1.
 
 その会話は聞くに堪えなかった。
 会話と言うより、一方的なお喋りだ。
 
「キミのこの間の書類さぁ、別にイイケド、アタシ的に………」
「あの子、結婚するって。キミも知ってる経理課の。アタシなんて、しようと思えばいつでもそんなの出来るけどサ」
「ついでだから、ここでしっかり食べて帰ろうかな。帰れば作れるけど。アタシ料理嫌いじゃないし。いつもは作ってるし。ついでダシ……」
 
 
 
 うるさいなあ………。
 
 ちょっと早めの夕食時。
 ファミリーレストランにお一人様で入った僕は、コーヒーだけを注文して、4人掛けのテーブルに仕事の資料を広げていた。
 
 僕が座っているボックス席の、正面の向こう側。
 そのボックス席に座った二人の会話が、僕の集中の邪魔をした。
 座席の背もたれで仕切られているため、顔は見えない。
 男女らしいけど、女の声が妙にハイテンションで、自己アピールと言い訳の繰り返しばっかりだ。
 聞きたくなくても聞こえてくるその声に、ウンザリした。
 
 せっかく残業決定の業務を社内でやりたくなくて、ここに逃げてきたのに。
 頭を使う仕事は、人間をヘビースモーカーにさせる。
 僕は煙草の煙がきらいだ。
 会社に入社して2年。
 いい加減通い慣れた、ファミレスだった。
 
 合間に、低い声で合いの手も聞こえてくる。
「ええ……」
「はあ……」
 そんな具合だ。
 まともな返事も返せないほど、内容がバカバカしい。
 どんなヤツが、この女に付き合ってんだろう?
 僕は、シートの端っこに座り、身体を斜めに、外側に倒した。
「あ………」
 
 目が合ってしまった。
 想像していた、大人しそうな優男顔とは全然違った。
 釣り目にへの字口。細面の顎を肘を突いて支え、退屈そうな表情を作っていた。
 短い前髪は、優男どころか、男前だった。
 ネイビーブルーのスーツが、やたら似合っている。
 
 僕はいきなり目が合って、びっくりしてしまった。
 目をしばたかせた。
「──────」
 向こうも驚いたみたいで、僕を凝視したまま、ピクリとも動かない。
 そりゃそうだ。
 いきなり前のボックス席から、斜めににゅーっと顔が出てきたら、誰だってびっくりする。
 間に挟まれていた、うるさい声の主が、気が付いたようだ。
「なに見てんの?」
 連れの視線を追って、座席越しに僕を振り向いた。
 その瞬間、
「すんません、成子さん。オレ待ち合わせしてた。来たから帰ります」
 立ち上がった、その人は大股で歩いてきた。
「え!?」
 僕の手首を掴むと、
「遅かったな、行くぞ!」
 と、一言言って強引に腕を引っ張り始めた。
「えっ! えっ!?」
 僕は慌てて、テーブルに広げていた書類を片手で掻き集めて、その手でカバンもひっ掴んだ。
「ちょっ、ちょっと……!」
 コーヒー代をカウンターにばら撒くようにして払った。
 
 ───何!? ……なに、このヒト!
 
 スーツ姿だから、自分と同じサラリーマンなのはわかる。
 まあ、同じと言っても、僕はシャツにデニムパンツだけど。
 ただ目を合わせただけだったのに、なんでこんな事になるのか、判らなかった。
 ずっと腕を掴まれたまま、外に連れ出される。
「………離してください!」
 いつまでも腕を引っ張る男に、僕は叫んだ。
「ちょっと付き合えよ。振りだけでいいから」
「は?」
 横目で僕を見て、腰を引き寄せてきた。
 彼女と歩くみたいに、身体を密着させる。
「や……なんですか!」
 僕はすっかりパニックで、腰に回された手を解こうとした。
 でも、強い力で抱き寄せられていて、離れない。
 そうしながらも、今出てきたレストランが見えなくなる所まで歩かされた。
「ほい、ごくろーさん」
 ぱっと、腰から手が離れる。
「は?」
 僕は訳が分からず、その顔を見上げた。
 頭二つは背が高い。
 うんと見上げて、睨み付けてやった。
「何なんですか、それ!」
「あの、五月蠅い女から、逃げれた。アンタがいて、よかった」
 その物の言い様に、僕は呆れてただ口を開けた。
 
