chapter8. take a wait -凌ぎ-
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『メグ…気持ちイイコト、教えてあげる』
『慣れると本当に気持ちいいから。くすぐったいことに嫌悪しないで』
『うん…克にぃ。……僕、がんばる』
………そう言ったあと、泣き出してしまった。
幼すぎたんだ。……ごめんな、メグ。
無理しないで。
ゆっくりでいいから。俺のために一生懸命、大人になろうとする。
メグ……メグ……
気持ちいいこと、二人で……
肌を合わせよう……
幸せだねって、笑いあうんだ……温もりが、こんなにも愛しいことを……
───俺はずっと、恵にそう言い聞かせてきた。
泣かないように、辛くないように。
気持ちよくなれば、素敵なことだから……
………でも俺は“アレ”が嫌いじゃ、なかったのか?
あの行為を“気持ちいい”と、メグに言えるなんて……
───なんで……
「ここで、いい! 止めろッ!」
家に車が近づいていく。
それにつれ、恐怖が心を支配していった。
俺の家───
不条理に連れ出されたまま、帰ることが許されなかった。
どんなに戻りたかったか。
恵に会いたかったか。
自由になりたかったか……!
家にさえ帰れればと、思っていたこともあった。…あの檻さえ、逃げ出せれば。
……それでも、帰れなかったんだ。
なのに。
どんどん近づいて来る。
変わってしまった俺を乗せて。
恵を幸せにしたいと願った。絶対に傷つけないように……
俺だけがそれを出来ると、信じていたんだ。
───なのに!
車から降りて、走り出した。
自分の足でこんなにも、地面を蹴り続ける。そのことが、どれだけ久しぶりなのかも忘れて。
もつれる脚に、苛立ちと焦りだけが、浮かんだ。
速く……もっと速く!
見つかっちゃいけないんだ。…誰にも!
押し潰されそうになる気持ちを奮い立たせて、ポーチに辿り着いた。
人影はない。……父さんの車もない。急いで門の中に飛び込んだ。
───俺の鍵。
いきなり握らされた。あんな話を聞いた後で、俺は私物が返ってきたことに驚く余裕もなかった。
開けて入る時も、久しぶりの感触も、今はそれどころじゃない……。
静かな廊下。外靴のない玄関。まだ昼過ぎのせいだろう、家の中には誰も居なかった。
「────」
恵は……学校だよな……。
哀しみと安堵がごちゃ混ぜになって、胸の中で渦巻く。
───いなくて、よかったんだ……。
自分にそう、言い聞かせた。
2階に上って、そっと部屋のドアを開けた。
……懐かしい匂い
……懐かしい風景……
青と白の、大きすぎるベッド。並んだ机。薄いカーテン。
布団の上に、恵のパジャマが脱ぎ捨ててあった。
───メグ…
小さなそれを拾い上げて、抱きしめた。
「……ッ」
メグの匂い、温もり……面影を追い求めて、掻き抱いた。
『僕も、ボタンはめる!』
『だーめ。兄ちゃんがやるの!』
優しい時間の記憶。
くりっとした目…可愛い声が、蘇る。
───メグ……一人で、着替えてるのか?
食事や登下校も、全部、俺の手の中だったのに。
会えない時間の中で、いきなり放置されて……いったいどれだけ、育ってしまったんだろう。
「───はぁッ…」
ダメだ…急がないと。時間がないんだ。
手放せないパジャマを置いて、部屋の奥に向かった。
シャーペン、消しゴム、メモ帳…CDやMP3。……そして、レポート用紙と教科書、英字小説。
机の上には、ドラマのセットみたいな一揃えが乗っている。
───大学生……やってたんだ、俺。
自分のモノじゃないみたいに、よそよそしく感じた。
厚みの違う参考書の背表紙を、指先で次々と撫でていく。
「………?」
並びがおかしい。
フォトフレームに飾ってあった写真も、無い。
「……あッ」
スチールの引き出しの中が、どの段もぐちゃぐちゃに荒らされていた。
───父さんだ!
この荒らし様は、明らかに何かを探してひっくり返した跡だった。
「……………」
こんな状態で、放ってはおけない。
父さんに気付かれても、恵を不安にはさせたくなかった。
乱れた配置をなるべく元に戻して、目的物を一番上の引き出しの奥から掴み出した。
「──────」
……その存在感。
手にした途端、実感した。
旅行なんてもんじゃない。あの悪魔と……アメリカ……?
たかが一冊の手帳。
でもそれは、俺がここに居るという何よりの証だった。
……俺は……どうなるんだ?
心底、今のこの状況が恐ろしくなった。
真っ暗い闇に、足下から落ちていくような錯覚。……半年前まで、ここに住んでたんだぞ。
「…………は…」
皮肉の笑いさえ、出ない。
それどころか、あまりの闇の深さに、一瞬怯んだ。取り巻く何もかもから、逃げ出したくなっていた。
…………メグ…
腕の中の、さっきまでのパジャマ。
甘い残り香に、柔らかい体を抱きしめているような気さえする。
───恵がここにいたら……
もし今日、逢えていたら……俺は……
一緒に、連れて逃げたのに。
カチンッ
「………ッ!」
震えた腕が、スチールに当たった。
冷たい金属音────熱くなっていた頭を、心臓を、一瞬にして冷やした。
呪縛の存在が、己の立場を教えてくる。
「……クソッ!」
ギリリと音がするほど、奥歯を噛みしめた。
……連れて…行けるわけがない。なに夢見てんだ、俺は……!
弱気になってる場合じゃなかった。
ここに俺が居ることが、一番危険なのに。こうしている間にも、奴らはこの家に近づいて来る!
大男達の圧力、暴力、覆い被さってくる白い塊達……思い出すだけで身体が竦む。
アイツらがこの部屋に押し寄せたら……?
───もしそこに、メグがいたら…!
胸が悪くなりそうな恐怖が、俺の中に戻ってきた。
急げ! 見つかる前に、早く戻れ……!
持ち出せるものなど、何もない。掴んだメッセンジャーバックには、パスポートしか入れられなかった。
部屋を出る時、もう一度振り向いた。
俺と恵の部屋。
10年間、一緒に過ごした……俺の居場所。
「………ッ」
恵も、思い出も……何もかもを置き去りにして、俺は走った。
悪魔の待つ車へ。
「……お帰り」
真っ白な顔で、迎え入れて。
俺を乗せた車は、滑り出した。
あの時と同じように。
『天野!』
山崎が俺を呼んだ……あの時、逃げていれば。
………俺は、逃げ切れていたんだろうか。