ベランダの鍵貸します
 

 
「……名雪?」
 
 
 
 
 
「……え?」  
湯気を掻き分けるように、その姿が現れた。
お湯から半分乗り出すように立ち上がり、きょとんとした垂れ目が郡司を見上げている。
 
「ぐ…郡司さん……?」
 
のぼせて赤くなっていた顔が、更に赤くなった。
「なっ……何でここに!」
バシャンッと激しい水音を立てて、湯船の底に座り込んだ。そのまま奧の窓ガラスの方へ下がっていく。
曇ったガラス窓の向こうは、露天風呂だった。  
郡司は身体を軽く流すと、自分も湯船に浸かった。
縁の岩に寄りかかって、ふんぞり返る。
「ここのオーナーは、俺の父親だ」
平然と言い放つ郡司に、名雪はまた驚いた。
「オーナー!?」
その後は、絶句している。
 
「そ。だから俺もオーナー扱いだ。お前こそ、こんな所で……」
郡司も不機嫌な顔を、向けた。
あんな別れ方をして、面白くなくて。
気を紛らわせるためにこの宿に来たのに、その張本人がすでに来ていて、くつろいでいるとは。
 
「ぼ……僕はバイトです! 今の時期、春休みはいつも雇って貰ってるんです!」
郡司のじろりとした目線に負けじと、名雪も睨み返した。
「今は、従業員の入浴時間ですよ!」
出て行けとばかりの口調に、郡司は腹が立った。
「オーナーがいつ入ろうと、関係ないだろ?」
「いいえ! 従業員にもお風呂に入る資格があるんです! それを、上司だオーナーだって、入ってこられたらくつろげないですよ!」 
せっかくお湯を楽しんでたのに……と、湯気の向こうで、なおも呟く。
 
「…………」
郡司はそれを聞いて、嬉しくなった。
名雪は、ここのお湯が気に入っているのだ。
自分もここが好きで、だからこそ誰も連れて来たことは無かったのだから。
 
「悪かったな……」
「え……」
素直に謝られて、名雪もしゅんと項垂れた。
「しょうがないですけど……もう」
 
名雪は、それ以上に困っていた。
あの、最後に見た光景を思い出していた。
窓側に向いた大きなソファーの上で、濃厚なラブシーンを始めようとしていた郡司。
首に絡みつく色っぽい女の子の顔のせいで、郡司の堀深い顔が余計に男らしく、大人に見えた。
同年代で、ここまで違うか……
という、カルチャーショックに似たものを受けていた。
特に名雪は世間ズレをしていないため、標準より奥手なせいもあった。
 
アレを思い出すと、胸がドキドキしてくる。
見てはいけない物を見てしまった、罪悪感。
見たくない物を見せられてしまったような、ショック。
どちらとも付かない感情が、もやもやと胸を掻き乱す。
そして、郡司のキスをしている時の横顔。
隣の女の子より、艶めかしく見えた。
 
名雪は頭を振って、その映像を追っ払った。
(どうしよう……お湯から出れない)
一人だと思っていたから、タオルを用意していない。
へんに緊張したせいか、股間に違和感があった。
(キスシーンで、興奮しちゃったかなぁ……)
郡司の前で、半勃ちになってしまった下半身を晒して、湯から上がるわけにもいかない。
途方に暮れて、顔半分まで湯船に浸り込んでしまった。  
 
 
 
 
異変に気が付いたのは、郡司だった。
「…………おい!?」
湯気の向こうで静かになっていたシルエットが、どんどん湯の中に沈んでいる。
慌てて近寄って、名雪の身体を引き上げた。
「なにやってんだよ!」
反応の無い身体を淵に座らせて、外側のタイルの部分に身体を横たえた。
 
