ベランダの鍵貸します
4
「……名雪?」
「……え?」
湯気を掻き分けるように、その姿が現れた。
お湯から半分乗り出すように立ち上がり、きょとんとした垂れ目が郡司を見上げている。
「ぐ…郡司さん……?」
のぼせて赤くなっていた顔が、更に赤くなった。
「なっ……何でここに!」
バシャンッと激しい水音を立てて、湯船の底に座り込んだ。そのまま奧の窓ガラスの方へ下がっていく。
曇ったガラス窓の向こうは、露天風呂だった。
郡司は身体を軽く流すと、自分も湯船に浸かった。
縁の岩に寄りかかって、ふんぞり返る。
「ここのオーナーは、俺の父親だ」
平然と言い放つ郡司に、名雪はまた驚いた。
「オーナー!?」
その後は、絶句している。
「そ。だから俺もオーナー扱いだ。お前こそ、こんな所で……」
郡司も不機嫌な顔を、向けた。
あんな別れ方をして、面白くなくて。
気を紛らわせるためにこの宿に来たのに、その張本人がすでに来ていて、くつろいでいるとは。
「ぼ……僕はバイトです! 今の時期、春休みはいつも雇って貰ってるんです!」
郡司のじろりとした目線に負けじと、名雪も睨み返した。
「今は、従業員の入浴時間ですよ!」
出て行けとばかりの口調に、郡司は腹が立った。
「オーナーがいつ入ろうと、関係ないだろ?」
「いいえ! 従業員にもお風呂に入る資格があるんです! それを、上司だオーナーだって、入ってこられたらくつろげないですよ!」
せっかくお湯を楽しんでたのに……と、湯気の向こうで、なおも呟く。
「…………」
郡司はそれを聞いて、嬉しくなった。
名雪は、ここのお湯が気に入っているのだ。
自分もここが好きで、だからこそ誰も連れて来たことは無かったのだから。
「悪かったな……」
「え……」
素直に謝られて、名雪もしゅんと項垂れた。
「しょうがないですけど……もう」
名雪は、それ以上に困っていた。
あの、最後に見た光景を思い出していた。
窓側に向いた大きなソファーの上で、濃厚なラブシーンを始めようとしていた郡司。
首に絡みつく色っぽい女の子の顔のせいで、郡司の堀深い顔が余計に男らしく、大人に見えた。
同年代で、ここまで違うか……
という、カルチャーショックに似たものを受けていた。
特に名雪は世間ズレをしていないため、標準より奥手なせいもあった。
アレを思い出すと、胸がドキドキしてくる。
見てはいけない物を見てしまった、罪悪感。
見たくない物を見せられてしまったような、ショック。
どちらとも付かない感情が、もやもやと胸を掻き乱す。
そして、郡司のキスをしている時の横顔。
隣の女の子より、艶めかしく見えた。
名雪は頭を振って、その映像を追っ払った。
(どうしよう……お湯から出れない)
一人だと思っていたから、タオルを用意していない。
へんに緊張したせいか、股間に違和感があった。
(キスシーンで、興奮しちゃったかなぁ……)
郡司の前で、半勃ちになってしまった下半身を晒して、湯から上がるわけにもいかない。
途方に暮れて、顔半分まで湯船に浸り込んでしまった。
異変に気が付いたのは、郡司だった。
「…………おい!?」
湯気の向こうで静かになっていたシルエットが、どんどん湯の中に沈んでいる。
慌てて近寄って、名雪の身体を引き上げた。
「なにやってんだよ!」
反応の無い身体を淵に座らせて、外側のタイルの部分に身体を横たえた。
(うわ……)
真っ白な身体が、全身のぼせて真っ赤になっていた。
胸の色付いた部分も、綺麗な桜色に染まっている。
そして、その下の……
思わずそれに見惚れてから、我に返った。
幸い、お湯はまだ飲んでいないようだ。
「……名雪、……なゆき! …………おい!」
揺り動かして見たけれど、ぐったりしたまま意識は取り戻さなかった。
(しょうがねえな……)
ちっと舌打ちをして名雪を抱え上げると、浴場から出て、脱衣所のベンチに寝かせた。
