その声、イイ
 

 
俺はさすがに、このことは高明に言えなかった。
でも、空気はすぐに読み取られた。
「なんか上機嫌だな、七尾」
「え、そう?」
「ああ、なんかあった?」
「……まあね。クレームがイッコ解消した」
これも本当だった。厄介ないちゃもん客が、やっと交渉に折れてクレームを引っ込めたんだ。
「……へえ」
横目で俺を見て、冷たくそう言っただけだった。
……なんだ? 高明、また不機嫌だ。
でも俺には、クレームのことでもう一つ抱えていることがあった。
それを思い出して、つい大きな溜息をついてしまった。
「なんだよ。上機嫌の次は、大きな溜息」
すぐ気付いて、気に掛けてくれる。俺はそんな高明に甘えて、ついぼやいてしまう。
「ああ、……厄介なのが、いるんだ」
「客?」
「うん。大概は電話で済むんだ。代替え品送ったり、謝り倒したりで。それでもダメなら、土産品持参して、一回謝りに行けばオッケーなんだけど……」
 
何度も来いと言う。ソイツは。
すごくヤなヤツ……。
 
顔を思い出して、また溜息をついてしまった。
「また来いって言うんだ。俺、営業じゃないのに……」
営業は、行くだけ行って、散々待たされて、また来いと言われまた行く。
その繰り返しの内に、名前を覚えてもらい、契約を取りつけてもらえる。その地道な努力の繰り返しで、会社は成り立っている。
───それは判る。繰り返し通うことの、大事さも。
でもクレームは、理不尽ないちゃもんがほとんどと言っていい。
中には不良品もあるから、それはちゃんと対処すれば全く問題ない。
困るのは、ゆすり・たかり目当ての言い掛かりだった。
高額を請求してくるから、すぐわかる。そういうのは、誠意をもって、適当にあしらう。下手に言いなりになると、図に乗るから。でも……
 
「何がどう厄介なんだ?」
高明がソファの向こうから、身体を乗り出した。
ダイニングテーブルに頬杖を突いていた俺は、ちらりと高明を見る。
心配そうな顔。さっきまで不機嫌だったのに。
「何が目的なのか、判らないんだ。高額を請求するわけじゃなし。代替え品じゃゆるさないって。じゃあ、どうしたらいいんですかって直接は言えないから、遠回しに聞くと、また来いっていうんだ。なんか忙しいらしくて、長いこと話し合えないんだ、いつも」
「は~ん? ほんと、へんなヤツだな。なんてヤツ? 個人?」
「……バックに会社ちらつかせてる。大口契約破棄するかも…とか。高明、知ってるかな? SAEKIテクノサービスってとこ」
「サエキ? 桜ヶ丘のか?」
「やっぱ、知ってんだ。同じ系統だもんね」
「……知ってるっても、仲良しじゃねえぞ。あそこはロクなとこじゃねえよ」
「……?」
「仕事取っては、下請けにやらせて、ちっともイイ物つくりゃしねえ。ピンハネばっかりしてるよ。ウチもあそこから仕事回って来たことあったけど、断った。仕事内容と納期と報酬がめちゃくちゃなんだ。やってられっかって、社員で猛反対」
「へえ……」
やりかねない。そんな顔してた。意地悪そうな、細く尖った顎。
狡猾そうな目の色。
「でも……本当に。……何が目的なんだろう」
俺は、3度目の溜息をついた。
高明がいつまでも心配そうに、こっちを見ていた。
 
 
次の日は当番が高明だったから、俺はスーパーに行かなかった。気恥ずかしくもあって、それはとても助かった。
その翌日、やっぱり声が聞きたくて、他のスーパーに逃げずに青野君の所へ行った。
「七尾さん! 僕、会いたかった……」
小さい声で、そんなことを言ってくれる。
「青野君……、また、時間外に会えるかな」
あの声が聴きたくて、聞いてしまった。
「……機会があったら」
青野君は、曖昧に答えて笑った。……なんか寂しそうだな。そんな顔だった。
「七尾さん、今日この後ちょっとなら時間あります。お茶できませんか?」
「……いいけど。じゃあ、店うろついて待ってる」
俺は部屋で待ってる高明に、遅くなると電話を入れた。
『仕事?』
勘の良い高明は、すぐに聞いてきた。
「ううん、青野君と、ちょっと話しができるから」
俺は本当のことを言った。あんまり隠し事やウソは、言いたくなかった。
『へえ……、よかったじゃん。あんま遅くなるなよ』
「ああ、ごめんな」
『オレが餓死してたら、七尾の責任だからな! 一生後悔しろよ!』
そう言って、電話は切れた。
俺が遅くなるって帰るコールをした時は、必ず最後にコレを言う。
このキーワードを言えば、何が何でも早く帰ろうとすると、思っているらしい。
俺と違って高明は、どんなに遅くなっても、食べないで待ってるからだ。
 
