真夜中のページ・ボーイ
18.
────!? ……15年!?
「…………は……?」
……野暮どころじゃない……!!
……とんでもない、話しになった……
「そんなに長い間? ……ここに……?」
何年も住み込んでる老人が居るってふうに、聞いていたけど……まさか、そんなとは……。
───えっ……
ていうか……
「ウソ言うなよ! そんなに居て……なんでみんな、アンタのコト知らないんだ!?」
僕は最大の疑問を、やっと投げかけた。
両腕を突っ張って、男から離れる。
得体の知れなさに、今更ながら、ぞっとした。全裸という無防備な格好にも、唇を噛んだ。
「…………」
男は僕をじっと見つめると、おもむろに起き上がってベッドを出ていった。
…………?
その姿を目で追いながら、足元の掛布を引き上げて、身体を隠した。
……怠い
寝直して、男の消えた洗面室の方へ視線を放ってみる。
姿はすぐに現れた。俯いて、ゆっくりと歩いてくる。……手にはヘアブラシ。
「…………?」
ベッドのフチに腰掛けると、そのブラシで長い前髪を掻き上げ始めた。
─────あ……!
オールバックに掻き上げた髪の内側から、ストレートの前髪が出てきた。
それを何筋か額に垂らす。
ウェーブしてる髪と、そのストレートの前髪では、全然印象が違った。
そして、男が伏せていた目を上げた……。
「────えっ!?」
───真っ黒い双眸。
何よりも印象が違うのは、そのせいだった。
そして、書斎机の脇の壁に掛けてあった、仕立てのいいスーツの上を着込んだ。ネクタイまできっちりと締めて。
真っ黒になった目で、涼しげに微笑んで見せる。
その姿は、上流階級に属する気品に溢れていて……
金持ちの息子か、トップ事業者か……僕の想像する人間像なんて、そんなもんだけど。
とにかく、普段のバーテンダーみたいな軽薄な印象とは、まるで違った。
「…………」
驚いて起きあがったけど、何も言えない……。
「カラーコンタクト」
男は僕をその目で見下ろして、口の端を上げた。
「…………」
「外出する時は、必ずしているからな。……お前が騒いだところで、俺は絶対にバレなかった」
───そういう……こと……
……え? ……でも……
納得しかけた時、ふと、疑問が湧いた。
「僕に会うときは、いつも……」
喉から声を絞り出した。
エレベーターに乗り込んで来た時も、渡り廊下でも……
コイツが琥珀の双眸を隠していたことは、なかった。
「……なんで僕に、アンバーを見せた……?」
まるで違う他人の顔……
真っ黒い眼と見つめ合ってみても……
額に掛かる、ストレートの前髪を見ても……
違う……向かい合っている気がしない。
どこを見て話せばいいのかわからず、視線を彷徨わせてしまった。
「………………」
その見慣れない二つの瞳が、僕を真っ直ぐに捕らえた。
「本当の俺を……助けてほしかった……」
「────!!」
「いつも、お前を確認して、これを外していた」
「もし……誰かに見られたら……」
……そんな危険を冒して───
「はッ、……どうなったかな。……俺にとっても、賭だった」
「…………」
「実際、あの渡り廊下では……焦った」
…………。
「あの時は、車中でコンタクトを落としてしまっていたんだ」
「…………」
「だから、あそこで出会ったのが……見られたのがお前だったことに、俺の運のツキを確信した」
にやりと口の端を上げると、少し面影が出た。
……でもやっぱり、別人だ。
誰も……知らないわけだ。
そんなことくらい、思いついてもよかったのに。
───あまりにも強烈な悪の印象が……別人として存在出来るという可能性を、僕に想像もさせなかった。
「普段は、別館の俺用の部屋か…新館に泊まっている」
「……新館?」
「そう……そこで、お前を見た」
「…………」
「すれ違いに、“新しいボーイ?”って聞いたら、“ヘルプです!”て答えた」
────エッ!?
