ベランダの鍵貸します
 

 
「孝之助ー!」
 
 甲高い女の声。
「入れて! びしょ濡れよ! ……も~っ」
 ピンポン、ピンポンと何度もチャイムが鳴る。
 
 
 
「…………」
 
 
 
 
 一瞬、郡司と名雪は見つめ合った。
 
 
 
 名雪の顔から、血の気が引いていく。
 
 
「僕……帰ります……おじゃま様です!」
 
 
 クルッと背中を向けると、ベランダから飛び出していった。
 
 
「あ! ……名雪!!」
 
 
 郡司は、しつこく鳴り続けるチャイム音の中で、舌打ちした。
「うるせぇな!」
 走って、玄関に向かう。
 靴だけ掴み上げると、ベランダから名雪を追いかけた。
 
 傘も持たずに飛び出したので、すぐにずぶ濡れになった。
「なゆき!!」
 
 通りの向こうを左に曲がっていく姿が、ちらりと見えた。
 見失ったら、今度こそ終わりだ。
 そんな焦りが、郡司を追い立てる。
 
「名雪!」
 
 どれだけ走ったか。同じ大学の近場というだけあって、そんなには離れていなかった。
 細い路地のずっと奥まったところに、いかにも古い木造アパートがあった。
 大きな今風のマンションの影になっていて、全体は見えない。
 その横に付いている、錆びた階段を駆け上がる靴音が聞こえた。
 郡司もそこに辿り着くと、一段飛びに駆け上り、最上段の踊り場で脚を止めた。
 
 通路に既に、人影はない。
 板戸が左側に並んで、奧へと続いている。
 
 
(名雪……どこだよ)
 
 
 吹きさらしで雨が半分吹き込む通路は、打ちっ放しのコンクリート。
 斑点や汚れがあちこちに染みこんでいて、かなりの年期を思わせる。
 
 その上に、今ついたばかりの雨跡が、点々と黒い染みを作っていた。
「…………」
 郡司はそれを辿って、一つのドアの前で止まった。
 雨跡は、そこで途切れている。
 見回しても、板戸の横に、「名雪」の札はない。
 
「名雪……ここだろ?」
 軽く戸を叩いた。
 何の返事も返ってこない。
 取っ手を回してみた。
 鍵が掛かっていて、開かない。
 
「名雪! おい!」
 ドンドンッと、激しく叩き直した。
 
「いるんだろ!? 名雪! ……開けろ!」
 
 近所迷惑などの判断は、もう付かなかった。
 この部屋じゃなかったら、どうしよう。
 そう思いながらも、ここ以外はあり得ないと思って。
 導いた雨跡が、”僕はここだよ”と、叫んでいる気がしていた。
 
「──名雪!!」
 
 ガチャリ。
 鍵を開ける気配がして、郡司は板戸から離れた。
 軋んだ悲鳴のような音と共に、板戸が少し開いた。
「…………」
 名雪が、無言で顔を出した。
 まだ髪の毛も服もびしょびしょのまま、濡れた目で郡司を見上げる。
 
 
「……彼女、置いてきたんだぞ。雨宿りぐらい、させろ」
 
 
 前髪を掻き上げながら、郡司はその目に、鋭く言った。
 
 
 名雪に通されて畳に上がった郡司は、その部屋の様子に驚いて、声も出せなかった。
 古くて狭い。そして、薄暗い。
 北に一つしかない、という窓は、目の前のマンションのせいで真っ暗だった。
 狭すぎて置けないのか、家具と呼べる物がまるで無い。
 隅っこに畳んだ布団と、衣類を入れるボックスがあるだけだった。
 
「────」
 
「……驚いた?」
 目を見開いて、突っ立っている郡司に、名雪は目を細めた。
 
「────」
 
「……ここが、僕のお城」
 名雪は微笑みながら、タオルを郡司の頭に掛けた。
「他の誰が来ても、別に平気だったけど……郡司さんには……ちょっと、見られたくなかった」
「…………」
「……なんでかな」
 上目遣いに、困った顔でそれだけ言うと、他のタオルを何枚も使って、郡司の身体を拭き出した。
「この部屋のシャツは、みんな小さいから、貸せないよ」
 言いながら動かす腕には、郡司の貸したシャツが濡れて張り付いている。
 捲り上げた袖裾から、吸い込んだ雨が滴っていた。
 名雪の身体からポタポタと垂れ続ける水滴は、畳にたくさんの染みを作っている。
 
(──名雪……)
 自分のことは後回しで、郡司の世話ばかりやく名雪。
 どうしようもなく可愛く思えて、同時に腹が立った。
 真っ白い腕を掴むと、郡司は強引に引っ張った。
「あ……」
 腕の中にすっぽりと抱え込まれて、名雪は慌てた。
「ちょ……ぐんじさん……」
 
