ベランダの鍵貸します
7
「孝之助ー!」
甲高い女の声。
「入れて! びしょ濡れよ! ……も~っ」
ピンポン、ピンポンと何度もチャイムが鳴る。
「…………」
一瞬、郡司と名雪は見つめ合った。
名雪の顔から、血の気が引いていく。
「僕……帰ります……おじゃま様です!」
クルッと背中を向けると、ベランダから飛び出していった。
「あ! ……名雪!!」
郡司は、しつこく鳴り続けるチャイム音の中で、舌打ちした。
「うるせぇな!」
走って、玄関に向かう。
靴だけ掴み上げると、ベランダから名雪を追いかけた。
傘も持たずに飛び出したので、すぐにずぶ濡れになった。
「なゆき!!」
通りの向こうを左に曲がっていく姿が、ちらりと見えた。
見失ったら、今度こそ終わりだ。
そんな焦りが、郡司を追い立てる。
「名雪!」
どれだけ走ったか。同じ大学の近場というだけあって、そんなには離れていなかった。
細い路地のずっと奥まったところに、いかにも古い木造アパートがあった。
大きな今風のマンションの影になっていて、全体は見えない。
その横に付いている、錆びた階段を駆け上がる靴音が聞こえた。
郡司もそこに辿り着くと、一段飛びに駆け上り、最上段の踊り場で脚を止めた。
通路に既に、人影はない。
板戸が左側に並んで、奧へと続いている。
(名雪……どこだよ)
吹きさらしで雨が半分吹き込む通路は、打ちっ放しのコンクリート。
斑点や汚れがあちこちに染みこんでいて、かなりの年期を思わせる。
その上に、今ついたばかりの雨跡が、点々と黒い染みを作っていた。
「…………」
郡司はそれを辿って、一つのドアの前で止まった。
雨跡は、そこで途切れている。
見回しても、板戸の横に、「名雪」の札はない。
「名雪……ここだろ?」
軽く戸を叩いた。
何の返事も返ってこない。
取っ手を回してみた。
鍵が掛かっていて、開かない。
「名雪! おい!」
ドンドンッと、激しく叩き直した。
「いるんだろ!? 名雪! ……開けろ!」
近所迷惑などの判断は、もう付かなかった。
この部屋じゃなかったら、どうしよう。
そう思いながらも、ここ以外はあり得ないと思って。
導いた雨跡が、”僕はここだよ”と、叫んでいる気がしていた。
「──名雪!!」
ガチャリ。
鍵を開ける気配がして、郡司は板戸から離れた。
軋んだ悲鳴のような音と共に、板戸が少し開いた。
「…………」
名雪が、無言で顔を出した。
まだ髪の毛も服もびしょびしょのまま、濡れた目で郡司を見上げる。
「……彼女、置いてきたんだぞ。雨宿りぐらい、させろ」
前髪を掻き上げながら、郡司はその目に、鋭く言った。
名雪に通されて畳に上がった郡司は、その部屋の様子に驚いて、声も出せなかった。
古くて狭い。そして、薄暗い。
北に一つしかない、という窓は、目の前のマンションのせいで真っ暗だった。
狭すぎて置けないのか、家具と呼べる物がまるで無い。
隅っこに畳んだ布団と、衣類を入れるボックスがあるだけだった。
「────」
「……驚いた?」
目を見開いて、突っ立っている郡司に、名雪は目を細めた。
「────」
「……ここが、僕のお城」
名雪は微笑みながら、タオルを郡司の頭に掛けた。
「他の誰が来ても、別に平気だったけど……郡司さんには……ちょっと、見られたくなかった」
「…………」
「……なんでかな」
上目遣いに、困った顔でそれだけ言うと、他のタオルを何枚も使って、郡司の身体を拭き出した。
「この部屋のシャツは、みんな小さいから、貸せないよ」
言いながら動かす腕には、郡司の貸したシャツが濡れて張り付いている。
捲り上げた袖裾から、吸い込んだ雨が滴っていた。
名雪の身体からポタポタと垂れ続ける水滴は、畳にたくさんの染みを作っている。
(──名雪……)
自分のことは後回しで、郡司の世話ばかりやく名雪。
どうしようもなく可愛く思えて、同時に腹が立った。
