俺は、こっち。
 

 
「覚えててくれたんですね。僕、存在感ないから忘れられてると思ってました」
 嬉しそうに、また笑う。その笑顔も、誰にでも振りまく。
「……それが嫌なら、しっかりすればいいのに」
 つい、言葉は憎まれ口を叩いてしまう。
「教室で、もっと毅然としてりゃいいじゃん。へらへら笑ってばっかじゃなく」
「あは…無理です。僕、気が弱いから」
 また目尻を下げる。
 なんで、こんなふうに笑ってられるんだ? 俺、ものすごい失礼なこと言ってんだぞ!
「ああ、そう! じゃあ、ずっと嫌われてればいいんだ、ハマチュウなんか!」
 それでも止まらない言葉は、どんどんエスカレートしていく。
 その瞬間、悲しそうな目で、俺を見た。
 ────っ。
 胸がさっきとは違う痛みで、締め付けられた。
 なんだよ、センセー。…そんな目はナシだ。
 
 
 
 
「ありがとう、瀬良君。だいぶ助かったよ。もう大丈夫」
 できあがったプリントをまとめながら、何も無かったみたいにハマチュウは笑った。
「ハマチュウ……俺……」
 何か言いそうになって、自分で慌てた。謝りたかった。今、絶対傷つけたから。
 でも、違うことを口走りそうになって、言葉を止めた。
「?」
 怪訝な顔で俺を見てくるセンセー。
「……俺、帰る」
 その視線に耐えられなくて、俺は逃げ出してしまった。
「あ、うん。ありがとう、本当に!」
 飛び出していく俺の背中に、先生が叫んだのが聞こえた。
 
 
 
 次の日、ハマチュウと朝っぱらから、廊下で擦れ違った。
「瀬良君、昨日はありがとう」
 ほがらかに、笑いかけてくれる。どの生徒にも、その笑顔で微笑みかける。
 相手が無視しても、一向にへこまないその根性が、教室でも目が離せなかった。
 どうせなら、その笑顔を必要とする奴にだけ、笑いかければいいのに。
 ───例えば俺。
「ハマチュウ。今日もプリント刷るなら手伝うよ」
 
 俺はわかったんだ。
 昨日、帰ってからすごい自己嫌悪に悩んだ。
 ハマチュウをいじめてしまっては、後悔する。
 この俺の心は……。
 
 
 
 
「え?」
 きょとんとした目を返してきた。
 オハヨーと口々に挨拶を交わしながら、男女入り乱れて生徒達が教室に向かって歩いていく。俺もそのまますれ違う一人とでも、思っていたのか。
 それとも、俺がこんなこと提案すんの、そんなに変なことか?
「なんだよ。ヒトがせっかく親切に言ってんのに」
 じろりと睨んでやった。ビクリと怯えてから、ハマチュウは笑顔を作った。
「ありがとう」
 俺は赤面するのがわかった。
 慌てて下を向く。
「昨日はごめん…」
「え?」
「嫌われてればいいとか、言っちゃって」
「ああ、気にしてませんよ」
 柔らかに笑う。諦めてるみたいに。そうじゃない。俺が言いたいのは…
「……ハマチュウを……嫌いな奴ばっかじゃない」
 なに言ってんだ俺。全然フォローになって無いじゃないか!
 頭がカーッとしてきた。
 丸く見開いた目が、俺を見ている。何を言うのか、待っているように……
 
「俺……ハマチュウが…好き」
 
 その眼を真っ直ぐに見返しながら、つい言ってしまった。
 そして、その場にいられなくなった。
 踵を返すと廊下を走って逃げた。
 
 
 ────言った!
 
