カバン返して。
6.
午後になると、だいぶ体調も戻った。
ただ横になっていると、ついつい昨日の夢を思い出してしまう。
───あまりにも、生々しい…
…てか、あれ…誰だ? 自分が自分でない夢なんて、初めてだった。
にしても、……疼くな~。チクショー
あんな体験させられちゃ…しかも、あんな勃ってたら、普通眠れないだろ。
盛大に吐いて布団に戻ってからも、治まらないコカンに困って。
直ぐさま一発! ってヤリたいとこだったが……しかし、相手があれじゃーな…
無意識に、こめかみの辺りを手の甲で抑えていた。
キモイおっさんを思い出すと、吐き気が再発しそうだ。
───それに。
千尋の様子が異様すぎて、昨晩はそれどころじゃ、なかった…
蒼白になって見開きっぱなしだった目は、泣いてるようにも見えた。
俺より具合悪そうで体中震えてて…、結局は俺が寝かしつけてやった。
(風邪ひいたって訳じゃ、なさそうだがなあ…)
隣の台所からは、何かやってる音がする。
俺を介抱する様子を見る限り、昨日の閉め出しで病気になった気配はなかった。
「………探してやるか」
俺はもそもそと、布団から這い出た。
台所に立つ千尋の顔に、まだ眼鏡は戻ってない。
(まあ、度無しなんだから、無くたって生活に不自由はしないよな)
────ん?
部屋の隅、机の脚の横…など、視線を滑らせていって、しまいにゃゴミ箱まで覗いた。
────!! ……これは
握って丸めたような、くちゃくちゃのメモ用紙。
なんとなく気になって開いてみたら。
”てっぺーさん!
明日のお弁当の材料、買ってきます。
ちょっと足りなくなっちゃってーー!
すぐ戻るけど、間に合わなかったらごめんなさい。
楽しんできてくださいね!
ちひろ”
慌てて書いた、走り書きのメモ…
──俺は、「行ってくる」って声は掛けたけど、千尋の返事も確認せずに飛び出したことを、思い出した。
ちょっと気に掛けて部屋を見渡せば、すぐに気が付いたはずだ。
「徹平さん~! おやつ食べましょう!」
千尋が盆にいろいろ乗っけて、台所から戻ってきた。
「……あ」
メモを手に立ち尽くす俺を見て、真っ赤になった。
慌てて盆を畳に置くと、両手をバタバタさせた。
「それ…捨てたんだから、拾っちゃだめですっっ!」
「……………」
「プライバシーの侵害ですよぉ~っ!」
───プ…プライバシーの侵害!?
俺の…俺のプライベートに間借りしてるクセに……コイツッ!!
「千尋ッ!!」
俺は怒りに任せて、右手を振り上げた。
「!!」
千尋は、首を竦めて両目をぎゅっとつぶった。
「───!」
逃げるわけでも、手で庇おうともしない。
俺は怒りが冷めない。
振り上げた右手を、千尋の頭にそっと置いた。
ビクッと小さく、丸い頭が揺れる。
「なんで、言わない?」
「……え?」
怯えた目が薄く開いて、俺を見た。
眼鏡をしてない、澄んだ瞳。
「なんで、メモ見てくれなかったのかって、言わねぇんだよ!」
どう考えたって、悪いのは俺だろう。
あの状況で、千尋が怒らない理由が判らない!
「……だって」
「だってじゃねえだろ!? ちゃんと責めろよ、文句言えよッ!」
頭に乗せた手に、力を込めた。
子供に言い聞かせるみたいに、顔を近づけて睨み付ける。
俺は、自分に怒っていた。
──なんでもうちょっと、気遣ってやんなかったんだ。
──なんで帰って来たとき、あんな言葉しか出なかったんだ。
菜穂の時のことが、ダブって俺の胸を締め付ける。
俺はいつも、自分のことが最優先で……
後で気が付いて、後悔する。
────その繰り返しだ!
ただ我慢してるような千尋にも、腹が立つ。
俺ばっか、悪者のまんまじゃねぇか!
やり場のない怒りが、千尋に向かってしまいそうで……頭に乗せた右手を離せなかった。
睨み続ける俺の眼を、千尋も見返す。
長い前髪の隙間から見上げてくる。…その瞳の色が、何故だかとても哀しく見えた。
「……ごめんな」
あの時、一番に言うべき言葉…。
笑顔をつくったコイツに、何よりも先に詫びなきゃいけなかったんだ。
それをしなかった自分に、腹が立ってしょうがない。
「謝らせろよ…俺に」
「………」
じっと見上げてくる。
困ったように眉を寄せて、俺の言葉を聞いている。
「…昨日みたいのは、お前が怒っていいんだよ!」
「………そんなこと……できない」
─────!?
見開いて、俺を見上げる大きな目から、涙が零れだした。
「…………ちひろ?」
「したことないから…そんなの」
ボロボロと零れる涙を、俺は唖然として見ていた。
何で泣くんだ…
何を……したことないって──?
