真夜中のページ・ボーイ
7. 真夜中のページ・ボーイ
「───疲れた……」
アップ時間になったので、休憩所でへたり込んでしまった。
あの後の仕事は、地獄だった。……身体が痛くて。
「お疲れ様! …………大丈夫?」
朝倉マネージャーが入ってきた。
僕の様子に、眉を顰める。
「あ……マネージャー、ちょっといいですか?」
「なあに?」
僕は淹れて貰ったコーヒーを啜りながら、深呼吸をした。
「ページボーイって、何のことか、わかります?」
「ページボーイ?」
「はい」
「それ、ここでは昔の呼び方よ。役職はちょっと違うけど……現在のベルマンみたいなポスト」
「……昔の?」
「そう、ここの別館ができた当初だから大正時代ね。ヨーロッパの真似をして、ボーイのことをそう呼んでた時期が、あったのよ」
「別館……」
「ええ、だから今でもあっちでは、ベルマンのことをそう呼ぶお客様もいるらしいわね」
「…………」
「もしかして、あっちでそう呼ばれたの?」
反応のニブイ僕を先回りして、話しを進めてくれる。
でも、流石に変だと気付いたみたいだった。途中から、僕はなんの返答もしなかったから。
「……須藤君?」
「マネージャー……僕、№101のルームサービス、もう嫌です!」
優しく覗き込んでくれた朝倉さんの顔に、つい心が挫けてしまった。涙は流さなかったけど、声は完全に泣き声で。
朝倉さんは驚いてしばらく僕を見つめていたけれど、口に手を当てて笑い出した。
「何を言ってるの! 子供じゃあるまいし。あんな優しそうなお爺様の、どこが嫌なの」
「…………っ」
僕は歯ぎしりして、黙り込んだ。こんな会話、拉致があかない。
「このホテルに……変わったお客様って、います?」
方法を変えてみる。野立先輩が知らなくても、朝倉マネージャーなら知っているかもしれない。
「……変わったって?」
また変なことを言い出したと言わんばかりに、目を丸くしている。
「かなり大柄な体格で、前髪が長くて……目が…琥珀色なんです」
「琥珀? ……いないわよ。そんなお客様」
また笑われてしまった。
「なあに、幽霊でも見た?」
子供をあやすように優しく宥めてくれたあと、ルームサービスの指名は絶対だから、特に別館は。何があっても必ず行きなさいと、きつく言われてしまった。
「何があってもって……そんなこと、簡単に言わないでください……」
マネージャーが出ていった後の静まりかえった休憩室で、僕は独り呟いていた。
その夜も、ワゴンを牽いて別館の廊下を歩いていた。
カツン、カツン、と靴の音だけが、高い天井に不気味に響く。考えてみれば、僕はここの住人を一人も見たことがない。“不夜城”と呼ばれながら、生命の気配が一切感じられないこの建物に、今更ながらゾッとした。
夜ごと蠢くのは、本当に生きている人間なんだろうか。前時代の怨念のような、残留思念のようなものが、渦巻いている気さえする。
──そうだ……僕がアイツに感じる危険信号……あの異様なオーラは、そんな気配を発しているんだ。
「………………」
思わずワゴンを止めて、立ち止まってしまった。
──本当に……アイツはいったい、何者なんだ………なんで、誰もアイツのこと知らないんだ?
そう思い至って、心が芯から冷えていった。急に廊下の静けさが気になりだした。蛍光灯の白けた明かりだけが、煌々と続いている。真っ白い闇に吸い込まれるような気がした。
「……こっ……恐くなんかない!」
自分にそう言い聞かせて、ワゴンを押した。
オーダーは、今日はワインだけだった。
「遅くなって、申し訳ありません」
自問自答していたせいで、数分遅れてしまった。
「いいから、来いよ」
ワインクーラーからボトルを出そうとしていた手を掴まれた。
「…………!!」
恐怖で、心も身体も竦み上がる。でも、睨み付けた先の顔を見ると声が出た。
両サイドは掻き上げて、真っ黒い前髪だけ長く垂らしている。緩くウェーブの掛かったその隙間から、見える双眸……
「やめてください! ……離してくださいっ!!」
その顔が、にやりと嗤った。
「そんなこと言って、疼いてんだろ」
「───!」
スラックスの前を掴まれた。
「昼間は悪かったな、俺だけイッて。ちゃんとイカせてやるよ、ほら……」
ベルトを外して、中に手を突っ込まれた。
「……ッ! ……やめ…!」
僕はその手を引っ掻いて、藻掻いた。
「……痛ッ」
「あなた……誰なんです!」
抱きかかえられた腕から抜け出して、正面に向かい合った。
「……101号室の、住人だ…」
「ウソ言わないでください!」
「──────」
「なぜ、誰も貴方のこと知らないんですか? なんで貴方は、このホテルの中を自由に出入りできているんですか!」
その時、奥の部屋でゴトンという音がした。
「…………」
微かな呻き声。
────!?
初めて、男の顔色が変わった。
僕を睨み付けた後、そのドアの方を仰ぎ見る。
「───!」
僕はその隙をついて、101から逃げ出していた。ワインもワインクーラーも置きっぱなし。ワゴンだけ引っ張って、別館から逃げ出していた。
──何? ……あの声
──あの奧に、何がいるんだ? あれが優しげな老紳士の声……?
……野獣の呻きみたいな、しゃがれた声……
──そして…………アイツの顔。あの男でさえ、恐怖した目の色だった。一瞬見せた、困惑の色は……
何もかも恐かった。別館に潜む何かが僕を巻き込んでいく、そんな恐怖に駆られた。
走って走って、僕は逃げた。
──生気を絡め取られないように
──脚を掴まれないうちに……
部屋に戻ると、暗いながらも裸電球を付けっぱなしにして、布団を被った。
“なんで僕なのか”
そう訊いたとき……アイツはなんて答えたっけ。僕は疲れて寝てしまったから……。
“さあな”とだけ言っていたのは、覚えてる。その後も、何か言っていたのに……
得体の知れない恐怖と、アイツに対する疑問と……触られて、熱くなってしまった身体……
それらを抱えて、眠れない夜を過ごした僕は、いつにも増して寝不足になってしまった。