ベランダの鍵貸します
5
「…………」
それでも、目の前で無邪気に笑う郡司の顔を見て、安心していた。
(そう言えば、こんな笑顔を見たことは、なかったなあ)
タイミングが悪くて、覗くな! と怒られてばかりだった。
「そうだ」
その笑顔が、急に真っ正面に見下ろしてきたので、名雪はドキッとしてしまった。
右手で前髪を掻き上げながら、自分を見つめてくる郡司。
右側に少し傾げる顎と首のラインが、妙に艶めかしい。
(うわ……セクシー……)
目を薄目にして視線を寄越す仕草が色っぽくて、まともに目が合わせられない。
「明日、一日付き合えよ。女将には言ってやるから」
「────!!」
その一言で、名雪の気持ちはいっぺんに冷えてしまった。
「勝手なことを、言わないでください!」
急に改まった声で怒り出した名雪に、郡司が怪訝な顔をした。
姿勢を正して睨み付けてくる名雪を、見下ろす。
いつも丁寧な言葉を使ってはいるが、今の名雪には他人と話すような仰々しさがあった。
「おまえ……さっきからさ、何、そのしゃべり方」
「郡司さんが、オーナー面するからです!」
この温泉旅館の躾は厳しく、目上の者には徹底的に礼を尽くすように教育されていた。
「それに、今一番忙しい時期なんですよ。だから僕みたいなのでも、雇って下さってるのに」
ますます名雪は、郡司を睨み付けた。
「女将さんに、そんな迷惑はかけられません!!」
「────!」
働いたことのない郡司は、驚いて言葉が返せなかった。
自分の言葉が、拒否されたことに。
そして、その道理が通っていることと、名雪の仕事に対する姿勢に。
軽く言ったつもりだった。
いつもはそれで、周りが勝手に動いていたから。
名雪も、自分が言えば当然「はい」と言うと思っていた。
それだけ、”郡司”の名は威力がある筈なのだ。
自分の仕事の為に、郡司を叱りつけたのは、名雪が初めてだった。
「…………そうか、それはそうだな。……すまん」
すぐに謝る郡司に、名雪も怒りは持続しなかった。
(……さっきも、そうだ)
風呂場でも、すぐに謝ってきた。
(この人って……)
すぐに怒鳴ってしまう自分に後悔した。
しゅんとして、布団にへたりこんだまま、郡司を見上げた。
郡司はその様子を見て、また笑い出した。
(お座りとお預け状態の、ジャスティだな!)
「…………ぐんじさん~?」
「いや、すまん」
笑いながら、名雪を見つめると、しゃがみ込んだ。
「……この間も、すまなかった」
同じ目線にいきなり降りてきた整った顔に、名雪の心臓はまたドキッと飛び跳ねた。
「まだあの庭、使うなら、使っていいから」
「…………はい…僕こそ……」
ごめんなさい──と、続けられなかった。
自分に向けられた優しい笑顔に、心臓は早鐘を打ち鳴らしはじめる。
(僕……なんで、こんなにドキドキしてんだよう)
戸惑って、下を向いてしまった。
「おい、名雪!?」
郡司は、また名雪が湯当たりを再発したのかと思って、二の腕を掴んで抱え起こした。
「…………あッ」
不意の衝撃に、バランスを崩した。
「──え!?」
二人して布団の上に倒れ込んでしまった。
名雪の浴衣の裾がはだけて、太股が付け根まで露わになった。
(うっ…うわっ! ………うわぁっ!!)
名雪は慌てて、足を閉じようと藻掻いた。
「──すまんっ!」
郡司も、跨ってしまった身体を退かそうと、必死に起きあがった。
そして、名雪の露わな格好が目に飛び込んできて、なおさら焦った。
(なんだ、こいつ──!?)