手の平から、千尋の震えが伝わってくる。
……体温も。
「…………」
俺は腕に力を入れて、ぐいと頭を引き寄せた。
「…っ!」
柔らかな音を立てて、俺の胸に千尋の顔が埋まる。
頭を抱えたまま、背中をさすった。
「泣くな! いい大人が!」
「…………」
腕の中で小さく頷いた頭を、俺は泣きやむまで抱きしめていた。
真っ昼間の安アパートの一角で…
ハタから見りゃ、妙な光景に見えただろう。
でも俺は、こうするしかなかった。
何も語らないコイツに、俺も掛ける言葉なんかなかったから…
だからせめて、その震えを抑えてやりたかったんだ。
「…………」
千尋が身動いで、俺は我に返った。
「おっ……」
慌てて腕を解いた。見上げてきた顔が、また近くて。
(おわわ!)
「───すまん!」
自分で何を謝ってるのかもわからず、その身体から一歩離れた。
「…………」
まだ涙で濡れている目が、困ったように見開かれている。その頬も真っ赤だった。
俺は一昨日の晩のこと思い出して、心臓が飛び跳ねていた。
艶っぽい唇…妖しい目線。…すっぽり腕の中に入ってきた、一回り小さな身体。
───うわッ…やべ……
不覚にも、股間が疼いた。
「……おまえなッ、なんで一声掛けなかったんだ!?」
慌てて思いついたことを、千尋に聞いた。
───冗談じゃねぇ! コイツで勃つなんて…!
なんとか熱くなっていくそこを、落ち着けたかった。
心臓のドキドキも、止まらない。
「メモより、手っ取り早いだろうが!」
「えっ……だって」
俺の言葉に、情け無く口を歪めた。
「だってじゃねえ!」
うっと、眉を寄せると、千尋は小さな声を出した。
「……お風呂入ってる時に声かけると…徹平さん、怖いです」
「───!!」
「機嫌悪くなるです~」
きゅっと首を縮めて、目を瞑ってしまった。
───結局、俺かよ!
隙あらば…なんて考えていた俺は、風呂にまで入って来そうなコイツを、声で牽制していた。
……のーてんきで懲りなくて、なんも感じてないかと思ってたが…ちゃんと判っていたのか。
「あー、わかった。もういい! 俺が悪かったよ! すまんかった!」
「………」
やけくそのように言った俺の言葉に、千尋の頬が、また紅く染まった。
(──うッ…)
こくんと頷きながら嬉しそうに俯いた姿が、妙に可愛く見えてしまった。
────俺は…何を拾ってしまったんだ?
翌朝、俺も仕事場からバス会社に、荷物のことを聞いてみた。
『あんたね、大概しつこいよ! 無いもんは無いって、言ってんだろ!』
「……はっ?」
千尋は毎日、問い合わせていたらしい。電話受付の声はうんざりして、怒りに満ちていた。
(毎日って……あいつなぁ)
そんな話しは、聞いていない。俺は苦笑いで、電話を切った。
──しかし、何が入ってるってんだ? そのカバン…
その日、俺はちょっと寄り道をしてから帰宅した。
「お帰りなさい~」
「…ただいま」
相変わらずの間の抜けた声と、笑顔。
ひょいとこっちに顔を出すと、ユーターンして台所に戻ろうとする。
「あ、千尋…」
思わず腕を掴んでいた。
「……!」
びっくりして振り向く千尋に、俺は小さな包み紙を差し出した。
「? ……ボクに…ですか?」
俺は無言で頷いて、受け取れと促した。
「閉め出して、ホント──悪かったな」
千尋は恐る恐る受け取って、包みを開いた。
「……あっ!」
小さな叫び声。
それを両手で握り込んで、俺を仰ぎ見る。
「……これ!?」
「おまえの鍵だ。さっき帰りに、作ってきた」
長いこと居着くなら必要になるかと…罪滅ぼしも兼ねてのつもりだった。
「ボクの……」
目を見開いて、鍵を見つめる。
「ありがとうございますぅ……すごい…綺麗な色…」
いろいろなデザインが選べるブランクキーの中に、千尋に似合いそうな色を見つけていた。
「メタリックグリーンだ。目立つだろ? あとコレ」
「?」
もう一つは、シルバーのチェーンだった。鍵だけじゃ、絶対失くすと思って。
「それに鍵を通して、いつも首から下げとけ!」
「……はいっ!」
「言っとくが、安もんシルバーだからな! おまえは、それで充分だ!」
「はいぃっ~!」
また大きい目が、うるうると揺れ出す。
眼鏡越しでも、澄んだ輝きを放っていた。
「……ありがとうございますぅ」
鍵を握り込んだ両手を胸に押し当てて、俺を見上げて微笑んだ。
細められた目から、ぽろぽろ涙を零して。
「……ボク…大事にします」
「ボクの鍵~!」
晩飯の間中、千尋は自分の胸元を何度も見下ろしていた。
嬉しそうに首に通したシルバーは、薄いメタリックグリーンの鍵を、胸の上で光らせた。
思った通りその色は、千尋の明るい茶色の髪に、よく似合っていた。
「ボクの鍵~~!!!」
喜んではしゃぎ続ける。
「………」
喜ぶのはいいが…。
俺は冷たい眼で、その顔を睨み付けた。
コイツのモノの失くし方は、ある意味天才的だった。
昨日失くした眼鏡は、夜、布団を広げたときに出てきたのだ。
「布団に挟み込んで、押入に入ってましたなんて…もう、絶対やめろよ!」