「自分を先に、拭けよ!」
「…………!」
 
「なんで、ヒトのことばっか、最優先なんだよ」
 
 
 顔を上げた名雪を、睨み付ける。
 二人とも、髪の毛から滴を垂らし、顔を濡らしていた。
 
 
「──なゆき」
「……んっ!」
 
 衝動が抑えられず、郡司の唇は、名雪のそれを捕らえていた。
 藻掻く頭を押さえ付けて、無理矢理舌をねじ込む。
 キスもしたことがない名雪は、驚いて激しく抗った。
 
「や……やめ……!」
 突き飛ばすようにして、離れようとする。
 郡司は、その身体を離したくなかった。
 腕を掴みなおして、自分に向かわせた。
 
 
「女、振ってきたんだぜ。やらせろよ」
 
 
「──!?」
 蒼白になった名雪のシャツの裾を、捲り上げる。
 下には何も着けていない生肌を、撫で上げた。
「やぁっ……!!」
 また、名雪が抗う。
 身体を引いて、部屋の奥に逃げた。
 それを追いかけて、抱き締めると、畳に押し倒した。
 
「……痛ッ!」
 
 腕の下で、歪めた顔が涙目になっている。
(名雪……) 
 
 
「オーナー命令だ」
 
 
 なんとか言うことを聞かせたかった。
 郡司は、言葉を選べない。
 今までの高飛車な態度が、そのまま出てしまった。
 
 名雪の泣きそうだった目に、怒りが宿った。
 垂れた目尻はそのままに、眉が吊り上がっていく。
 押し倒されたまま、動けない身体を震わせた。 
 
 
「……命令なんか、聞かない! もう賄いバイトなんか、辞めてやる!」
 
 
 
 
「──そんなに嫌か……?」
 
 
 
 
「あたりまえだ! ……命令なんか、聞くか!」
 
 
 
 
 濡れた髪を畳に広げて、また泣きそうな顔をしながら睨み付けてくる。
 
 郡司は、女将さんとの会話を思い出した。
 あの時、オーナー風を吹かせていた自分を、反省したのに……
 
 卑怯な方向から、言うことを聞かせようとしていたのだ。
 臆病な自分がいたことに、気付いた。
「─────」
 ぐっと、唇を噛んで、名雪を見つめる。
 
 真っ白い顔に頬を高揚させて、睨み付けてくる名雪。
 初めて怒らせた時と、同じ。
 眉は吊っているのに、垂れた目が迫力を出さない。
 見かけによらず、芯の強いところに、また驚かされる。
 
(名雪…………)
 
 
 
 
 
「お前が……好きだ。……これでもか?」
 
 
 
 
 吊っていた眉が、困ったように下がった。
「…………」
 モノ言いたげに、瞳が揺れる。
 
「……なに?」
 
 
 
「部屋に、女の人が……」
 
 
 
「!」
 
 
 
 雨の名残か、それとも……
 垂れた目の淵から、水滴が筋を作って、畳を濡らしている。
「…………っ」
 郡司の身体が熱くなった。
 名雪の首の下に腕を差し込み、顔を胸に押し当てながら抱き締めた。
 その耳元に、囁く。
「何度も言わせるな。置いてきちまった」
「…………」
「あんなんより、お前の方が断然いい」
「…………」
 
 不安げに、少し顔を起こした名雪を、困ったように見つめて微笑む。
 
「責任感が強かったり、一人で歌ってたり……」
「……!」
「俺、知ってんだぜ……。お前がこっち、見なくなって……俺、寂しかった」
 
「…………郡司さん……」
 名雪の目尻から、また涙の筋が伝った。
「僕……世界が、違いすぎて……」 
 
「キスシーンが強烈で……それに、あのヒトみたいに、僕は郡司さんの横には……いられないって……」
 
 郡司を”孝之助”と、呼び捨てる程の関係の女性。
 あの部屋に玄関から入り、”中”にいることを許されているヒト…。
 それが、名雪には羨ましかった。
 覗くことも許されない、閉じきったガラス窓。カーテン。
 名雪にとってあの部屋は、自分を閉め出している異空間だったのだから。
 
「当然のように、郡司さんの横でキスしてもらってる……あのヒトが、羨ましかった」
 
「ばか、当然じゃねぇよ。俺は競争率が高いんだぜ」
「…………」
「アイツらはアイツらで、凄い努力して、あの場所を勝ち取ってんだ」
 
「…………」
 名雪の目が、哀しそうに潤んだ。
 


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