ベランダの鍵貸します
 

 
 大学で郡司のことを友人に聞いてみると、同学年で、しかもかなりの有名人だったことに名雪は驚いた。
 そして余り良い噂は、なかった。
「郡司ぃ? 名雪、アイツのこと知らないの? 世間知らずにも、程があるぞ!」
 目を丸くして驚かれた。
「アイツと付き合うのは、女か、同レベルの金持ちしかいねえよ。話しが会わなすぎるって!」
 
 ───金持ちで、派手な生活スタイル。鼻持ちならない、気にくわない奴───
 
 最初にそんな噂だけ知っていたら、こんなに自然に鍵を借りられなかったかもしれない。
 ──何で僕なんかに……金持ちの道楽? 暇つぶし?──
 なんであれ、穿った見方しか出来なかっただろう。
 でも、あの時の名雪には、そんなふうに思えなかった。
(顔は一瞬、怖かったけど)
 初めて見上げた時のことを思い出す。
 整った顔が、一見冷たそうに見えた。でも見つめてくる目は優しく感じた。
 
(すんごい、親切だし……やっぱり優しいよ)
 飲み終わった空の缶に、まだその温もりが残っている。
 それを名残惜しむように両手で握り直して、伸びをした。
「よしっ! 今日も張り切って仕事するぞぉ!」
 いくつもバイトをしている名雪は、この後も予定が詰まっている。
 朝から嬉しいことがあって、気合いが入ったのだった。
 
 
 
 
「………」
 喜ぶかな。そんな、軽い気持ちで温めた缶珈琲を籠の中に入れておいた。
 目の前で、両腕にそれを押し抱き、自分に向かってお礼を言った名雪。
 郡司は自分に気が付いているのかと思って、一瞬たじろいだ。
 その嬉しそうな笑顔に、ドキッとしてしまったのだ。
(……こっちは、見えてないのか……)
 溜息をついて、前髪を掻き上げると、そのまま名雪を眺める。
 庭に走り降りて美味しそうに珈琲を飲み終えた名雪は、両腕を上に上げて伸びをしている。また歌いながら、洗濯物を干し出した。
 
 喜んだ名雪を見て、郡司も満足だった。
 毎回日曜の朝は、ホットドリンクを籠に入れるようにした。
 それを見つけて、喜ぶ名雪。
 その様子を見て、満足する郡司。
 
 奇妙な見つめ合い……お互いを見ているのに、認識はしていない。
 
 それは、二人とも気付いていなかったが、幸せな時間だった。
 でも、そんな関係はあっさりと崩れた。
 
 
 
 
 
 
 平日の夕方、郡司は久しぶりに女友達を部屋に連れ込んでいた。
 相手は”彼女”だと勘違いしているだろうが、郡司にしてみれば、その他大勢の一人だ。
 しつこく部屋に来たがるし、最近ご無沙汰だったから、まあいいかという、軽い気持ちだった。
 
「久しぶりね! この部屋は、やっぱり良いわねぇ」
 窓際に立って、庭を眺めている。
「あら、洗濯物……。自分で干してるの?」
「ん? ……ああ」
 郡司は答えるのも面倒で、適当に返事をしながら冷蔵庫からビールを取りだしてくると、ソファーに腰掛けた。
「ねぇ……はやく……」
 その横に座り、首に腕を絡ませてくる彼女に、郡司はキスで応対した。
「ホント、久しぶりよね」
「……そうか?」
「そうよ。他にいい子ができたかと思ったけど、誰に聞いても知らないって言うし」
「……いねぇよ、そんなの」
「ふうん」
 甘えながらキスをねだってくる唇に唇を重ねながら、郡司は何気なく窓を見た。
 
「────」
 
 ふわりとレースのカーテンが風に舞って、外の庭が直接見えた。
 すぐそこに立って、呆然としている青年も。
 
(…………!!)
 
