カバン返して。
14.
「お疲れさん!! あと、ガンバレよ!」
ガッチリ握手をして、小林…竹村…と、役目を終えたヤツから、次々現場を退いて行った。
メンテ部隊の俺だけ最後まで残って、丸々2ヶ月の滞在後、やっと帰路に着くことができた。
千尋を呼んだのは、あの時一回きりだった。
あんな、ヤバイ電話も。
「おかえりなさい~」
嬉しそうに、千尋が出迎える。その顔はやはり照れて、赤かった。
「……変わってないな」
抱き寄せて、キスをする。
「徹平さんも!」
しなだれて、熱い目線になる。
表情や仕草は今でこそのモノだけど…そこにポツンと立っているシルエットは、まるで、初めて会った頃のままだった。
それは1ヶ月前、千尋があのビジネスホテルに来た時も、感じていた。
(……………)
ここの土を踏んだ時も、見慣れた袋小路の曲がり角も。
部屋の様子、アパートの回りまで。
そんなに時間が経ったとは、思えないくらい、何も変わっていなかった。
───何が…変なんだ……?
でも、一瞬湧いた違和感は、長くは続かなかった。
千尋の飯が美味くて、やはり久しぶりだと思ったからだ。
「…美味いな、相変わらず」
手料理…というか、本格的なもてなしの盛り付けに、驚いた。
こんなの、習わなきゃできないだろ……。
「ありがとうございますー! 地元料理も、覚えたんですよぉ」
嬉しそうにヒョイパクしている男に、思わず聞いてみた。
「なんで、こんなの知ってんだ? 調理師の免許でも、取るつもりだったのか?」
ハッとして、硬直した顔が箸を止めた。
(……前も、こんな風になったんだ)
俺は思い出して、舌打ちした。
あの時は、コイツの腹の内なんてどうでもいいと思っていた。
時々いきなり言葉を止める千尋に、訳ありの意味なんか求めなかった。
「……すまん、話したくないなら、いい」
「いいです……隠す事じゃ、ないんです」
静かに箸を置くと、顔を上げてにこりと、笑った。
───あの、乾いた笑いで。
「高校、大学時代は、ずっと秀徳さんの世話係でした」
「……世話係?」
「…はい。高校はもう、あの家から出て秀徳さんとマンション暮らしでした。通えないほど遠かったので」
テーブルに置いたままの手が、きゅっと握られた。
「身辺一切合切の事を、世話させられていました。食事から……性処理まで」
「──!!」
「すべてが、ボクへの……躾の一環てことらしかったです」
「…………」
「その一つだったんです、料理は。ボクを売り出すための投資だとも、言ってました」
「────」
「でもボク、……あんな風に身売りされるまで、意味が判らなかったですけどね」
また、ニコリと笑う。
「でも、感謝してるんですよ。料理するのは…ボクの性には合ってたみたい」
「千尋」
俺はその先を止めた。
向かい合ったまま、テーブルの向こうの顔を引き寄せて、唇を塞いでいた。
「……っ」
驚いた目が、俺を見る。
……笑ってるクセに、光を失う瞳。
俺の胸を──灼く。
「もういい! 触れさせて悪かった。その名前、もう口にするな!」
何でもない顔をして、淡々と話す声を、それ以上聞きたくなかった。
……シツケの一環だって?
酔っぱらった俺を介抱した時の、手際の良さを思い出した。
プロのような奉仕テク……イク時の言葉。
標準以上の技術を習わせて、服従を叩き込んで。
(…………)
俺は背中がゾクリとした。ヒデノリって男の、底知れない周到さを感じた。
──はなっから、千尋を売るために……?
好き勝手、調教したってのか?
何考えてんだ……実験動物じゃねぇんだぞ!!
怒りで何も喋れなくなった。
千尋が、何も感じない目で、俺を見上げている。
「…………」
触れたくない記憶を、語らせてしまった。
──そのせいで、心を閉じたんだ。
こんなになるまで。……他に…何したってんだ……
アイツにいたぶらてれる夢を、思い返した。……身体が、勝手に疼く。
(──クソッ)
やっぱりムカツク!
俺は、イスをひっくり返す勢いで千尋の横に行くと、眼鏡を乱暴に引ったくった。
「……あっ」
追いかけてきた手を掴んで、その顔を睨み付けた。
「いつまでも、こんなのしてんじゃねぇよッ!」
「……っ!」
眉を寄せて、怯えた目が俺を捉える。
唇をぎゅっと噛み締めて、泣きそうな顔になった。
俺の腹は煮えくり返った。
なんだって、そんなに大事にする?
ソイツのことが、忘れられないのか?
──結局、ヒデノリってヤツが、一番なのかよ!!
そんな筈ない…と、頭で解っていても、心が許さない。
「そんなに、ソイツが大事か!」
「…………」
唇を噛み締めたまま、千尋が首を横に振る。
「大事じゃねえなら、いらねえだろ!? 捨てろよ!」
「…………」
まだ横に振っている。
見開かれた目からは、涙が零れそうだ。
でも、その唇は開かない。
───わかんねぇ!
前も感じた、もどかしさだ。
やっとコイツが理解出来たと、思ってたのにッ!
「…………」
怒りで握りつぶしそうになっていた眼鏡を、テーブルに置いた。
細い両肩に手を掛けて、正面から顔を覗き込んだ。
「千尋…俺より、ソイツの方が、いいのか?」
「…………」
「ソイツんとこ、戻りたいのか?」
「……ッ」
怯えた顔色になって、更に唇を噛んだ。
両目から、ボロボロと涙がこぼれ続ける。
───でも、首は横に振らなかった。
(…………!?)
