カバン返して。
 
17.
 
 後日、医者に頼んで、千尋の治療を継続してもらえるように手配してもらった。
 
「俺が保証人になる! 俺が保護者だ!」
 そう叫んで。
 保険証さえあれば、高額な医療費は返ってくるんだ。どうにでもなるさ!
 見切られて、ここを追い出されるようなことは避けたかった。
 
 
 俺は、もう決めていた。
 千尋を絶対守る。
 
 
 松葉杖でなんとか歩いて、俺は毎日千尋の病室に通った。
 カバンを枕元の下に置いてやって、話しかける。
 
「起きろ! 朝だぞ!」
「おい、メシ早く作れ!」
「千尋、弁当~!」
「山、連れてかねぇぞ!」
「カバン、返したのに。見ねぇのかよ!?」
 
 
「千尋……ただいま」
「……行ってくる」
 
 俺はこんな言葉しか、コイツに掛けてこなかったのか? そんな情け無くなるような台詞しか、思いつかない。
 それでも、病室に入ると「ただいま」戻るときは「行ってくる」と、会社に行くときの様に声を掛けた。
 動かない身体を抱きしめ、乾いた唇にキスをした。
  
  
 ──それにしたって……
 目覚める気配のない千尋に、俺は不安になった。
「1月が終わっちまう。……お前の誕生月が、来るぞ」
 髪を撫でながら、呟いていた。
 ……何故、意識を取り戻さない?
 実際、俺より重傷らしい。トラックに突っ込まれた後部座席に、乗ってたんだと。
 ……でも、”22歳の千尋”は、あんなにも元気だったんだ。
 このまま起きないなんて、俺には信じられなかった。
 
(もしかして、……目覚めたくないのか?)
 そんな嫌な予感が、過ぎった。
 枕元の縁に腰掛けて、千尋の顔を眺める。
「…………」
 だいぶ絆創膏も外れて、頬が見えている。
 その頬を、右手で包んだ。
 親指で唇をなぞる。
 噛み締めては紅くしていた、色っぽい唇……
 
『もう、生きてくの……むりかなって……』
 そう言った、アイツの言葉……
 逃げ出した直後じゃ、なかったんだ。
 仕事に就けず、宿もなく……
 もっともっと、途方に暮れてあのバスに乗っていたのか……
 また、胸が搾られるみたいに、痛い。
 
 
「千尋……俺がいるんだぞ」
 
「もう無理じゃないんだ! 起きろよッ!」
 
 
 無性に腹が立った。
 俺の短気は、治ってやしねぇな!
 腹ん中で失笑しながら、俺は千尋に怒鳴りつけた。
「おいッ! いい加減にしろよ!」
「カバン持って帰って、もう二度と来ねぇぞッ!! それでもいいんだな!?」
 そんな訳ねぇけど、思い浮かぶまま、怒鳴り散らした。
 頬を叩いて、身体を揺さぶる。
「困った顔してみろよ! ごめんなさいって、言ってみろよッ!」
 
「…………」
 それでも、動かない。 
 ピクリと眉の一本も動かない。
 俺は千尋に触れていた手を、首に持っていきそうになった。
「───ッ!」
 慌ててベッドを離れた。
 ──危ねぇな。怒りに駆られて、何をするかわかんねぇ……。
 
(クソッ……)
 
 頭を冷やすため、病室を飛び出した。
(痛ッテー……)
 左側が全然利かない。松葉杖もかなり不便で、無茶すると、背中に冷たい汗が流れた。
 廊下の一番外れにある洗面室に辿り着いて、洗面兼流し台のフチに腰掛けた。
 奧に5メートル、横幅2メートルくらいの奧行きがあるスペース。
 大勢の入院患者が朝同時に顔を洗えるように、切れ目のない洗面台と鏡が左右の壁に奧まで続いている。
「……ヒデェ顔してるな」
 そこに映った自分の顔を見て、苦笑した。
 目が怒りでギラギラしている。
 眉なんか、有り得ねぇほど吊り上がって。
『そんな顔で、見ないでくださぁい』
 そう言って縮こまった千尋の顔を、思い出した。
『そんな顔、しないでよ! すぐ怒る!』
 菜穂もそう言っては、俺を怖がった。 
 
 やっと、トラウマから抜けたつもりだったのに…
 まるっきり、逆戻りだ。 
 
 
「……?」
 ナース服のお姉さんが、カルテを片手に横の通路を走りすぎた。
「あの、看護師さん……」
 千尋の担当をしてくれてる人だ。
 その後から、白衣の先生と数人の看護師が、同じように廊下の奥へ走っていく。
 ガラガラとステンレスのワゴンで、通路に独特の音を響かせて。
 
 
(…………) 
 
 
 ドクンと、心臓が動いた。
 ───まさか
 そう逸る想いを打ち消しながら、俺もゆっくりと廊下の奥に戻った。
 千尋の病室の前には、さっきの治療器具を積んだワゴンが止まっている。
 中からは、騒がしい声が聞こえていた。
 
「…………」
 俺は待った。
 ───この目で、自分で見るまで…信じない。
 廊下の手摺りに腰掛けるようにして、壁に寄り掛かって。
 
 どのくらい待っただろう。
 医者や看護師達が引き上げていった。
 最後に、あのお姉さんが出てきた。
 頬に涙の跡がある。
 
「荻野君……」
「…………」 
「あんまり、無理しちゃダメよ。キミだって、まだちゃんと骨…くっついてないんだからね」
「…………?」
 
 ───なんで、俺の心配なんか…
「……千尋は?」
 
「驚かないでね」
 看護師さんは、また涙を流し始めた。
 
 
「千尋君……自分を6歳だと思っているみたい」
 
 
 
 ─────え?
 
