カバン返して。
 
12.
 
「……風呂、一緒に入るか」
 
「えぇ!」
 興奮も冷めてくると、さすがに寒くなってくる。
 余韻を楽しんで、千尋を胸に抱いていたら、ふと思いついた。
「でも…」
「? なんだ」
「……ボクが、入っていいのか…」
 一瞬、何を言っているのか判らなかった。
「徹平さん、いつも怒るです…」
 上目遣いに、怖々見上げてくるのを見て、思い出した。
(あ!……)
 今となっては、笑い話か。
「あれは、もういいんだ。もう怒らない…スマンかったな」
「……!」
 嬉しそうに目を煌めかして、何も言わずに俯いてしまう千尋。
 やっぱりその仕草は、可愛いと思った。
 
 ……にしても
「なんですぐ、俯くんだ?」
 顎を掬って聞いてみた。
 ビックリ目で、俺を見つめる。
「…ぁ……謝られるの、慣れてないから……」
「────!!」
 ひゃあ! と叫んで、また俯いてしまった。
 
 ……ヤバイ
 
「おら、いくぞ」
 また勃っちまいそうで、慌てて千尋を突き放した。
「あは、イ草のニオイが体中に着いた~」
 風呂に向かいながら、のんきに腕を持ち上げて、鼻をくっつけている。
(……あー)
 後で拭かないとなぁ。染みになったらマズイ。
 
 
「あったか~い」
 お湯を張るまで時間がかかったから、身体が冷えたのだろう。
 白い肌を桜色に染めて、喜んでいる。
「しっかり、浸かってろ!」
 追い炊き風呂はいいんだが、浴槽が小さすぎる。交互にしか入れなかった。
 俺は時間を稼いで、丹念に身体を洗った。
(…ん?)
 気が付くと、元気な時は迷惑なほど煩いヤツが、毛先や顎を湯に沈めて黙り込んでいる。
 口元には、微笑を浮かべているけど…
「……千尋?」
 声を掛けても、上の空だ。
「おい! つむじばっかり、見せんな!」
 俯きっぱなしの頭と顎を持って上を向かせると、真っ赤な目が俺を見上げた。
「…………っ」
 何か言いたげで、言わない。
(しょうがねぇなあ…)
 いくら我慢すんなと言っても、そんなすぐに変われるもんじゃない。
 この男には、我慢と諦めの区別さえ、すでに付かないのかもしれなかった。
 
「千尋…」
 丸い頭に手を置いたまま、顔を覗き込んだ。
「帰ってくるまで、留守番しててくれ」
「……え」
 目がまん丸く見開かれた。
「カバンが出てきても、ここで待ってろって言ってんだ! いいな!?」
「…………」
 
 見開かれた目から、見る見るうちに、涙が盛り上がってくる。
 噤んでいた口が、大きく開いた。
「……はいっ!! ありがとうございますぅ!!」
 嬉しそうに顔を輝かせる。
 俺もホッとして、その顔を眺めた。
 ───コイツを好きだと自覚した時から、ちゃんと言ってやらなきゃと、思っていたんだ。
 
 真っ赤になった頬は、喜びと興奮と……のぼせか!?
 よく見りゃ、俺を見つめる焦点が合っていない……
 
「出ろ!」
「…はっ……はいぃ!」
 
 
 
 
 その夜は、久しぶりに一緒の布団に入った。
(もちろん、畳は拭いた!)
 ゴソゴソ動く千尋が、くすぐったい。
「何してんだ?」
 頭まで布団の中にすっぽり入り込んで、俺の胸の辺りで落ち着かない。
 
「……緊張」
 布団の中から、小さい声。
(……!!)
 俺は噴き出して、その身体を引きずり出した。
「いまさら、何言ってやがる!」
「ひゃーっ」
 すっかり温まった身体を、後ろから抱きしめた。
 肩口に顔を埋める。
 
 ───落ち着くな……
 
 他人と一緒のベッドは、彼女とでも眠れなかったのに。
 
 不意に、隣で眠っていた菜穂の気配を、思い出した。
(……アイツとは)
 眠れないのは、菜穂でも、他の誰とでも同じだった。
 でもそれ以外は、誰よりも気が合っていた。最初はあんなんじゃなかった。
 ずっと一緒にいけるかと、そう思った時もあったんだ。
 
(……ん?)
 抱きしめていた千尋が首を捩って、心配そうに俺を見上げている。
 俺の顎に鼻先がくっつくような距離だ。
「…………」
 眼鏡をしていない、澄んだ瞳を見つめた。
(邪心がないって、そう思ったけど……もっと、それ以前。”自分”を持てなかったんだな)
 
「菜穂の目は……いつも”あたしは”って、自己主張していた」
 俺はそれを見るたび、イラついた。
 いつの間にか変わっていった俺たちの関係は、自分がどれだけ尽くしたかのアピール大会になっていた。
「……だからだな。お前の目を見たときは、スッゲー癒やされた」
 千尋の前では、何故か短気が続かないのが不思議だった。
 何も押し付けてこない瞳が、俺の心を解かしていく。
 そろそろ俺のブラックな部分、解放してもいいかと、思ってしまうほど……。
 