 
 教室に逃げ込んで、机に着いた。
 心臓がまだドクドクしてる。
「うっす、ヨウスケ、昨日は災難だったな」
 早速昨日逃げた連中が、話しかけてきた。
「お前ら…裏切りものめ」
 睨み付けながら、本当は感謝したいくらいだった。
 だって、ハマチュウと二人になれたんだから。
「なあ、カンハマの噂、知ってるか?」
「噂?」
「あんなんでも、彼女できたらしいぜ」
「マジ!?」
 ダチと、言葉がはもった。
 でも、俺の心境はこいつらとは、全然違った。
「あんな、甲斐性なしでも、オンナって、できるんだな~」
 ゲラゲラ笑っているのを横目に、俺の腹は落ち着かなかった。
 確かめたい。
 
 
 
 放課後を、待ちに待った。
「瀬良君、ほんとに手伝ってくれるの」
 職員室に行くと、嬉しそうに目を細めるセンセー。
 俺は無言で頷いて、さっさと職員室から出た。何か言うと、怒鳴ってしまいそうだったから。慌てて後ろからついてくるハマチュウ。
「なんか、用があるなら、無理しなくても…」
 そんなこと言いながら、印刷室の鍵を開けている。
 俺の機嫌が悪いのを、何か勘違いしてるのか。
 
「ハマチュウ…彼女いるんだ?」
 ドアを後ろ手に閉めて、なるべく静かに聞いた。
 抑さえすぎて、声が震えた。
 俺を見て、目を丸くしている。
 そして、いつもの困った微笑みで答えた。
「彼女って…びっくりした。……まだ、そんなじゃないですよ」
「……まだ? ……好きなの? そのオンナ…」
「こらこら、そんな言い方、子供がしちゃいけません」
 ヘラヘラ笑いながら、言ってはならないことを言った。
「───!」
 確かに、センセーと生徒だ。子供と大人だよ!
 でも──!
 
 俺はハマチュウに飛びかかっていた。
「あっ!」
 どうしたらいいかなんて、知らない。
 衝動に任せて、押し倒した。ハマチュウは書類を派手にばらまいて、床に倒れ込んだ。
「せ……瀬良君!」
 慌てて俺を押しのけようとするけど、俺は全体重をかけて上に乗っかると、センセーの唇に自分のを押し当てた。
 噛み付くようなそれは、到底キスには程遠かった。
 でも、俺はそうせずにはいられなかった。
「ハマチュウ、俺、……好きって言ったよね」
 唇を離すと、間近で目を覗き込んだ。
 ”子供”と言われたのが悔しくて。
 目を丸くして、困惑したように眉根を寄せている。
「俺……本気でハマチュウが好き」
 また唇に迫ろうとしたけど、今度は止められてしまった。
「いけません。瀬良君…」
「なんで!?」
「それは……」
「俺が男だから? 子供だから? 生徒だから!?」
 俺は、噛み付く勢いで食い下がった。
 ──そんな理由なんて!
「……そうとも、違うとも」
 必死で俺の制服を掴んで、止めようとするセンセー。
「なんだよ、ハッキリ言えよ!」
「……君はまだ子供すぎるんです。一時の気の迷いでこんなコトしては、ダメです!」
「───!!」
 俺は悔しくて、唇を噛んだ。
 大人ぶったこと言って!
 いつもは、俺より頼りなさそうな顔してて!
 
「ハマチュウは大人だから、オンナと色々やってもいいんだ! へえ!」
 悔し紛れにそう言った言葉に、ハマチュウが赤面した。
「────!」
 俺の頭はますます訳がわからなくなった。
「やっ……ダメです、瀬良君!」
 背はまだ俺の方が低いけど、こんなひょろい身体、押さえ付けられる。
 もう一度、唇に噛み付いた。
「……んっ」
 知識半分、衝動半分で、舌を突っ込んだ。
「ん……ダ…ダメ! やっぱ、ダメです、瀬良君!」
 俺を振り解くと、ハマチュウは情けない顔で、俺を見た。
「君の人生を、僕なんかで汚してはいけません!」
 俺はそんな言葉、納得いかなかった。
「……ハマチュウは…俺が嫌い?」
「! ……それは…」 
 すごい困った顔になった。
 生徒を傷つけちゃいけない。だから、ホントのことは言えない。
 ──そう、物語っている気がした。
 
 嫌いなら嫌いって、いっそ言ってくれればいいのに。
 そのオンナと結婚したいんだとか……
 俺を、諦めさせればいいのに。
 
 優しい顔して、けっして怒らない。こんな時でさえ、俺を突き放さない。
 いつもそれがいいとは、限んないんだぞ!
 ダメな脳味噌には、きちんと教えないとわかんないんだ!
 