「………」
 不可解な男は僕をじっと見下ろしてきた。
「───?」
 眉を寄せた僕に、大きな掌が襲いかかってきた。
「わっ!」
 いきなり僕の前髪を後ろに掻き上げ、勢いでさらに上を向かせる。
「……アンタ、男だよな?」
「………えっ!?」
 僕は小柄で髪も長めなので、実際、遠目に女の子に間違えられた事はあった。
 でもそんなの学生の頃だし、こんな近くちゃ……幾らなんでも判るだろ!
「女に見えますか!?」
 頭に来て、言い返した。
「ああ、見えた。一瞬な」
 顔をぐいっと近づけると、僕をじろじろ見て、手を離した。
「腕を取ってみて、やべっと思ったよ。でも、もう引き返せなかったから、強引に引きずっちまった」
 そう言って笑った。
「……………」
 ───やべって……、ええっ、それだけ?
 僕は乱れた前髪を手で直しながら、愕然とした。
 どういう神経してんだ……。
「あの女、オレが違う女と店出たと思ってるよ」
 ………ああ、…あの女…。
「……うるさいヒトでしたね。よくあんなのに付き合う男がいるなって、思わず覗いちゃった」
 僕はあの声を思い出して、鼻の頭に皺を寄せた。
「そこが辛いトコだよな。……ある程度は付き合わないと、どうしょもない人脈ってのがある」
 見上げた顔も、同じように苦い顔を作った。
「……いいんですか? 大事な人脈を置き去りで」
「もう我慢の限界だったから、いいんだ」
 僕が見上げると、眉をひょいと上げて首を振った。
 
「なあ、このままオレに付き合えよ。デートしようぜ」
「はっ!?」
 
 けろっとした顔に戻ったこの男は、また腰に手を回してきた。
「ちょっ、冗談は止めてください! 僕は男だって……」
 幾ら日が落ちかけていると言っても、街の往来でこれはないだろう!
「判ってるって。でも、女に見えなくもないし」
 楽しそうに、顔を覗き込んでくる。
「デッ、デートって、なんなんですか!?」
 受け容れているような、僕の質問もすでに変だった。
 パニックになりながらも、さっき笑った顔にドキッとしてたから。
 ずっとつまらなそうな顔で、目と眉を吊り上げて、口もへの字に結んでいて……一見、冷たそうに見えた。
 だから、もっと恐いヒトだと思っていたのに。
「オレの貞操くれてやる。あのままじゃ、あの女に身体、喰われかねないトコだったからな」
「───!!」
 てっ、貞操!?
 僕は、頬が熱くなっていくのがわかった。
「……僕、仕事中だったんですけど」
 赤面しながらも、とにかく睨み付けた。
 自分勝手なヤツには違いない。まだ一回も謝ってないぞ。
 腰を抱くのも、いい加減やめてほしい。 
「ああ、あれ……仕事? 何やってたんだ?」
「……アナタに言っても、しょうがないでしょう」
 腰の手を剥がそうと、身体を捩った。
「……んっ!」
 いきなり唇を塞がれた。
 ───えっ!?
 顎を強引に持ち上げ、僕に屈み込んできて。
「んんっ――」
 舌まで入ってきた。
 ─────!!
 強引にねじ込んできたあとは、信じられない程優しく、吸い上げられた。
 
 ───あっ……
 僕は思わぬ不意打ちに、気持ちよすぎて腰が疼いてしまった。
「やっ……」
 びっくりして、唇を振り解く。
 膝がガクッと崩れ落ちそうになった。
「――!」
 力強い腕が、また僕の腰を支える。
「は……離してください!」
 僕は、唇を袖で拭いながら非難の目を向けた。
 情けないことに、涙目で。
「……いいけど、立ってられないだろ?」
 腰で支えられていた僕は、ぱっと手を離されて、足元が揺らいだ。
「あ……」
 勢いで、今支えていてくれた身体に、しがみついてしまった。
「────」
 身体を抱き合わせた格好で、しばらく見つめ合った。
 
 ───う……うわっ!
 
 至近距離に、心臓がバクバクする。
 キスされたショックも抜けてない。
 ───なんで、いきなりキス!?
 顔が熱くなっていく。
  


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