(うわ……)
真っ白な身体が、全身のぼせて真っ赤になっていた。
胸の色付いた部分も、綺麗な桜色に染まっている。
そして、その下の……
思わずそれに見惚れてから、我に返った。
幸い、お湯はまだ飲んでいないようだ。
「……名雪、……なゆき! …………おい!」
揺り動かして見たけれど、ぐったりしたまま意識は取り戻さなかった。
(しょうがねえな……)
ちっと舌打ちをして名雪を抱え上げると、浴場から出て、脱衣所のベンチに寝かせた。
「…………」
力無く横たわる、ピンクに染まった身体。
目のやり場に困って、その腰にタオルを掛けた。
(……風邪、ひいちまうな)
意識を取り戻しそうにない名雪を見つめて、また舌打ちした。
(他の従業員が来ても、これはマズい…)
名雪のこんな姿を、他の人間に見せたくなかった。
手早く水気を拭いて浴衣を着せると、ひとまず自分の部屋に連れて行って寝かせた。
二間続きの部屋で、奥の間にはすでに女将が夜具を用意していてくれた。 
 
従業員が一人使えなくなった、と女将に言いに行くと、
「あらあら」
と笑い出した。
「そんなに、ここのお湯が好きなのねぇ」
ころころと口元に手を当てて笑っている女将に、郡司も笑った。
「オーナーは入って来るなって、怒られましたよ」
「ふふ…。ここの教えですからね。長く働いて貰うために、従業員と言えど、お湯の時だけはお客様扱い」
「――女将さん! そういうことは、早く言って貰わないと……」
「あら、ぼっちゃんはお客様ですよ?」
心外、と言う目でちらりと見ると、女将はまた喉の奥で笑った。
「…………」
郡司は長年通っていて、そんなルールも知らなかったことが情けなかった。そして、オーナー風を吹かせていたことに、もっと恥ずかしくなった。
「まこちゃんの気が付いたら、部屋の方へ返してくださいね。ぼっちゃんの迷惑になるといけません」
「……まこちゃん?」
郡司は、耳慣れない言葉に、聞き返した。
「あら、ぼっちゃん。お友達なのに知らないんです?」
「……?」
「名雪 真琴って言うんですよ、あの子」
「え!?」
”名雪”は下の名前だとばかり、思っていたのだ。
「……通りで、変な名前だと思った」
「とっても、いい子ですよ。このシーズンになるといつも賄いに入ってくれるの。ここのお湯が好きで、他に行く気がしないんですって」
それを聞くと、郡司も気持ちが和んだ。
「……嬉しいですね」
「ええ」
にっこり微笑む女将にお礼を言って、郡司は専用の客間に戻った。
 
 
部屋では、名雪が目覚めて顔を赤くしていた。
「あ、あのっ……ぐんじさん……」
飛び起きた布団の上で、浴衣の裾を慌てて合わせた。
 
「ぼ……僕……どうして?」
 
一人目覚めた名雪は、自分がどこにいるのか全く判らなかった。
よくよく見渡して、自分が寝泊まりすることなどあり得ない、特級の客間だということに気が付いたのだ。
(え!?)
眩む頭で、色々思い出してみると、お風呂の辺りで意識がない。
恐る恐る自分を見下ろして、浴衣の下は何も着けていないことに愕然とした。
(!! …………まさか!)
そこへちょうど郡司が帰って来たのだった。
 
郡司も赤くなって、顔を背けた。
お湯から引き上げたときの、裸体を思い出してしまって。
「お前……あんなになるまで、我慢するなよ」
「……すみません」
名雪は小さくなって、謝った。
「僕、おいとま致します。申し訳ありませんでした」
更に小さく言うと、四つんばいになって、布団から這いだした。
まだフラ付いているらしく、立ち上がれないでいる。
「……無理すんなよ」
呆れて、諭した。
潤んだ目で見上げてくる名雪を見て、郡司はやっぱりジャスティに似てると思った。
(……そう言えば、”まこと”って)
郡司は可笑しくて、声を上げて笑い出した。
「な……何ですか!?」
名雪は風呂場での醜態を笑われているのかと、勘違いして顔を赤らめた。
「いや……うちの子犬、ジャスティっていうんだけど」
「……?」
「親が、弁護士でね。正義にちなんで。そしたらジャスティにそっくりなお前が”まこと”って名前だから、可笑しくて」
「――――子犬!」
今度はあきれ顔で、目をまん丸くした。
「はは……そっくり!」
ゲラゲラ笑い出した郡司に、名雪はどうすることもできなかった。
 
(子犬に似てるって言われても……)
大学3年。もう、二十歳も超えているいい大人が。
そう思うと、素直に喜べない。

 

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