 それでもセンセーの腕は、俺の肩を押さえて、それ以上近づけさせない。
「ハマチュウ……」
 見下ろす俺に、懇願の目を向ける。冷静になれと言っている。
 俺はもう、悔しくて飛び起きた。今はこれが、限界な気がしたから。
 これ以上は、俺が負けて泣き言を言いそうだった。
 
 俺は走って走って、家に帰ると、布団に潜り込んだ。
 子供のままごとみたいにあしらわれて、それ以上言い返せない自分が歯痒くて。
 
「陽介? どうした」
 兄貴が心配して覗きに来た。
 3つ上の兄貴。いつも入れ違いで卒業していく。
 
「……兄貴。キスってどうやるのか教えて」
「………は!?」
 俺は布団から出ると、兄貴を見上げた。
「ディープキスを教えてよ」
「………」
 驚いた目をまじまじとぶつけてくる兄貴。
「……好きな娘でも、できたのか?」
 兄貴らしい口ぶりで聞いてくる。よしよし、って具合だ。
 俺は、真剣に睨み付けた。
「──好き、以上だ!」
 
 一瞬、息を呑む兄貴。
「────」
 しばらく睨み合った。
 
 
 
「……腰抜かすなよ。俺様、直伝だ」
 にやりと笑うと、俺の前に屈み込んだ。
「………」
 顎を掬われ、唇をそっと押し付けられる。
 そっとそっと、唇の感触だけ確かめ合う。
 そのうち、ちょっと唇を尖らせては、俺の唇をあちこち啄み始めた。
 くすぐったい。我慢できずに、薄く開けてしまった。
「んんっ!!」
 舌が入ってきた。
 生温かさに、びっくりした。
 兄貴の腕が俺の背中に廻り、身体を密着させる。
 もう片方の手は頭を後ろから固定して、舌先が俺の奧の奧まで届くように、押し付けてくる。
「ん…んんっ……」
 俺は胸にしがみつく格好で、だらしなく喘いでしまった。
 目が眩む。
 兄貴の舌は、俺の舌を右に左に絡めては逃がし、側面を擦りつけてはくすぐる。
 時折確かめるように、歯列をなぞっては、また舌を絡めに探り出す。
 俺はそのたび無意識に逃げるけれど、必ず探し出されて弄ばれた。
 腰の辺りがむずむずし出す。
 息もどんどん荒くなっていった。
 最後は絡め取られた舌を、思いっきり吸われた。
「んん───っ!!」
 思わず、兄貴の胸を拳で叩いた。
「……はぁっ!」
 唇を離されたとき、後ろに倒れ込むかと思った。
 兄貴の腕が、俺の身体を支えた。
「───どうだ?」
 上から覗き込んで、にやりとまた笑った。
 その顔が余裕たっぷりで。
 宣言されたとおり、腰を抜かしてしまった俺は、何も言い返せなかった。
 
「言い忘れたけど」
 置きみやげに、一言追加していった。
「勃っちゃっても、そこまでは面倒見切れないぞ」
 俺は、ますます返す言葉が無かった。
 
 
 
 
 
 ───────────── 
 
 
 
 
 
 
「ハマチュウ……」
 印刷室に、いきなり入った。
 待ってたんだ。ずっと我慢して。手伝うって言っても、断られると思ったから。
「瀬良……くん」
 その声に胸が締め付けられる。
 
 
 
 ずっと、職員室のドアの窓から眺めていた。いつ出てくるかと。
 ストーカーだな、なんて内心呆れながら、その場を離れられなかった。
 ガラス越しのセンセー。音も声も聞こえない。
 廊下と職員室の中は、別世界だった。
 薄暗い廊下から、明るい室内のセンセーの顔をずっと見ているだけで、胸が痛くなった。
 微笑む。俯く。喋る。お茶を飲む……。
 今のハマチュウに、俺は存在していない。
 あの笑顔は、俺には向けられない。
 
 俺……ここにいるのに……
 そう思うと、また胸が痛くなった。
 
  会いたい
  会いたい
  喋りたい
  俺を見て
  俺に笑って
  俺に、話して…
 
 おとといの、一緒に印刷をした楽しい時間が、遠い日のような気がした。
 
 


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