「どっちなんだよ!? ハッキリ言えッ!」
「……や……戻りたくない」
小さく口を開いて、掠れる声を出した。
「……でも」
「? ……でも?」
「ここにも、居られない……」
「!? 何でだよ?」
俺はそこで思い至った。
「お…俺が、カバンが見つかるまでとか、言ったからか?」
「…………」
「そんなんッ!」
心で舌打ちした。…そんなことで!
俺がハッキリ言ってやらなかったから、コイツは心細かったのか!
帰ってくるまでとか、俺も往生際が悪かったのを後悔した。
「ずっといろよ! ここに住め!」
「…………」
千尋の頬が、どんどん赤くなっていく。
「…………できない」
再び、絞り出された言葉は、震えて聞こえないくらいだった。
「……何で?」
「…………」
「おいッ!」
俺はつい、肩を掴んだ手に力を込めてしまった。
「痛っ……」
顰めた顔が、俯いた。
前髪で、顔が全部隠れる。表情が読めなくなった。
「徹平さんに、迷惑…かけます」
「? 何でだ?」
「ボク……逃げ出してから、働こうと思いました」
「………ああ」
「でも、ちゃんとした場所は…バイトでさえ、身分証明が必要だったんです」
「…………!」
「部屋を借りるには、保証人が必要なんです」
「…………」
「保険証がないと…病院にもいけないんです」
「……ボクは、身元を保証するモノを、一切持ってないんです」
「千尋……」
俺はまた、コイツの言葉を、思い出した。
”人がひとり生きていくっていうのは、とても大変なことです”
──こんな思いを抱えて、言っていたなんて……。
それでも、俺を励ましてた。
──クソッ……クソッタレッ!!
俺は自分を罵って、俯いている体を抱きしめた。
「んなの、どうにでもなるだろが! 俺が保証人になってやる!」
千尋が全身を強張らせて、腕を振り解いた。
「簡単に言わないでください!」
「────!」
「働けないって、致命的です! 病気したら高いんですよ!!」
聞いたことのない大声で、叫んだ。
「ボク、絶対に迷惑掛けます! 一生一緒になんて、いられないんです!」
俺を睨み付けながら、また涙を流す。
「……それを判ってたから……あそこに戻るしか、生きていけないって…」
「────」
絞り出す声は、裏返り、掠れて……俺の胸を締め付けた。
「それには、こんな嫌な物でも……必要なんですよぉ」
眼鏡を胸で握り締めて、俯いてしまった。
「でも、それもやっぱイヤで……生きてくの……むりかなって……」
「千尋!」
もう一度、その身体を抱きしめた。
小刻みに震えていて、すっごい小さい。
「そんなこと言うなよ、なんとかしてやる! ……俺が何とかしてやるから!」
……なんでこんな、独りで生きてんだ。
この世界の中で、コイツは、本当に独りぼっちだったんだ。
後ろ盾もなく、すがれる物もなく……
───俺の横にいても、そうだったなんて!
悔しくて、情け無くて、顎が軋むほど歯ぎしりをした。
「ごめんな」
「…………」
「解ってやれなくて、ひでーことばっか言って……ごめんな」
「…………」
「なんとかしてやるから、ずっとここにいろよ?」
腕に力を入れて、抱きしめた。
「なッ!?」
俺は、やっぱりこんなことしか、してやれない。
千尋の優しさに比べて、自分の不甲斐なさを呪った。
「……ぅ……」
背中に、腕が回ってきた。
両手でしがみついて、小さな声を上げ始める。
「……ぅう……ぅうう」
「千尋……」
「……ぅう……て……てっぺーさんーっ……」
小さな子供みたいに、いつまでもしがみついて泣いていた。
俺は、親でも兄弟でも恋人でも、なんでもコイツが欲しているものに、なりたかった。
もう泣かないで、いてくれるように。
それからの千尋は、沈むことがなくなった。
次の朝はさっそく、やらかしてくれたが。
「ああーっ! ないっ! ボクの眼鏡~っ!」
俺も飛び起きて、怒鳴った。
「あれは、捨てたんだろ! 忘れんなッ、ボケッ」
しかし、素顔の千尋がそこら辺をうろうろしているのは、なんとなくイヤだった。
俺から、眼鏡買ってやるか……
などど、同じ穴のムジナになりそうなことまで、考えて。
「徹平さん! この間連れてってくれたあの山~っ! また見たいです!」
「この土地のこと、もっと知りたくなりました~! だって、ボクの故郷かも知れないんですよね!」
いろいろリクエストするようになった。
やりたいと思うことも、できてきたようだ。
まだいろいろ諦めては黙ってしまうけれど、その度に俺が怒鳴った。
「言いたいことは、言え!」
って、のが口癖になっちまった。
そうやって、子供が歩き出すみたいに、千尋は周りに興味をもっていった。
自分のために、歩き始めたんだ。
でも、まだ時々あのカバンを押入から引きずり出しては、その前で俯いている姿があった。
その背中が妙に印象的で、目の裏に焼き付いた。
二人で出かけて、二人で何かして。
俺もすっかり短気が治って、会社でも過ごしやすくなっていた。
そうやって、月日はどんどん過ぎていった。