カバン返して。
19.
「ぁああぁ───ッ!!」
「千尋ッ! ……千尋ッ!!」
急に叫びだした千尋を、抱えて腕の中に押さえ付けようとした。
「─────ッ!!」
ビクッと肩を跳ね上がらせて、俺の手を払った。
抱え込まれないよう、身体を捩って、左腕で突っ張る。
「──ゥアアァッ……!」
声にならない唸り声を上げて、首を振り続ける。
「───千尋…」
ベッドに斜めに乗り上げた身体で、右腕だけじゃ、抑えきれない。
(クッ…、
左足に激痛が走ったけれど、かまわず俺はベッドに飛び乗っていた。
太股に正面から跨り、膝立ちになって、その身体を右腕で抱き込んだ。
「千尋……ちひろッ…!」
肩口に額を押し付けて、耳元に話しかける。
荒い呼吸が俺の耳横で、繰り返される。
お互いの熱い息が、首筋に当たった。
「………ぅ……ぅううぅ……」
絶叫は止まったけれど、身体の震えは止まらない。
(…記憶が…………)
どこまで……なんて、この様子を見れば解る。
(……チッ)
俺は心で、舌打ちした。
俺は……自分のために、コイツの記憶復帰を望んでしまった。
だからこそ、こうなる前に……もっとすぐに包んでやるつもりでいたのに。
ここまで、泣かせる前に……
(…クソッタレッ!)
また舌打ちした。不甲斐ない自分に、腹が立つ。
俺は──千尋が何を思い出したって、泣いたって、それ以上のモノを……きっと与えられる。
その自信があったんだ。
コイツを守るって、決めてから──
「千尋……聞け」
「………」
「以上が、お前の追加プロフィールだ」
「………」
「俺は、それしか知らない」
「………」
「他は知らない。……今言ったのが、お前の全てだ」
「……それのどこに、泣く理由がある?」
肩を抱いていた手で、頭を撫でた。
すとんとした髪が、頭の丸みをそのまま出している……丸い頭。
ほのかに体温が、伝わってくる。
俺も、千尋の顔を胸に押し付けて、直接肌の熱を伝えた。
「生の体温だ。…わかるか? 本物の熱をお互いに感じてる……すげぇな」
「…………」
千尋は小刻みに震えながらも、じっとしていた。
俺の鼓動に合わせるように、呼吸が静まっていく。
「オラ、今度はお前……」
ポンと軽く頭を叩いた。
「………」
ピクリと反応する。
「お前が、俺のこと自己紹介……してくれ」
「………」
長い前髪を乱した顔が、ゆっくりと持ち上がる。
涙が流れ続ける目で、恐る恐る俺を見上げてくる。
「………」
唇が、また少し動く。
キュッと噛み締めたあと、薄く開いた。
(………………)
俺はじっと待った。
ゆらゆらと揺らめいていた瞳が、俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「……なまえは………おぎの てっぺい…」
(………………)
「……としは、26歳。……誕生日は…たなばた」
「………」
「ご飯作るのが…ヘタで、ビールばっか、飲んでた……」
俺は笑った。
「……それだけか?」
「…………………」
見開いた目が、俺を見つめる。
頬が紅く染まっていく。
「……優しくて……優しくて……」
「……ああ」
「……優しい」
「…………」
「ボクのこと……すごい……好き……」
「………ふ」
頷きながら、また笑ってしまった。
真っ赤な目で、真っ赤な頬で、困ったように眉を寄せながら……
その口元を優しく上げて、微笑むから。
「大正解…」
他に思いつく言葉もなく、俺は千尋にキスで返した。
「……ん」
舌を入れて、千尋を探る。
歯列の一本一本を確かめて、柔らかい舌を探し出す。
温かい咥内。
優しく迎え入れる千尋の舌。
────千尋……
目眩がするようだ。
やっと出会えた。やっと見つけた。
……本当の、俺の愛した千尋。
幻だとは思えない、あの空間で抱き合ったように、同じ匂い、体温を実感した。
いつまでも、その唇が離せなかった。
「ん……」
千尋が身悶えて、俺の背中を引っ掻いた。
「て……徹平さん、苦し…」
「……ん、わり…」
キスの応酬をして、抱き締め合って、見つめ合って。
それでも飽きたらず、また唇を奪っていた。
「……もったいないですけど…」
千尋も名残惜しそうに、上唇を舐めながら息をつく。
その紅い舌に、また吸い寄せられそうになった。
(…………ッ)
暴走しそうになる自分を抑えて、千尋を腕から解放した。
「そうだ」
身体を捩って、足元に放り出していた写真を手に取った。
「千尋、カバンとこれ……確かに、返したぞ」
「はい! ……ありがとうございますぅ!」
目尻を光らせて、大事そうにそれを、押し抱いた。
コレを追いかけてきた千尋…。
あの時、コイツが俺のカバンを掴まなかったら……
俺の所に着いてこなかったら。
俺は、どうなっていたんだろう……
「千尋……お前に、命助けられた」
「……………」
「だからまた、お前を…拾わせろ」
「……………」
「今度は、俺がお前を助ける」
「……徹平さん…」
喜びと戸惑いが混在する瞳が、揺らめく。
「でも……ボクは……」
「嫌ならイヤって断れ! そうじゃなかったら、文句言うな!」
