カバン返して。
 
18.
 
「ん……やっ………やだッ!」
 
 抗われて、ハッと顔を離した。
「…………」
 恐怖した顔で、俺を見上げてくる。
 いきなり自分に何が起こったのか、わからなくて戸惑っている顔だった。
 ───これじゃあ、ヒデノリって男と、同じじゃないか……
 
 俺は自分が何をしたか、やっと気が付いた。
「……すまん」
 
 ──サヨナラも…させてもらえないんだな。
 もう抱きしめることもできない。
 所在のなくなってしまった右手を、ベッドに突いて握り締めた。
 ……胸が、痛くなるばっかりだ。
 
 
 俺の声を聞いて、千尋もきゅっと下唇をかんだ。
 困った顔で、首を横に振る。
 胸の上で握り締めた拳が、小刻みに震えている。
「…………」
 こんな仕草、まるっきり”千尋”なのに……。
 俺はどうしていいか判らなくて、息を呑んだ。
 
 
「……あれ」
 急に小さい声を、発した。
 驚いて、自分の胸元を見ている。
「ん?」
「……ないっ!」
 胸元を触り、しきりに院内服の中を覗き込んで。
「大事にしてたのに……」
 血相の変え方が、尋常じゃない。
 痛みに顔を歪めながら、半身を起こした。
「おい、……大丈夫か?」
 起きあがるのを手伝って、肩を支えてやった。
 ……写真の他に、そんなモノがあったんか…
 布団周りをきょろきょろと見回している、丸い頭を眺めた。
「何がないって?」
 
「ボクのお守り……宝物です……」
 
 
 ───!? ……語尾が……!
 胸元を押さえてる。
 そうだ……そこには……
「……何が……あったんだ?」
 
 
「……鍵、です…」
 
 
 ─────!!
 
 
 俺は祈る気持ちで、訊いた。
「…………どこの?」
 
 
「………………」
 じっと考え込んでいる。
 俺の心臓が、早鐘のように鳴り出す。
 放心したような真っ白い顔は、表情が読めない。
 
「……わかりません」
 俯いたまま、ゆっくり首を振った。
「………………」
 
 
「でも、…綺麗なメタリックグリーンで……」
 
 
 
 ──千尋ッ……!!
 
 俺はそこまで聞いて、またその身体を、抱き締めてしまった。
 ──俺たちが繋がっていたのは、幻じゃない。
 俺だけが、見ていたんじゃなかった…!
 胸が熱くなる。
 いくら目の前にいても、俺を判らなきゃ意味がなかった。
 あれが、俺だけの幻想じゃないって…………二人で確かめ合いたかったんだ。
 
 腕の中で千尋は、それ以上何も言わない。
「……それで?」
 俺は、喉から声を搾り出した。
 
 
「……わかんない。でも、大事……大事なの…」
 
(!? ……戻っちまった!)
 ──何でだ?
 身体を離して、顔を覗き込んでみた。
 さっき一瞬現れた、大人の顔の千尋は、姿を消していた。
 そこにいるのは、失し物をして悲しんでるだけの、子供だった。
 
 ──何で…
 あの夢で見た酷い仕打ちが蘇る。辛い記憶……
 ……こんなにも、リセットしたがってるんだ。
 せっかく思い出した「鍵」の事を、封印するほど……
 
 
「それ……俺がもう一度、作ってやる」
「……え?」
「鍵の一つや二つ、俺がいくらでも作ってやる! 失したら、また作りゃ、いいんだよ!」
「……………」
「だから、退院したら俺んとこ……来い」
 
 
 俺との記憶より、この状態の方がいいなら……
 コイツが、それを望むんなら、俺は”しょうがない”と思った。
 
 ──そんな言葉、最悪だけど……
 ……前向きだよな? ……千尋…
 
 
 
