ベランダの鍵貸します
 

 
「…………」
 それでも、目の前で無邪気に笑う郡司の顔を見て、安心していた。
(そう言えば、こんな笑顔を見たことは、なかったなあ)
 タイミングが悪くて、覗くな! と怒られてばかりだった。
 
「そうだ」
 その笑顔が、急に真っ正面に見下ろしてきたので、名雪はドキッとしてしまった。
 右手で前髪を掻き上げながら、自分を見つめてくる郡司。
 右側に少し傾げる顎と首のラインが、妙に艶めかしい。
(うわ……セクシー……)
 目を薄目にして視線を寄越す仕草が色っぽくて、まともに目が合わせられない。
 
「明日、一日付き合えよ。女将には言ってやるから」
 
「────!!」
 その一言で、名雪の気持ちはいっぺんに冷えてしまった。
 
「勝手なことを、言わないでください!」
 
 急に改まった声で怒り出した名雪に、郡司が怪訝な顔をした。
 姿勢を正して睨み付けてくる名雪を、見下ろす。
 いつも丁寧な言葉を使ってはいるが、今の名雪には他人と話すような仰々しさがあった。
「おまえ……さっきからさ、何、そのしゃべり方」
「郡司さんが、オーナー面するからです!」
 この温泉旅館の躾は厳しく、目上の者には徹底的に礼を尽くすように教育されていた。
「それに、今一番忙しい時期なんですよ。だから僕みたいなのでも、雇って下さってるのに」
 ますます名雪は、郡司を睨み付けた。
「女将さんに、そんな迷惑はかけられません!!」
「────!」
 働いたことのない郡司は、驚いて言葉が返せなかった。
 自分の言葉が、拒否されたことに。
 そして、その道理が通っていることと、名雪の仕事に対する姿勢に。
 
 軽く言ったつもりだった。
 いつもはそれで、周りが勝手に動いていたから。
 名雪も、自分が言えば当然「はい」と言うと思っていた。
 それだけ、”郡司”の名は威力がある筈なのだ。
 自分の仕事の為に、郡司を叱りつけたのは、名雪が初めてだった。
「…………そうか、それはそうだな。……すまん」
 すぐに謝る郡司に、名雪も怒りは持続しなかった。
(……さっきも、そうだ)
 風呂場でも、すぐに謝ってきた。
(この人って……)
 すぐに怒鳴ってしまう自分に後悔した。
 しゅんとして、布団にへたりこんだまま、郡司を見上げた。
 郡司はその様子を見て、また笑い出した。
(お座りとお預け状態の、ジャスティだな!)
「…………ぐんじさん~?」
「いや、すまん」
 笑いながら、名雪を見つめると、しゃがみ込んだ。
「……この間も、すまなかった」
 同じ目線にいきなり降りてきた整った顔に、名雪の心臓はまたドキッと飛び跳ねた。
「まだあの庭、使うなら、使っていいから」
「…………はい…僕こそ……」
 ごめんなさい──と、続けられなかった。
 自分に向けられた優しい笑顔に、心臓は早鐘を打ち鳴らしはじめる。
(僕……なんで、こんなにドキドキしてんだよう)
 戸惑って、下を向いてしまった。
「おい、名雪!?」
 郡司は、また名雪が湯当たりを再発したのかと思って、二の腕を掴んで抱え起こした。
「…………あッ」
 不意の衝撃に、バランスを崩した。
「──え!?」
 
 二人して布団の上に倒れ込んでしまった。
 名雪の浴衣の裾がはだけて、太股が付け根まで露わになった。
(うっ…うわっ! ………うわぁっ!!) 
 名雪は慌てて、足を閉じようと藻掻いた。
「──すまんっ!」
 郡司も、跨ってしまった身体を退かそうと、必死に起きあがった。
 そして、名雪の露わな格好が目に飛び込んできて、なおさら焦った。
(なんだ、こいつ──!?)
 浴衣の襟元も左半分がはだけ、肘まで捲れ上がっている。
 剥き出しの肩や脇、胸のラインがものすごく色っぽい。
 腰の帯が緩くて、辛うじて腰の前で合わさっているだけの浴衣。
 そこから伸びた白い足が、散々付き合ってきた女の脚より、遙かに艶めかしく見えた。
 視線は、胸の桜色の部分から下に降りて、足の付け根に釘付けになってしまった。
 見えそうで見えない、その秘部の奧は……
 さっきは丸見えで、相当泡を食ったけれど、この見えそうで見えない方が、視線が離せなくなった。
 