浴衣の襟元も左半分がはだけ、肘まで捲れ上がっている。
剥き出しの肩や脇、胸のラインがものすごく色っぽい。
腰の帯が緩くて、辛うじて腰の前で合わさっているだけの浴衣。
そこから伸びた白い足が、散々付き合ってきた女の脚より、遙かに艶めかしく見えた。
視線は、胸の桜色の部分から下に降りて、足の付け根に釘付けになってしまった。
見えそうで見えない、その秘部の奧は……
さっきは丸見えで、相当泡を食ったけれど、この見えそうで見えない方が、視線が離せなくなった。
「………ぐんじさん?」
怯えた目が、動かなくなった郡司を覗き込んできた。
「……!!」
その声で我に返った郡司は、真っ赤になって仰け反った。今度こそちゃんとその身体を退けた。
「……悪かった」
あらぬ妄想に自分で対処出来ず、もう目を合わせられない。
「いえ…僕こそ、すみません……」
乱れた浴衣を直しながら、名雪も顔が真っ赤だった。
「女将さんに叱られますので、僕、おいとまします」
「……ああ」
ドキドキ、ドキドキ……
聞こえてしまうんじゃないかと、心配になるような心臓の音を、それぞれが持て余していた。
次の日に、郡司だけ先に帰って行った。
名雪は契約終了日までそこで働いて、大学の新学期が始まる頃、アパートに戻った。
(どうしよう……)
名雪はあれっきり、郡司を思い出すと心臓が鳴り出して困っていた。
(恥ずかしいなあ)
でも、背に腹は変えられない。コインランドリーの浪費を考えると、恥は掻き捨てだ! と、勇気を奮うしかなかった。
平常心を装って、以前の通りに洗濯物を干しに行った。
でも、もう目線を窓に向ける気は無くなっていた。
部屋の中では、また庭を使い出した名雪に安心した郡司が、同じように観察をし出していた。
(……あれ…)
もう、ちらりともこっちを見ない名雪。
(…………)
ずっと見ていても、一度も視線は飛んでこなかった。
何故か、寂しく感じる自分がいる。
(そりゃ、覗くなって言ったのは、俺だけど)
何か、物足りない気がしていた。
もう洗濯物が全て干し終わってしまう。
帰ってしまいそうな気配を感じて、郡司は慌てて、ガラス窓を開けた。
「名雪……」
不意に呼ばれた名雪は、驚いて振り返った。
郡司がいるとは思わなくて、余計びっくりしていた。
頭の中はまさに、その人のことだらけで……。
「…………」
郡司は、振り返った名雪の顔に見惚れてしまった。
呼びかけたはいいけれど、それ以上言葉が続けられない。
紅い頬と唇。耳まで真っ赤にして……
困ったように寄せられた眉。
優しく垂れた両目は潤んで、見開かれている。
温泉宿での横たわった裸体と、着崩れた姿が思い返されて、腰が熱くなった。
(────!?)
自分の身体の反応に、戸惑った。
「なん……ですか?」
恐る恐る、名雪が聞いてくる。
「あ……いや。……終わったんなら、中で珈琲でもどうだ?」
辛うじて平静を装い、室内に招いた。
「…………」
名雪は、用心した顔で入ってきた。
初めて室内で会う二人だった。
名雪は広いリビングの奧に通されて、物珍しげに、きょろきょろと周りを見回し続ける。
その仕草が可愛くて、また郡司は笑い出した。
「……また、犬と一緒にしてる!」
勝手に怒り出した名雪は、何かを思い出したように黙り込んだ。
「……名雪?」
「名前で思い出したけど。……郡司さんて、苗字だったんですね」
顔を赤らめて、そう言った。
応接用ソファーに座って、見上げてくる名雪。
「……はあ?」
その顔に見惚れつつ、素っ頓狂な事を言い出した名雪に、郡司は変な声を出してしまった。
「女将さんに聞いたんです。こうのすけぼっちゃまって言ってるのが耳に入ったから……」
郡司にとってみれば、そんな事はとっくに知っているのかと思っていた。
と言うより、あの大学で”郡司 孝之助”の名前は当たり前すぎて。今更「苗字です」なんて、言う必要があるとは思っても見なかった。
「通りで、初めて会った時、変な名前だなんて……」
「それは、僕も同じですよ! 僕の中では”名雪”なんて、説明するのもばからしいくらい、苗字そのものなんですから!」
お互い、変な名前だなんて、笑いあっていた。
それがおかしくて、二人はまた笑ってしまった。
「持っている常識の違いで、エラい勘違いを起こすもんだな!」
「ほんとに! 自分が絶対正しい、なんて、無いですね」