 目が覚めただけでも、感謝しなけりゃいけなかった。
 あんなに待ち続けたのに、俺は、そんなことすら忘れていた。
 
 そうさ、失った時間は……また作ればいいんだ。
 『徹平さん、えらいですぅ~』
 あの脳天気な声が、聞こえる気がした。
 
 
 
 
 
 心ん中で苦笑して、千尋を見つめた。
「…………」
 また戸惑った顔で、俺を見返している。
 他人行儀なそれは、なんで? って聞いている。
「お前をイラナイなんて言う奴ら、お前から、蹴飛ばしてやれ!」
 頭に手を置いて、撫でてやった。
「俺は、お前に来て欲しい」
「…………」
「なっ!」
「……うん」
 上目使いで遠慮がちに、こくんと頷いた。
 
(…………よかった)
「さっきはごめんな。…もう何もしない」
「…うん」
 もう一度、緊張しながらも、俺を見て、頷く。
 
 俺を見て…頷く…
(……………)
 本当に一から、やり直しなんだな……
 
 
「…自己紹介から、始めよう」
「……はぃ…」
 ベッドの縁に座り直して、起きあがっている千尋と向き合った。
(可愛いな……)
 神妙な顔をして居住まいを正している姿が、妙におかしい。
 もともと持っている雰囲気だったんだ。懐かしい千尋が、垣間見える。
 俺は口の端を上げながら、優しく言った。
「まず、お前からな。一緒に暮らすんだから……お前のいろんなこと、知っときたい」
「うん」
 小さく頷くと、ニコッと笑って話し出した。
「ボク、みずさわちひろ。 6さい! 小学校1年生!」
「うん……、そんで?」
「えっと、海の見える場所に住んでたの」
「海? ……じゃあ、海が好きか?」
「うん! 波の音が好き~。でも本当は山が好き!」
「どうして?」
「パパが、山が好きだから」
(…………!)
「あっ……」
 そこまで言って、哀しそうに顔を歪めた。
 泣きそうな目をしたまま、放心している。
(…………)
 
 
「……でも、……いなくなっちゃった……」
 
 膝元に視線を落として、寂しい声を出した。
 
「妹がいたの。……ちっちゃくて、元気だった」
 握り締めた手も、絞り出す声も、震えている。
 見る見るうちに、顔が歪んでいった。
「……パパとママと一緒に、……死んじゃった」
 ボロボロ……涙が零れ始めた。
「写真撮って、すぐだったの……だから、まだ……ボク……」
 
 
「ちひろ……」
 身体を抱き寄せて、頭ごと抱えた
 子供の声で泣くその姿は、痛々しすぎる。
「ありがとな、よくわかった」
 
 俺は今、やっと気が付いた。
 何故千尋が、起きなかったのか。
 
 辛いことを帳消しにしようと、時を遡ってみても……
 ……哀しい現実が、待っていたんだ。
 
 
 ──俺は、勘違いをしていた。
 ”記憶を失って、幸せな頃に戻った”なんて、そんな単純なもんじゃない。
 アイツとの…ヒデノリとの数年間を消したって、家族は戻ってこない。
 辛い現実が哀しすぎて、起きれなかったんだ。
 
 
「……ごめんな」
 抱えた腕に力を込めて、囁いた。
 千尋の顔を俺の胸に押し付けて、俺も千尋の髪に顔を埋めて……。
 起きないコイツに腹を立てて、散々罵ってしまった。
 ……俺の言葉を、コイツはどんな想いで、聞いていたんだろう。
 
 伝い続ける涙と一緒に、言葉も止まらなかった。
「ごめんな……ごめんな……」
「……………」
 
 
 
 どのくらい時間が経ったのか。
 窓の外は、夕暮れに紅く染まっている。
 ずっと泣いていた千尋も、さすがに泣き疲れたようだった。
「目覚めたばっか、だったもんな。無理させちまった」
 一度自分の病室に戻って、明日出直そうと思った。
 