「……なほさん?」
「ああ、…元カノ」
「…………」
 俺は深く溜息をついて、千尋を抱え直した。
 正面に向き合うように振り向かせ、背中に腕を回す。
「この間、なんで俺がこっちに来たか、聞いたろ?」
「……はい」
「大学ん時、職探しで……。俺は自分に合う仕事場を、ずっと探していた」
「…………」
 唐突に話し出した俺の言葉を、千尋はじっと聞いていた。
「…いつも思ってた。自分の両親やダチの親を見てて。サラリーマンは嫌だって」
「えっ!」
「はは、可笑しいだろ、今の俺は立派なリーマンだ」
「……はい…」
 小さく、神妙なカオが頷く。
「俺が嫌ってたのはリーマンじゃなくて、無意味に働くってことだったんだ」
 家族のために…なんて、聞こえはいいけど親なんて、ケンカばかりだ。
 オヤジは、酒がいけるようになった俺に、グチばかり零すようになった。
「俺が楽しくなきゃ…父親が笑ってなけりゃ、家庭を持っても幸せにできないと思った」
 そこまで言ってハッと口を噤んだ。
 千尋が泣きそうに口元を歪めている。───コイツの前で”家族”の話しなんて。
「すまん…」
「…………」
 ぷるぷると首を横に振って、目線で先を促す。
 俺は抱きしめていた腕を解いて、すべらかな頭を撫でた。目にかかった前髪を、掻き上げてやる。
 
「……そんな時、ローカルネットで、社長の記事を見つけた」
『独立・成功の影に、譲れない想い』──そんなタイトルだったと思う。
 あの文字に心を惹かれた。
「それを読んだ時さ。自分の考えを貫いて、企業に反旗を翻した社長が、カッコいいと思った。職人を、技術を大切にする社長に、会ってみたくなったんだ」
 
「…………」
 こくんと千尋も頷いた。
 俺はそれを見て、また溜息をついた。
「菜穂は……なんでそんな遠くなんだって、言った」
「…………」
 取り留めなくあちこちする俺の話に、眉を寄せた顔は、それでも俺の言葉を待っている。
「俺は、自分が納得した仕事をしたかった。……俺の人生じゃんか。この先一生だぜ」
 また小さな頭が頷く。
「でも、菜穂は…俺の親も…理解してくんなくてな」
 両親は、最後は諦めてくれた。だから、なるべく帰るようにしてるんだ。
 でも菜穂は…
「あんたは、自分のことばっかりだ。あたしのこと考えてくれたことあんのかって、まったく理解してくれなかった」
 いつも、最後はそう言って俺を詰った。
 他の些細なケンカも、俺がすぐ短気を起こしてアイツが詰る。
 なんでこうなるんだろうって、後で後悔する。それの繰り返しだった。
 でも、アイツの目を見ていると、どうしようもなく苛ついた。
 
「……最後は、殴っちまった」
 千尋が、小さく息を呑んだ。
「あたしは? あたしのことは? って、アイツの目はそればっかりで」
「…………」
「うるせぇって横っ面引っぱたいてな。オマエこそ、俺のこと考えたことあんのか! って、怒鳴った」
 いつも当て付けのように泣き出す菜穂に、辟易していた。
 
 でも最後のアレは、本当に泣かせてしまった。
 ……あの涙が、今も俺に、後悔させ続ける。
 
 
 
「今でも時々考えるんだ。……もう少し何とかなんなかったのか。ヤツの言うことを聞いてやれなかったのか」
 
「俺は……自分のことを一番にして、家族も友人も…みんな置いてきた」
 
 
 
 高速バスでたったの数時間……。
 それなのに、外国みたいに遠いんだ…ここは。
 
 
 
 
「……てっぺーさん」
 千尋の指が、俺の胸にぎゅっとしがみついてきた。寝間着変わりのトレーナーを握り締める。
「……人がひとり生きていくっていうのは……とても大変なことです」
 ──千尋。
「自分の将来に責任を持ったんです。偉かったですよ……徹平さん」
「! えらかったって……」
 ちょっと噴いてしまった。
 3つも上の男に、子供に言うみたいに。
 
「………は…」
 肩を揺すった俺に、千尋も静かに微笑んだ。
「だから、徹平さんがここに来たのは、しょうがないことなんだと思います」
「……しょうがない?」
 千尋がさっき言った言葉と、ダブった。
「あ…あぁっ! でもこれは、前向きの”しょうがない”ですよ!」
 俺の視線に、千尋が慌てた。
「だって、そのままそこに残ったら、きっともっと上手くいかないです!」
「……!」
「徹平さん、……違う後悔、してたですよぉ!」
「────」
 俺はぽかんと、目の前の男を見つめてしまった。
「だから、しょうがなかったんです! 見つけた会社がここだった。……他はない。それだけなんです!」
 必死に食い付くように次々言う。その中の言葉が、妙に響いた。
 ──それだけ──
 ……他にはない……?
 
「はは…それだけ……か。そりゃいいや」
 ……そうでしか生きられない俺には、ぴったりかもな。
 自嘲気味に笑い出した俺に、千尋の手が伸びてきた。
 
 
「だから……自分を責めちゃ、駄目ですよぉ」
 
 
「!」
 優しい指で、俺の目尻を拭った。
 
 
 
(……千尋!)
 俺の代わりに、泣きそうな顔してるくせに。
 ”しかたない”と言って笑うその裏は、自分の総てを諦めていた。
 なのに、こんなに必死に俺を励ます……
 
「千尋……」
 頭を引き寄せて、力一杯抱きしめた。
 
「サンキューな……」
 俺は、この優しさに癒されていたんだ。
 
「千尋…やっぱ、お前……好きだ」
「…………!」
 照れて俯く顔を持ち上げて、唇を合わせた。
 濃厚なキスを、何度も繰り返した。
 
 俺からはなにもしてやれないから。
 せめてこの瞬間、コイツが喜ぶように…
 
 
 
「ん…徹平さん、……苦し…」
「…な、やっぱ、もう1回ヤル」
「えっ」
 
 
 
 それからの一週間。
 出張当日まで、俺と千尋は毎晩抱き合って眠った。
 千尋は毎晩恥ずかしがって、そのくせ愛撫を始めると、別人のように乱れた。
 俺はそのたび、抑制が利かなくなった。
 


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