いなんだよ、煙が」
「………。僕も煙草は嫌いだけど……」
 こんど吸ってるところが見たいな。
 僕の父親は、僕が3歳の時に病気で死んでしまった。その父親がよく煙草を吸っていた気がする。
 それっきり家の中から煙の臭いが消えた。
 だからかな。僕にとって、煙草はオトナの香り。父親のような大人を臭わせるアイテムになっていた。
「もう吸わないよ」
 軽く唇に触れるキス。
「臭わないだろ?」
「………………!」
 不意を食らって、僕は赤面してしまった。
 タジタジになっている僕を太腿の上に抱えなおすと、真っ直ぐに僕を見た。
「はい、お喋りはおしまい」
 にっこり微笑んで、僕のバスローブを剥いでしまった。
「大丈夫。しっかり嵌めて力を入れていれば、そんなにすぐは落ちない。Gパン穿くんだし」
「……………」
「そんな顔すんなって。いざって時は、固定ベルトもあるからな」
「……外はやだ」
「俺も一緒だぞ。二人で外を歩いたことないし。そうだ、昼飯は外で食おうか」
「ええー! 付けたまま?」
「贅沢言うな。奢ってやるから」
 ぽんと頭に手を置く。
「贅沢って………」
 僕は、苦笑いで情けない声を出した。
 光輝さんとお出かけは嬉しい。きっと楽しい。でも………。
 
 
 


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