「お待たせしました!」
私服に着替えて、青野君が走ってきた。
「そこのコーヒーショップでいい? あんま時間なくて」
「……はい。僕もです」
二人で、店の一番奥に座った。青野君がそこがいいと、言うから。
「七尾さん、初めて会った時、僕に言いましたよね」
熱いコーヒーを啜りながら、青野君が喋りだした。
「うん?」
「なんで、こんな仕事やってんの? って」
「あ……」
俺は思い出して赤面した。
「スーパーのレジを、舐めないでくださいよ! 僕はあれで、生計を立てているんですから! 第一、スーパーに失礼です!」
心地良い声で、俺に叱咤してくる。
俺は笑ってしまった。
「……そういうつもりじゃ、なかったんだけど。ごめんね」
青野君は黙って、コーヒーを啜った。
「……僕の声、いいって褒めてくれて、嬉しかったです」
「……うん、イチコロだった」
目を細めて笑った。今もぞくぞくする。この声は。
「僕、これでも声売って生活しようとしてるんです」
「えっ、そうなの?」
「……ハイ。でもまだまだギャラが安くて」
情けない顔で笑った。
「演技指導や、ボイストレーニングにお金がかかるのに、仕事で稼げないんです。だから、掛け持ちを幾つかやってて……」
「あれ、じゃあ、この後仕事って言ってたのは、ホントだったの?」
「ええー、ウソ言って、何になるんですか?」
なんでと言わんばかりに、目を見開く。
「……俺から逃げるためかと…」
「……そんなこと。だって、あの時、僕はもう……」
青野君の顔が真っ赤になった。
俺が見つめると、恥ずかしそうに目線を下げる。
 
───青野君の声から俺が逃げたように、俺の視線から逃げる。
 
 
「青野君……、こっち向いて」
そっと頬に片手を寄せると、顔を乗り出した。
青野君も、ゆっくり顔を出してきた。
コーヒーショップの片隅で、俺たちは隠れてキスをした。
 
「……俺の目から、逃げないで。俺もその声、聴いていたい」
「……七尾さん」
潤んだ目で、俺を見上げた。
 
「……僕」
 
「?」
なにか言いたげで、話し出さない。
「………?」
「……僕、七尾さんに会えて、幸せです」
「……ふ、なに言ってるの」
俺は笑ってしまった。そんな大げさなこと。
「僕、これから声で、たくさん仕事していけると思います」
「うん、そんなにイイ声だもの。青野君なら、すごい人気者になれるよ」
青野君は、ちょっと微笑んだ。
「……僕の声、忘れないでくださいね」
「何言ってんの! 忘れるわけないだろ!?」
俺はびっくりして、大きい声を出してしまった。
「……はい」
にっこり笑う青野君の目から、一粒、涙が零れた。
「!?」
こないだもそうだった。なんで泣くんだ。
抱きしめたい衝動に駆られた。でも、いくらなんでも人目がある。
「僕、そろそろ行かないと……」
涙を拭きながら、青野君が立ち上がった。
「ちょっと待てって……」
俺も立ち上がって、その手を掴んだ。
青野君が俺を見上げた。あのときと同じ格好だった。
「こうやって、掴まれたとき、僕、もうどきどきしてました」
笑って、青野君が言う。
「僕って、メンクイだったみたいです」
俺は赤面した。そして、負けずに言った。
「俺は……声フェチ」
青野君は、声を出して笑った。
 
……イイ声。俺の頭は痺れっぱなしだ。
 
「……離してくれますか?」
申し訳なさそうに、青野君が言ってきた。
「ああ、ごめん」
俺は、ぱっと手を離した。傍目にも、みっともなかったことだろう。
「……それじゃ、失礼します」
ぺこっと頭を下げて、青野君は出て行ってしまった。
俺は座り直して、残っていたコーヒーを飲み干した。
もうとっくに冷めていて、苦いだけだった。
 
───なんだろう、この胸のざわざわするのは。
  


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