 
 
「……千尋ッ!」
 俺は痛みを忘れて、病室に飛び込んだ。
 ベッドの上には、酸素チューブを外された千尋が、横になっていた。
 
 
「……はい?」
 
 ────!!
 心細げな、小さな声が返ってきた。
 それは、紛れもなくあの夢の中で聞いていた、千尋の声だった。
 
 枕元まで近寄って、顔を見た。
「…………」
 俺を見上げる目。戸惑って、揺れている。
 
「……ちひろ?」
 もう一度、呼んでみた。目の前で横たわる男の名を……
「……俺が……わからない?」
「…………」
 困ったように、眉が寄る。
 怯えた目の色は、まるっきり他人を見る目つきだった。
 
 ───マジかよ……!
 
 俺は……
 俺と同じように……目さえ覚ませば、意識さえ戻れば……そう思っていた。
 あの空間を覚えているかと、思っていたんだ。
 
 
 あどけない顔が、戸惑った目で俺を見ている。
 やっと開いた澄んだ瞳が、きらきらと揺らめいている。
 まさか……覚えていないなんて。
 
「─────」
 抱きしめたくなる腕をぐっと我慢して、ベッドの下からカバンを引きずり出した。
「約束したんだ。お前のカバン……返すぜ」
「……カバン?」
 ピクリと、千尋が動いた。
 身体を起こそうとして、顔を顰める。
「おい! 無理すんなよ」
 母さんが俺を止めたみたいに、千尋の肩を押さえた。
 千尋も右肩から指先まで、ギブスをしていた。
「……カバンの……外側のポケット」
 必死の顔で、俺を見る。
「……? 外側のポケットな」
 言われた場所のファスナーを開けてみると、一枚の写真が入っていた。
 
(……これは)
 
 そこには幸せそうな夫婦と、仲の良さそうな兄妹が写っていた。
 小さな千尋が笑っている。
 
 千尋はそれを大事そうに、動く方の左手で受け取った。
「……ボクの写真」
 そう言って、涙を流し始めた。
「よかった……よかったぁ」
「…………」
「……これね、こないだ撮った写真」
 胸に押し付けながら、嬉しそうに微笑む。
「一番好きな写真、幸せだったから。……あってよかったぁ」
 
「? 今は……?」
 6歳って、言ってたよな…
 どこまで覚えているんだ。
 ───何を忘れたんだ……
 
「ボクを……誰かが引き取るって、そーだんしてるんだって」
「……うん?」
「でもね、ボク聞いちゃった。ほんとは誰もイヤなんだって」
「…………!」
 寂しそうに目が翳った。
「でもいいんだ。ボクの場所は、ここなの。ボクがずっといたい場所は、この中なんだ……」
 またじっと、写真に見入っている。夢見るような目つきに変わって……。
  
 たどたどしい喋り。今は、6歳の子供かもしんないけど……
 夢の中のアイツも、同じだった。
「…………」
 俺のカバンだっつーのに、押入から引きずり出しては、中を覗いていた。
 蹲って座る千尋の背中は、本当に寂しそうだった。
 
 ……これに執着して……俺を追いかけてきたのか……
 
 
「俺がもらってやる」
 細い指から、その写真を抜き取った。
「……ぁ」
「過去もいいけど」
 驚いて追いかけてきた手を払って、顎を捕らえた。
 正面から見つめ合う。
「……未来の幸せ、見つけろよ」
 目の前のこの男は、6歳の子供……。
 言ったって、わかんないだろう。……でも俺には千尋だった。
 俺は”千尋”に語りかけて、唇を合わせた。
「……!」
 拒否反応…。覚えてないんだから当然だ。
 でも俺は、止められなかった。
 
 何もかも、忘れてしまったコイツ……
 辛い現実を封じ込めて。
 こんな昔の写真にしがみついてる心を、解放してやりたかった。
 ……俺たちの二人だけの空間。それまで忘れちまいやがって!
 
「…………」
 押し付けた唇が、熱い。
 俺の眼から、また涙が流れていた。
 
「6歳からリセットか……それもいいのかもな」
 
 驚いて瞠る目に、優しく微笑んでやった。
 そしてまた口付けをした。今度は舌まで入れて。
「…んぁっ」
 驚いて逃げるのを、ベッドに押さえ付けた。 
「んんーっ!」
 
 
 コレが最後。
 ”千尋”として、俺が接する最後のキス。
 
 もう、あの千尋はいないんだから……。
 


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