カバン返して。
 
8.
 
「……仕事は、伝票整理と、ちょっとした受付でした」
 
 
俺の胸に顔を埋めながら、千尋はまた話し出した。
くぐもった声が、ゆっくりと喋る。
「――でも、時々宅配の仕事が交じっていて……」
背中の手が震えた。
「……荷物は、ボクでした」
「……ッ!」
俺は舌打ちをした。
「もういいよ、やめろ!」
聞くに堪えない。
 
「ボクは……受付で値踏みされていたんです」
 
千尋は言葉を止めなかった。
「こないだのも、見たんですよね。……あれが1回目の命令」
(……ああ)
「そのあと何回かあって、ボク…逃げ出したんです」
「………」 
「それまでずっと、秀徳さんにいいようにされてました」
「…千尋!」
――もういいってのに! 
怒鳴ると、腕の中の身体がビクンと震えた。
俺の胸に両手を突いて、身体を引き剥がして、
「……ここまで言ったんですぅ。もう、全部言いますよぉ」
いつもの情け無い声で、力無く囁いた。
「……………」
その位置で、静かに自分の長い前髪を、一束摘んだ。
やっと影が見える距離だ。
「髪を伸ばして眼鏡をかけろ、顔を隠してろって。引き取られた一年後には、言われました。その時はもう…身体への悪戯は始まっていました…」
影が俯いて、片手で頬を押さえた。
「……普段は殴ったりしないけど、命令を破ると酷かったです」 
 
”ボクには必要なんです”
―――そう言って、眼鏡の奧で寂しそうに笑ったのを、思い出した。
”こうしてないと、駄目なんです”
……って、前髪を押さえて微笑んだのも。
 
「ボクの洋服や生活に必要な物は、総て秀徳さんからの、”支給”でした」
「……!」
「お小遣いは没収されて、自由になる物など何もなかったです」
「……ひでぇな」
俺の呟きに、こくんと頷いた。顔を隠す髪が揺れる。
「…それでも……それでも、ボクを世話してくれる人間だったんです。その家で寝泊まり出来ることに、感謝していました」
「……」
「でも…見ず知らずの男の人に抱かれに行くなんて……それは嫌で」
「……ああ」
「1回目の後、そう言ったら殴られました。お前は俺の賄賂だって。商談の度にお前を送り込んで、契約を取るんだ! って」 
「………」
俺はまた、腰がゾクリとした。あのオヤジにされたことを、身体が思い出した。
(あんなことを、繰り返したのか…!? )
「4人目でもう、ボクは我慢ができませんでした」
哀しい、消え入りそうな声…。
  
――それでやっと、逃げ出したのか。
少ない荷物を、あのカバンに詰め込んで……。
泣きながら座りこむその姿が、目に浮かぶようだった。
 
「……それで、あのバスに乗ったんだな」
「はい、……両親の記憶を頼りに。ちょっとずつ、こっそり溜めた全財産で、乗りました」
丸いシルエットが顔を起こして、口の端を上げた。
(―――全財産て…) 
高速バスなんて、往復でも何千円て程度だぞ…。
働きだした男が、それしか持ってないなんて。
 
俺は、闇の中で白い光を零した口元を見つめた。
(また…微笑だ)
こんな場面で微笑む千尋に、胸が痛くなった。
  
「…なあ、顔、見ていいか?」
「……え?」
「お前の顔が見たい。電気点けるぞ」
俺は返事を待たずに、立ち上がって照明のヒモを引っ張った。
「……!」
急な明るさに目が着いていかない。
眩しさに、二人で顔を顰めた。
 
「………」
  
戻ってきた視界で、足下の顔を見た。
涙の後が幾筋もついた頬……
真っ赤な目が、俺を見上げている。
困ったように眉を寄せて。口は何か言いたげに、ちょっと開いていた。 
「やっぱ、泣いてたな」
―――泣いてるのに、怒っていいときも…いつも笑うんだ、コイツ。
俺の呆れた言葉に、千尋も視線を揺らした。
「…………」
恥ずかしそうに、きゅっと噛み締めた唇が、赤くなった。
(……うわ)
俺は慌てて目を反らした。
 