 郡司はうっとりとしなだれかかっている女を自分から引き剥がすと、立ち上がって窓際に向かった。
(何で、窓が開いてんだ……)
 さっき彼女が開けたのを、郡司は知らなかった。
 洗濯物を取り込みに、カゴを取りに来た名雪が偶然その光景を見てしまい、硬直していた。
 
 目の前で自分を見上げたまま、ピクリとも動かない名雪。
 郡司は急に腹が立って、怒りが抑えられなくなった。
「覗くんじゃねえ!」
 見られた気まずさが、そんな事を言わせた。
 覗かれた事を怒った訳じゃない。
 見られたくなかった……何故かそんな気持ちが、先に立った。
 
「────」
 でも名雪は、そんなことは判らない。
 ただ、いきなり目の前で展開されている異次元の出来事に驚いていた。
 艶めかしくソファーで絡み合う、男女。
 ”男”の顔をした郡司と、色っぽい女の子……。そして、いきなり覗くなと怒られて──
 名雪は何も言わずに踵を返すと、そのまま走って帰ってしまった。
 
 
「なあに、どうしたの?」
 急な郡司の行動に、訝しんで聞いてきた。
「…………」
「今のコ、誰?」
「なんでも……悪いけど、もう帰ってくれ」
 怒りが収まらない郡司は、一人になりたかった。
 
「なによ、もう……」
 帰りたがらない彼女を無理矢理部屋から追い出すと、ビールを一気に一缶煽った。
「………ふう」
 なんで、こんなに苛つくのか、自分でも判らなかった。
 
 
 
 
 
 その日以来、名雪は庭に来なくなった。
 日曜の朝、なんとなく待ってみたけれど、やはり来ない。
(あんな、一方的に怒って……悪かったな)
 サンダルを突っ掛けて、ベランダから外に降りてみた。
 主のいなくなった庭みたいに、閑散としている。
(……俺の庭なのに…)
 よく見ると、あちこち手入れされていることに、気が付いた。
 立ち枯れていた雑草などは抜かれ、目隠しの植木の落葉も見あたらない。端々が小綺麗になっていた。
 郡司は、何とも言えない胸の苦しさに、襲われた。
(……名雪……)
 ”覗くんじゃねえ!”と怒鳴ってしまった時。
 一瞬、傷ついたような、泣きそうな顔をした。
 そんなことを思い出して、余計胸が痛くなった。
 
(早く来いよ……謝ることも、できねえじゃねえか)
 
 名雪がどこに住んでいるかも、郡司は知らなかったのだ。
 
 すでに大学は、春休みに入っていた。
 構内で探すわけにもいかず、ただ待つしかなかった。
 洗濯物は自分で干したが、やってみて一回で、止めた。
(めんどくせぇ。乾燥機でいいや)
 どんなに名雪が便利だったかが、今になって判ったのだった。
 
 
(……おもしろくねぇな…)
 
 
 郡司は気晴らしに、時々行く温泉宿に出向いた。
 そこだけは、彼女や友達など誰も連れて行かない、自分だけの温泉だった。
 
「ぼっちゃん、いらっしゃい」
「女将さん、お世話になります」
「いつもながら、急ですこと。連絡頂ければ、もてなしますのに」
 そうは言うけれど、どんなにいきなり来ても、いつも最高級のもてなしをしてくれるのを、郡司は知っている。
「そんな、気を遣わないでいいのに」
「だめです。旦那様にしかられます」
 そう優しく言う女将さんが、郡司は母親のように好きだった。
 小さい頃から一人で来ては、女将さんに世話をやかせて、お湯を楽しんでいた。
 
「お食事とお湯、どちらを先になさいます?」
 もうかなり遅い時間だった。
 調理場も、すっかり火を落としているはずだ。
 急がせないように、先に温泉に入ることにした。
 
 
 脱衣所に、一人分の着替えが置いてある。
(こんな時間に、客がいるのか?)
 最近の温泉は24時間風呂が流行だが、ここは違ったはずだ。
 ガラス戸を引いて、もうもと湯気が煙っている洗い場へ足を踏み入れた。
(…………え?)
 お湯の音と、聞き慣れた優しい高い声。
 
 湯船の中で、誰かがお湯の表面で手を遊ばせながら歌っている。
 
(…………まさか)
 
 
 
 
 
「あ。……違った、違った」
 ぴたりと歌が止まって、クスリと笑う気配。
 
 
 
 
(────!! ……間違いない……あの、駄目出し……)
 


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