「………ぐんじさん?」
 怯えた目が、動かなくなった郡司を覗き込んできた。
「……!!」
 その声で我に返った郡司は、真っ赤になって仰け反った。今度こそちゃんとその身体を退けた。
「……悪かった」
 あらぬ妄想に自分で対処出来ず、もう目を合わせられない。
「いえ…僕こそ、すみません……」
 乱れた浴衣を直しながら、名雪も顔が真っ赤だった。
「女将さんに叱られますので、僕、おいとまします」
「……ああ」
 
 ドキドキ、ドキドキ……
 聞こえてしまうんじゃないかと、心配になるような心臓の音を、それぞれが持て余していた。
 
 次の日に、郡司だけ先に帰って行った。
 名雪は契約終了日までそこで働いて、大学の新学期が始まる頃、アパートに戻った。 
 
 
 
 
 
 
(どうしよう……)
 名雪はあれっきり、郡司を思い出すと心臓が鳴り出して困っていた。
(恥ずかしいなあ)
 でも、背に腹は変えられない。コインランドリーの浪費を考えると、恥は掻き捨てだ! と、勇気を奮うしかなかった。
 平常心を装って、以前の通りに洗濯物を干しに行った。
 でも、もう目線を窓に向ける気は無くなっていた。
 
 部屋の中では、また庭を使い出した名雪に安心した郡司が、同じように観察をし出していた。
(……あれ…)
 もう、ちらりともこっちを見ない名雪。
(…………)
 ずっと見ていても、一度も視線は飛んでこなかった。
 何故か、寂しく感じる自分がいる。
(そりゃ、覗くなって言ったのは、俺だけど)
 何か、物足りない気がしていた。
 もう洗濯物が全て干し終わってしまう。
 帰ってしまいそうな気配を感じて、郡司は慌てて、ガラス窓を開けた。
「名雪……」
 不意に呼ばれた名雪は、驚いて振り返った。
 郡司がいるとは思わなくて、余計びっくりしていた。
 頭の中はまさに、その人のことだらけで……。
 
「…………」
 郡司は、振り返った名雪の顔に見惚れてしまった。
 呼びかけたはいいけれど、それ以上言葉が続けられない。
 
 紅い頬と唇。耳まで真っ赤にして……
 困ったように寄せられた眉。
 優しく垂れた両目は潤んで、見開かれている。
 
 
 温泉宿での横たわった裸体と、着崩れた姿が思い返されて、腰が熱くなった。
(────!?)
 自分の身体の反応に、戸惑った。
 
「なん……ですか?」
 恐る恐る、名雪が聞いてくる。
 
「あ……いや。……終わったんなら、中で珈琲でもどうだ?」
 辛うじて平静を装い、室内に招いた。
「…………」
 名雪は、用心した顔で入ってきた。
 
 初めて室内で会う二人だった。
 名雪は広いリビングの奧に通されて、物珍しげに、きょろきょろと周りを見回し続ける。
 その仕草が可愛くて、また郡司は笑い出した。
「……また、犬と一緒にしてる!」
 勝手に怒り出した名雪は、何かを思い出したように黙り込んだ。
「……名雪?」
「名前で思い出したけど。……郡司さんて、苗字だったんですね」
 顔を赤らめて、そう言った。
 応接用ソファーに座って、見上げてくる名雪。
「……はあ?」
 その顔に見惚れつつ、素っ頓狂な事を言い出した名雪に、郡司は変な声を出してしまった。
「女将さんに聞いたんです。こうのすけぼっちゃまって言ってるのが耳に入ったから……」
 郡司にとってみれば、そんな事はとっくに知っているのかと思っていた。
 と言うより、あの大学で”郡司 孝之助”の名前は当たり前すぎて。今更「苗字です」なんて、言う必要があるとは思っても見なかった。
 
「通りで、初めて会った時、変な名前だなんて……」
「それは、僕も同じですよ! 僕の中では”名雪”なんて、説明するのもばからしいくらい、苗字そのものなんですから!」
 お互い、変な名前だなんて、笑いあっていた。
 それがおかしくて、二人はまた笑ってしまった。
「持っている常識の違いで、エラい勘違いを起こすもんだな!」
「ほんとに! 自分が絶対正しい、なんて、無いですね」
 


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