「“僕、須藤って言います、よろしくお願いします”とも、言っていた」
─────!!! ……ちょっと、待って……
「擦れ違った!? ……僕、アンタと会ってた!?」
「一瞬な」
また、口の端を上げる。
───うそだろ……
仕事上、顔を覚えるのは得意だった。
一目で印象を覚え込む。
服装が違ったって、たいてい判るもんなのに……。
ヒトの印象なんて、そう変わるもんじゃないから……。
目の前の男を、もう一度見上げた。
悪から善に……完全にスイッチしている。
当たり障りのない空気。目立たず、大勢の人の中では、紛れてしまいそうな、弱いオーラ。
……カメレオンみたいだ。
この格好のまま、派手なオーラを出せる筈だ。女の子達が騒ぐような、客になれる。
その空気をみごとに、消し去っている……。
「……なまえ……は? ……アンタの名前」
───何度聞いても、幽霊だと言う。
洒落じゃない……本当に幽霊みたいに、存在なんかしてなかったんだ。
……でも、この格好には、名前があるはず……
「……織部 宗司」
他人を呼ぶように、ぼそっと呟いた。
「アイツが付けた名前だ。……いかにもだろ」
───オリベ……ソウジ
「……うん」
このカッコには、合ってる。本当に…いかにもだと思った。
そして、ホントのコイツには、全然似合わない。
「本当の名前……教えてよ」
「……忘れた。ねぇよ、そんなモン」
「…………」
「15年もゴーストをやって来た。これからもその名前で生きていく……アイツに取って代わるんだからな」
凶暴な笑みが、ちらりと覗く。
「そのためには、本当の名前なんて要らねえ……捨てたんだ」
そう吐き捨てるように言うと、ネクタイを外して、スーツを脱いだ。
下を向いて、コンタクトを外している。
「…………」
その一つ一つの動作が完了するにつれ、本当のコイツが現れる。
アンバーの光を再び見せたときは、無性に哀しくなった。
“忘れた”
本当の名前を、そんな風に言わなきゃならないなんて……
───弟子入りしたまま囲われて、ゴーストとして生きることを運命付けられた男……
自分の人生を奪ったヤツの、名前を乗っ取って……すり替わって……復讐を果たそうとしている男……
「もし、僕が…ヘルプで……来なかったら……」
掠れる声で、呟いた。
「……さあな…」
聞くともなしの呟きに、ぼそりと答えている。
───救われなかったんだろうか、この魂は……
「なんで、泣いている……」
「……アンタが、泣かないから……」
───俺を助けろ───
いつも、そう言ってたんだ。この瞳は……
このサインを見逃しちゃダメだと、僕は無意識にこの男に食らいついていた。
獰猛な猛禽類なんかじゃ、なかったんだ。
───強がって、威嚇ばかりしている……寂しい狼……
涙が、後から後から、頬を伝う。
男は、剥き出しの僕の肩に、ガウンを持ってきて掛けてくれた。
「お前が泣くな」
正面に立ったまま、頬を太い指が撫でてくる。
「……何て呼べばいいの……アンタのこと」
「…………」
「僕を特別扱いするなら……みんなに使っているウソの名前なんか、イヤだ……」
「……蓮」
「……レン?」
「……本名だ……」
──レン……
こっちの方が、さっきのより、ずっとしっくり来る……
ベッドに腰掛け直すと、僕に顔を向けた。
「……なんだ?」
「ううん。似合ってると思って。……その名前」
レンはちょっと目を細めると、膝の上に置いた自分の掌に、視線を落とした。
「…………?」
「──俺は……本名を……自分を取り戻して、いいんだろうか……」
苦しそうに眉を寄せている。
───レン……
僕は大きなガウンの前を会わせてベッドから降りると、レンの前に膝を付いた。
剥き出しの膝頭が、毛足の長い絨毯に包まれて沈む。
「─────」