(ん……)
 でも、泣き腫らした目で俺を見ている情け無いカオ……。
 それを見たら、何となく戻れなくなってしまった。
 
「千尋……お詫びに、追加だ」
「………?」
 すこしでも、この顔が笑顔になればと、思って。
「哀しいことばっかじゃ、ないんだぞ。お前のプロフィール」
「………うん?」
 
「お前の名前は水澤千尋。22歳だ。誕生日は2月29日」
「…………」
「……他の奴らと違って、4年に1回しか歳を取らないと、思っていた」
「! …うん」
 恥ずかしそうに、頬を赤くした。
「だから、今年はまだ5歳だ」
 今度は俺が笑った。この話をしていたときの、アイツを思い出す。
「口癖は、”だって”。……何か言いたいことがあって口答えするクセに、言わない。絶対、言わないんだ」
「……………」
 俺は記憶の中の千尋を、片っ端から並べ立てていった。
 哀しいことばかりじゃない。幸せな時もあったんだって、コイツに教えてやりたかった。
「それから、我慢強い。そんなに我慢しなくていいんだってほどな」
「……」
「……それから、スッゲーおっちょこちょい。すぐにモノをどっかにやっちまう」
 指を折りながら、口の端が上がっていくのが判る。
 最初の頃は、腹立ってしょうがなかった。あのノーテンキさに。
「だから、首から鍵を下げさせたんだぜ。……でも、懲りないトコがいいよな。すぐ笑う」
 俺につられて、千尋も微かに笑った。左手がまた、無意識に胸を探っている。
「謝られるのが苦手なんだ。俺がゴメンっつーと、すぐ下を向く」
「……」
「俺のことなのに、自分が泣きそうになって俺を励ます」
 ……いや、泣いてたなあれは。
 あの時を思い出すと、胸が熱くなる。
 俺の後悔を、一蹴りで片づけやがった。コイツらしい台詞で。
「”前向きなしょうがない”……なんて言うんだぜ。”偉かった”とかな!」
 指が一往復してしまった。でも右手しか使えないから、また同じ親指を折りだした。
「何があっても、怒らない。……笑うんだ」
 自分の折り曲げた親指を見つめながら、ドア前の暗がりで蹲っていたアイツを思い浮かべた。
「怒っていい時も、哀しいときも……笑ってた」
「………」
「それから、スッゲーやらしい」
「!!」
 ちらりと視線を送ってやると、困った顔で頬を真っ赤にさせている。
 子供にゃ刺激が強いかとは思ったけど、これが千尋なんだ。
 全部言ってやる。
「キスが好きで、エッチが好き。料理も好きで、弁当まで作ってくれる……タッパにな!」
 折った指を見ながら、また笑ってしまった。
 
 
 
「……それから、俺のことがスッゲー好き…」
 
 
「……………」
 
 
 
 
 
「臆病で、俺の顔が怖いって言うクセに、……すぐに懐いた」
 
「グリーンの食器セットが、お気に入りで……」
 
 
 
(……ん?)
 続けようと、なおも指を折ったところで、千尋の様子が変なことに、気が付いた。
 視線が……俺の遙か後ろ、どこか遠いところを見ているように、彷徨っている。
「………!」
 俺は、その丸く見開かれた双眸を見つめて、息を止めた。
 
 
「─────」
 
 
 やがてゆっくり、その視線が動いて……俺を捉えた。
(………………)
 唇が、微かに動く。
 
 
「……………」
 
 
 もう一度、はっきりと俺を見つめて……眉を哀しげに寄せた。
 
 目をギュッと瞑り、首を横に振って……
 真っ直ぐな髪が、乱れる。
 
「……ぁあッ…」
 
 動く方の左手で、頭を抱えて……絶叫しだした。
 
 
「ぁあああーーーッ!!」
 
 
 
 千尋──────!!
 


NEXT / 長編SS短中編