「…はっ……はいぃっ」
「で、返事は!?」
「……おねがい……しますぅ……」
また泣き出すから、軽くキスをしてやった。
唇が離れるとき、千尋が上目遣いに俺を見つめた。
「あのグリーンの鍵、…また作ってください」
「はは……あったらな!」
早速の要求に、俺は嬉しくてまた抱き締めてしまった。
そして、思い出した。
「痛ッ……イタタ……イッテェ~」
「て、てっぺーさん!?」
ナースコールでドクターを呼んでもらい、左足のギブスを開いてみた結果……。
複雑骨折をしていた足首が、再度、変な方を向いていた。
「何やってんだか、この子は!!」
母親が、再びぺこぺこし、俺の頭も下げさせた。
「母さん、コイツ…千尋」
母親には、すぐに紹介してやった。
情け無いことに、移動には車椅子を義務付けられてしまい、千尋の病室まで押してもらって。
「俺をこっちに、繋ぎ止めてくれたヤツだ。千尋がいたから……俺は回復出来た」
「………」
普段は煩い母親が、この時は何も言わずに、千尋を抱き締めた。
「………!」
照れて身動ぐ身体を、両腕で抱き締め、頭を撫でて。
「ありがとうね」
それだけ言って、涙を流した。
母親に、全てを詳しく話した訳じゃない。
説明は、その時の一言だった。
でも、目覚めてからの俺の変化と、千尋への執着振りを見て、何かを感じ取ったようだった。
俺を”扱いやすくなった”と、喜んでる始末だ。
千尋を俺の兄弟として、戸籍に入れてくれないかと、相談したとき……
「あんたの、命の恩人じゃあね」
と、溜息をついていた。
千尋にも、それは伝えた。
「嫁に…って、訳にいかねえからな。……それでいいか?」
「……そんな……そんなのは…」
想像もしていなかったのだろう。
「迷惑になる」と首を横に振り続ける。
「千尋……これが最後。嫌な名前言うけど、我慢しろよ」
「……」
「ヒデノリと……俺たちがやり合っても、絶対勝てねぇんだ」
「…………」
ずっと、考えていた。
あの野郎にとって、千尋はいい餌だ。
手放すわけがない。
……そして、”千尋”は心も身体も……アイツに弱みを完全に握られている。
「だから……お前をアイツの手から逃がすには、本当の保護者……お前の義理の両親と掛け合う」
「………」
気付かれる前に。
ヤツが千尋を見つけ出す前に、手の届かないところへやってしまわなければ。
「お前は何も心配しなくて、いいから」
「……………」
俯いて泣き出す千尋に寄り添って、「うん」と言うまで、頭を撫でていた。
俺はケガの回復を待ちながら、母親と対策を練った。
「虐待を受けてるから」
「くれぐれも気付かれないように」
それだけは付け加えて、しつこく言った。
事の深刻さを察した母親は、早いほうがいいと、病院に俺の外出許可を取ってくれた。
「行ってくる」
車椅子で病室を訪れると、千尋は何も喋れないでいた。
「なんてか、健気な子だねぇ」
母親が、道中それだけ言った。
「……ああ」
俺も、それだけ応えた。
多分、親には初めて見せる……口の端を上げて、目を細めた笑顔で。
「母さん、……ありがとう」
帰りには、心からの言葉が漏れた。
「何言ってんだい! ガラでもない!」
その顔も、かつて見たことないほど赤かった。
その姿を見て、俺はこの間から感じていたことを、口にした。
「俺、この歳になって……こんなに親の世話になるとは、思わなかった」
「なんだい、それ」
「社会人になって、一人暮らしして。一端の大人になったつもりだった」
でも……こんな事故に遭って、つくづく気付かされた。
着替えやら身の回りの世話は当然のこと……、”俺を守る”というオーラに包まれている安心感が、何よりも絶大だった。
俺はまるっきりの子供扱いで、俺もそれに甘えて怪我の回復だけに集中出来た。
「母さん、なんかスゲェって思った」
「その、スゲェっての、やめなさいって言ってんだろう!」
すかさず俺を一睨みしてから、ふふっと笑った。
「……子供ってのはね…、何歳になっても自分の子供なんだよ」
「ただいま」
そう言ったときも、千尋は声を出せないでいた。
気を利かせた母さんは、俺を病室に押し込んで帰っていった。
「ゼロになりそうだった息子が、2になったよ」
と、笑って。
「ただいま」
車椅子からベッドの縁に移動して、黙り込んでいる身体を抱き寄せた。
もう一度、そう言うと
「……お帰りなさい」
やっと、俺の胸に暖かい息を吐いた。
「たぶん……成功」
「…………っ! …てっぺーさん……」
俺の言葉に、胸にしがみついてきて、泣き出した。
ずっとずっと、喋れないほど緊張し続けていたんだ。
「痛テテ……」
俺はすぐに報告したくて、久しぶりのスーツを着込んだまま、来ていた。
ギブスが邪魔で、三角帯だけにしてもらって腕を吊していたから、動かすとかなり痛い。
「……あぁっ、ごめんなさい~っ!」
慌てて身体を離した千尋が、顔を俺に寄せてきた。
「徹平さん、……あの………ありがとうございますぅ……」
「ああ……もう、何の心配もいらない」
「はい……」
やっと零れた笑顔に、俺もホッとした。