揺れる琥珀を覗き込んだ。
さっきの名残で、前髪を全部後ろに流している。今はその双眸の全容が見えていた。
───この眼が……恐かった……
きらきらと煌めく、琥珀色。
金色にも、深い土色にも変化する。
───判ってみれば……寂しい狼が一匹……
今も、独りで彷徨ってる……
僕は両手を伸ばすと、綺麗に整えた髪に指を差し込んだ。
「────!」
驚くレンを無視して、長い髪をぐちゃぐちゃに掻き回した。
「…………おいっ……」
「こっちの方が、レンだ」
僕は満足して、垂れ下がった前髪から覗く宝石を、もう一度眺めた。
「…………どんな人生だって、他人には成り変われないよ」
───復讐で、自分の名前を捨てるなんて、間違ってる……
「どこまで行ったって、アンタはアンタだ」
「…………」
「その琥珀、僕だけに見せてくれて……嬉しい」
……恐かったけど。
そうでなきゃ、この孤独な魂のことを、僕は判ることができなかった。
「その眼は、レンのモノなんだ……名前も」
「…………」
「誰に隠してたって、誰も知らなくたって、アンタはここに居る」
どんなに知りたくても、存在しなかった謎の男。
でも、いつの時も強烈な存在感で、僕の前には必ず居たんだ。
このオーラが、あの爺さんに成り代わるために、抹消されるなんて───
「ホテルには……いろいろな客が来るよね」
「…………」
「本名、偽名、それぞれの事情はあるだろうけど、毎日何百人も…年間何千人、何万人、て入れ替わる中で、同じ人間が二人…なんて、絶対ありえない」
接客してれば、わかる。
放ってる雰囲気、匂い……。それは、どこまでいっても、本人のものでしか、ない。
「あの人が、いなくなったら……中埜御堂都は、アンタだ」
「…………」
「レンが中埜御堂都になるんじゃ、ないよ……わかる?」
琥珀が見開かれて、煌めいた。
光をたくさん取り込んで、今は黄金色に輝いている。
唇が微かに動いた。
何か言いたそうに……。
膝の上の大きな掌に僕のを重ねると、その手を握られて、引っ張られて……
僕もレンの膝に身体を乗り上げて、首を伸ばした。
「…………」
唇が、そっと重なる。
触れるだけ……押し当てるだけ……
ひどくゆっくりと、時間が流れている気がした。
長い長い……柔らかいキス……
スローモーションで、その顔が離れていく。
「…………」
二人で、お互いの目を覗き込んだ。
もう一度顔が近づいた時───奥の部屋から呻き声が響いた。
「───────!!」
ビクッと、二人の身体が跳ね上がった。
瞬時に、レンの目の色が変わる。
顔は真っ青になり、ギラギラと光る琥珀が吊り上がっていく。
「───────」
僕は声も出せずに、レンを見つめた。
地獄からの呻き声は、どんどん大きくなって……誰かの名前を呼び始める。
この間と同じような恐怖……僕の身体も、震え出した。
「………………」
レンの両腕が、僕をきつく抱き締めた。
頭から抱えるようにして、胸の中にくるみ込む。
「ヤツに飲ませていた薬が切れた……お前は、もう帰れ」
…………薬……。
「レンは……?」
あの中に呼ばれたら、何が起こる……?
「俺のことは、心配ない……いつものことさ」
胸の中で見上げた僕に、静かに答えた。
「早くしろ……」
僕は制服を着込むと、絨毯の上でひっくり返っているワインクーラーと、すっかり室温になってしまったワインボトルを拾い上げた。
部屋の出口に向かいながら、室内を振り返ると、ベッドの端に腰掛けたままのレンがいた。
───胸がぎゅっと痛くなった。
目頭が熱くなっていく……
「レン……」
そう呼ぶと、滲んだ視界の中で、レンが座ったままハッとして顔を上げた。
「僕……アキヤ……須藤晃也だよ」
それだけ言って微笑むと、101を後にした。