「ちと、出ようか」
「……え?」
潤んだ目が、また聞き返した。
窓の外が白み始めてきた。もうすぐ夜が明ける。
「お前に見せたいものが、ある」
「? ……はい」
 
古いコートを引っ張り出して薄着に防寒させると、マウンテンバイクで山道を登った。
「ひゃあ、ひゃあっ」
首にしがみつく千尋が、大声をあげる。
今回はスピードじゃなくて、バウンドが激しかった。山のぼこぼこ道だ。さすがに転びそうなほどヤバイから、俺も慎重にハンドルを切った。
(無心になりたかったから、ちょうどいい…)
あの部屋で、あのまま見つめ合っていたら、俺は変な気を起こしそうだった。
唇を噛んだ仕草が、また可愛く見えた…!
ただでさえ、腰の疼きが止まらないのに。
「こっ、怖いです! 徹平さんっ!」
俺の気も知らず、千尋は頬まで擦り付けそうなくらい、俺にしがみついていた。
 
(…そういや、一回だけ、菜穂も乗せたことがあった)
――やっぱ同じようにしがみついてきて、可愛いなって思ったんだった。 
 
「おら、着いたぞ!」
やっと目的のちょっと開けた場所まで登った。
黒かった森は、明け始めた空に白いもやを立ち上らせながら、その姿を表し始めている。
千尋を下ろすと、近くの木にチャリを立てかけた。
「さっき”両親が”って、言ったろ。この地方出身か?」
「えっ! ……はい!」
地面に降りて息をついていた千尋は、俺を見上げて頬を紅くした。
「小さい頃の記憶でしかないけど、多分…」
きらきら目を輝かせて、嬉しそうに話す。
早朝の切れるような寒さで、口からは真っ白い息が絶えず漏れる。
 
(……綺麗だな)
 
ついそう思って、俺も顔を赤くした。
…なんだこりゃ。――やばい。
また変な気分になって、困った。
「ああ、ほら。始まる。こっち来い」
ごまかし半分、絶景ポイントに導いた。
 
「う……うわ……」
 
そう言ったきり、千尋は絶句してしまった。
澄み切った空気が、見渡す限りの世界をクリアにしていた。
夜が明けて、東からの朝陽が横一列の山脈を照らし出す。
頂きを真っ白にした連峰が、その尾根の一ヒダ一ヒダをくっきりと浮き上がらせ始めた。
そのくせ、照り返す陽の輝きで、白銀の雪面は立体感をなくしていく。…それはまるで、巨大な銀の屏風がそびえ立つような、神秘的な光景で……
眼下の山裾には街が広がり、その向こうに唐突に浮き出る眩い姿は、存在そのものがウソのようだった。
 