「…………」
力無く横たわる、ピンクに染まった身体。
目のやり場に困って、その腰にタオルを掛けた。
(……風邪、ひいちまうな)
意識を取り戻しそうにない名雪を見つめて、また舌打ちした。
(他の従業員が来ても、これはマズい…)
名雪のこんな姿を、他の人間に見せたくなかった。
手早く水気を拭いて浴衣を着せると、ひとまず自分の部屋に連れて行って寝かせた。
二間続きの部屋で、奥の間にはすでに女将が夜具を用意していてくれた。
従業員が一人使えなくなった、と女将に言いに行くと、
「あらあら」
と笑い出した。
「そんなに、ここのお湯が好きなのねぇ」
ころころと口元に手を当てて笑っている女将に、郡司も笑った。
「オーナーは入って来るなって、怒られましたよ」
「ふふ…。ここの教えですからね。長く働いて貰うために、従業員と言えど、お湯の時だけはお客様扱い」
「──女将さん! そういうことは、早く言って貰わないと……」
「あら、ぼっちゃんはお客様ですよ?」
心外、と言う目でちらりと見ると、女将はまた喉の奥で笑った。
「…………」
郡司は長年通っていて、そんなルールも知らなかったことが情けなかった。そして、オーナー風を吹かせていたことに、もっと恥ずかしくなった。
「まこちゃんの気が付いたら、部屋の方へ返してくださいね。ぼっちゃんの迷惑になるといけません」
「……まこちゃん?」
郡司は、耳慣れない言葉に、聞き返した。
「あら、ぼっちゃん。お友達なのに知らないんです?」
「……?」
「名雪 真琴って言うんですよ、あの子」
「え!?」
”名雪”は下の名前だとばかり、思っていたのだ。
「……通りで、変な名前だと思った」
「とっても、いい子ですよ。このシーズンになるといつも賄いに入ってくれるの。ここのお湯が好きで、他に行く気がしないんですって」
それを聞くと、郡司も気持ちが和んだ。
「……嬉しいですね」
「ええ」
にっこり微笑む女将にお礼を言って、郡司は専用の客間に戻った。
部屋では、名雪が目覚めて顔を赤くしていた。
「あ、あのっ……ぐんじさん……」
飛び起きた布団の上で、浴衣の裾を慌てて合わせた。
「ぼ……僕……どうして?」
一人目覚めた名雪は、自分がどこにいるのか全く判らなかった。
よくよく見渡して、自分が寝泊まりすることなどあり得ない、特級の客間だということに気が付いたのだ。
(え!?)
眩む頭で、色々思い出してみると、お風呂の辺りで意識がない。
恐る恐る自分を見下ろして、浴衣の下は何も着けていないことに愕然とした。
(!! …………まさか!)
そこへちょうど郡司が帰って来たのだった。
郡司も赤くなって、顔を背けた。
お湯から引き上げたときの、裸体を思い出してしまって。
「お前……あんなになるまで、我慢するなよ」
「……すみません」
名雪は小さくなって、謝った。
「僕、おいとま致します。申し訳ありませんでした」
更に小さく言うと、四つんばいになって、布団から這いだした。
まだフラ付いているらしく、立ち上がれないでいる。
「……無理すんなよ」
呆れて、諭した。
潤んだ目で見上げてくる名雪を見て、郡司はやっぱりジャスティに似てると思った。
(……そう言えば、”まこと”って)
郡司は可笑しくて、声を上げて笑い出した。
「な……何ですか!?」
名雪は風呂場での醜態を笑われているのかと、勘違いして顔を赤らめた。
「いや……うちの子犬、ジャスティっていうんだけど」
「……?」
「親が、弁護士でね。正義にちなんで。そしたらジャスティにそっくりなお前が”まこと”って名前だから、可笑しくて」
「────子犬!」
今度はあきれ顔で、目をまん丸くした。
「はは……そっくり!」
ゲラゲラ笑い出した郡司に、名雪はどうすることもできなかった。
(子犬に似てるって言われても……)
大学3年。もう、二十歳も超えているいい大人が。
そう思うと、素直に喜べない。