真っ白い腕を掴むと、郡司は強引に引っ張った。
「あ……」
腕の中にすっぽりと抱え込まれて、名雪は慌てた。
「ちょ……ぐんじさん……」
「自分を先に、拭けよ!」
「…………!」
「なんで、ヒトのことばっか、最優先なんだよ」
顔を上げた名雪を、睨み付ける。
二人とも、髪の毛から滴を垂らし、顔を濡らしていた。
「──なゆき」
「……んっ!」
衝動が抑えられず、郡司の唇は、名雪のそれを捕らえていた。
藻掻く頭を押さえ付けて、無理矢理舌をねじ込む。
キスもしたことがない名雪は、驚いて激しく抗った。
「や……やめ……!」
突き飛ばすようにして、離れようとする。
郡司は、その身体を離したくなかった。
腕を掴みなおして、自分に向かわせた。
「女、振ってきたんだぜ。やらせろよ」
「──!?」
蒼白になった名雪のシャツの裾を、捲り上げる。
下には何も着けていない生肌を、撫で上げた。
「やぁっ……!!」
また、名雪が抗う。
身体を引いて、部屋の奥に逃げた。
それを追いかけて、抱き締めると、畳に押し倒した。
「……痛ッ!」
腕の下で、歪めた顔が涙目になっている。
(名雪……)
「オーナー命令だ」
なんとか言うことを聞かせたかった。
郡司は、言葉を選べない。
今までの高飛車な態度が、そのまま出てしまった。
名雪の泣きそうだった目に、怒りが宿った。
垂れた目尻はそのままに、眉が吊り上がっていく。
押し倒されたまま、動けない身体を震わせた。
「……命令なんか、聞かない! もう賄いバイトなんか、辞めてやる!」
「──そんなに嫌か……?」
「あたりまえだ! ……命令なんか、聞くか!」
濡れた髪を畳に広げて、また泣きそうな顔をしながら睨み付けてくる。
郡司は、女将さんとの会話を思い出した。
あの時、オーナー風を吹かせていた自分を、反省したのに……
卑怯な方向から、言うことを聞かせようとしていたのだ。
臆病な自分がいたことに、気付いた。
「─────」
ぐっと、唇を噛んで、名雪を見つめる。
真っ白い顔に頬を高揚させて、睨み付けてくる名雪。
初めて怒らせた時と、同じ。
眉は吊っているのに、垂れた目が迫力を出さない。
見かけによらず、芯の強いところに、また驚かされる。
(名雪…………)
「お前が……好きだ。……これでもか?」
吊っていた眉が、困ったように下がった。
「…………」
モノ言いたげに、瞳が揺れる。
「……なに?」
「部屋に、女の人が……」
「!」
雨の名残か、それとも……
垂れた目の淵から、水滴が筋を作って、畳を濡らしている。
「…………っ」
郡司の身体が熱くなった。
名雪の首の下に腕を差し込み、顔を胸に押し当てながら抱き締めた。
その耳元に、囁く。
「何度も言わせるな。置いてきちまった」
「…………」
「あんなんより、お前の方が断然いい」
「…………」
不安げに、少し顔を起こした名雪を、困ったように見つめて微笑む。
「責任感が強かったり、一人で歌ってたり……」
「……!」
「俺、知ってんだぜ……。お前がこっち、見なくなって……俺、寂しかった」
「…………郡司さん……」
名雪の目尻から、また涙の筋が伝った。
「僕……世界が、違いすぎて……」
「キスシーンが強烈で……それに、あのヒトみたいに、僕は郡司さんの横には……いられないって……」
郡司を”孝之助”と、呼び捨てる程の関係の女性。
あの部屋に玄関から入り、”中”にいることを許されているヒト…。
それが、名雪には羨ましかった。
覗くことも許されない、閉じきったガラス窓。カーテン。
名雪にとってあの部屋は、自分を閉め出している異空間だったのだから。
「当然のように、郡司さんの横でキスしてもらってる……あのヒトが、羨ましかった」
「ばか、当然じゃねぇよ。俺は競争率が高いんだぜ」
「…………」
「アイツらはアイツらで、凄い努力して、あの場所を勝ち取ってんだ」
「…………」
名雪の目が、哀しそうに潤んだ。