「すご…」
「だろ? この、朝陽に照らし出される瞬間てのが、普段の山とはまるで顔が違うんだ」
「……」
「この瞬間しかない色だから、スゲーんだ」
「……はい」
 
むかつくことがあると、俺はこの景色を眺めに来た。
コレを見たら、俺のちっぽけな悩みなんかいつも、一呼吸で吹き飛んでしまった。
  
「…………」
  
りんと鳴るような、澄んだ静けさの中で、二人で言葉もなく眺めていた。
陽が昇りきると、乱反射は終わってしまう。 
すっかり明るくなった頃、俺はハタと我に返った。
……ん? 
気が付くと、千尋が俺を見ている。
俺のダウンコートをぶかっと羽織っている格好は、妙に幼く見えた。
「なに?」
「あっ、いえ…」
視線を泳がせて、赤面している。
(…………)
さっきの自分を見ているようで、妙に照れくさくなった。
下っ腹がむず痒い。
救いを求めて空に目をやると、綺麗な青色に染まりだしていた。 
連なる山脈は、白銀と尾根のコントラストを取り戻して、相変わらずウソのようにそこにある。
「……ここの出なら、きっと山が好きだろうと思ったんだ」
「!」 
ハッとしたように顔を上げて、千尋がまた俺を見た。 
「……徹平さん」
「俺も、ここ来て好きになった! 気分はもう、地元人間だぜ。ここ生まれは、間違いなく山を好きになるって言うからな!」
にやっと笑ってやると、千尋もくすりと笑った。
「ありがとうございます……それで、こんなとこまで……。両親が好きだった山なんて、考えるだけで……ボク……」
細めた目の端が光った。
(うわ、泣かせた!)
「泣くな!」
ポロポロと零れ始めた涙に、慌ててしまった。
「目…目が凍るぞ!」
エッと、俯きそうだった顔が噴き出した。
「そんなに、寒くはないですよ~!」
(…………!)
真っ赤になった俺を見て、今度は笑い出した。
(まあ…、泣くよりいいけどな)
 
「ごめんなさい、もう大丈夫ですぅ」
苦しそうに笑いを止めて、両手で目を擦っている。
また眼鏡をはめる仕草に、思わず声をかけた。
「そんな眼鏡、もうすんなよ!」
「え……」
「必要ないだろ?」
「………」
千尋は口を紡ぐと、一瞬黙った。
困ったようにまた微笑む。
それを見て、俺の胸はまた痛くなった。 
 
 
「…徹平さんは、なんでこっちにき来たんですかぁ?」 
 
話題を変えようとするように、遠慮がちに聞いてきた。
(…………)
それを話すと、俺のブラックな部分にも触れる。
あんま思い出したくなくて、蓋をしてきたんだが……
「……あぁっ、ヤならいいんです! 聞きませんっっ」
無言で見下ろした俺に、慌てて手を振ってきた。
……千尋の真っ直ぐな目は、俺の心も透き通らせる。
 
「……あっち、行くか。俺の作ったベンチがある」
「えっ! すごい!」
ベンチったって、転がってた丸太を安定させて、上を少し平らに削っただけだ。
 
「ベンチ……」
5メートルも歩いた先に横たわるそれを、千尋はぽかんと見つめた。
回りは少し開けているだけで、もはや道もない場所だった。
「嫌なら座るな! お前は立ってろ!」
俺は一人で乱暴に腰を下ろした。どうせ二人で座ると、ギリギリの幅しかない。
「あぁ! 徹平さん、ボクもーっ!」
情け無く喚いて、真横に身体をくっつけて座りこんできた。
並んで座って正面を見ると、さっきとは違う風景になる。
野辺に広がる街は見えない。
霞がかった山裾の上に、くっきりと浮き出る連峰群。
それは、まるで蜃気楼に映った、宙に浮かぶ山脈だった。
 
「こっちもすごい…幻想的ですねぇ」
うっとりとした声で言うから、俺は可笑しくて笑った。
「そんな言葉、知ってんだ」
「知ってますよー! そのくらいっ」
急に俺を見上げたから、顔が近くて驚いた。
「おっ」
「わぁっ」
二人で同時に叫んだ。
 
―――なんだ、なんだ!? 
跳ねる心臓を抑える。
千尋の目が、唇が、艶っぽく俺を見上げているようで、そっちを見れなくなった。
(んだかなぁ、他のこと考えないと…)
股間がすぐ熱くなってきて、困った。
考えてみりゃ、今年になってから、コイツにフェラで1回抜いてもらっただけだ。
あれから、何日経つ? すぐ勃起するのは、当然だよな。 
 
「……!?」
宥めているブツに、温かく触れる物が…
「千尋!? なにやって……」
ゾクリと背中が疼いた。
デニムの上から、横から伸びてきた手が動き回っていた。
 
 
「徹平さん…そのまま、座っててくださいね…」
 

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