その声、イイ
 

 
「七尾!!」
 
ドアが激しく開く音と共に、叫ぶ声が聞こえた。
「!?」
佐伯が驚愕して、身体を起こした。
圧迫感が少し減って、俺は息をついた。
涙で滲んでしまって、よく見えない。
「そこまでだ、佐伯典仁! 恐喝及び強制猥褻罪の現行犯で、逮捕する!」
「……ぐっ!!」
佐伯の喉から、変な音が漏れた。
───高明!?
 
「……どけっ」
俺も正気を取り戻して、渾身の力を振り絞って、佐伯をはね除けた。
拘束された不自由な両手で、ズボンを引きずり上げる。
こんな姿、高明に見せられない。
他にも三人、入ってきた。
二人は警官。もう一人は大学時代の友人で、法律関係に進んだ柳原敬一だった。
「佐伯さん、絶対に逃げられません。証拠は抑えましたから。アナタのやった事は……やってきた事は、許されませんよ」
「……ふっ! っはは!」
佐伯は、笑い出した。
「証拠だと? 写真でも撮ったか!? コイツのこんな姿を、世間に公表する気か!」
「……!」
俺はそれを聞いてゾッとした。思わず、高明を仰ぎ見る。
高明は駆けつけて、俺の手首の戒めを解いてくれていた。
高明は、蒼白な顔をしながらも、顔を横に振る。
 
「素人犯罪者は、すぐそう言って、哀れな子羊を恐怖に陥れる」
柳原は、一歩前に出ながら、静かに続けた。
「……何!?」
「被害者のプライベートを伏せての訴え方は、幾らでもあります。証拠写真も、アナタさえ暴力をしている場面が確実に映っていればいいのです」
「───クッ…」
淡々と、凛とした声が響く。怯えきっていた俺には、説得力に溢れてて……。
高明の腕に抱きかかえられながら聞いていて、とても心強かった。
佐伯は警官に手錠を掛けられて、連行されていった。
「事情聴取を取りたいので、落ち着いたら署にきてください」
「……ハイ」
 
去り際に言う警官に、なんとか返事を返して、俺は衣服の乱れを直した。
そして高明に向き合った。まだ現状が、把握できていない。
「……なんで、ここに?」
掠れた声で、聞いた。
「すまん……こないだは言わなかったけど───オレは佐伯について、変な噂も耳にしていた」
「……」
「客や取引相手を、食い物にしてるって……」
「!」
俺はそこまで聞いて、疑惑が湧いた。
「……俺を、……囮にしたのか?」
「!! ……いや、そうじゃない!」
高明の声が上擦った。
「ここまでしないと、佐伯は止められないと、そう言われたから……」
「七尾、コイツはもっと早く飛び込もうと、暴れてしょうがなかったんだ」
「…………」
俺は柳原の方を向いた。
「済まなかった。証拠を抑えるには、ぎりぎりのとこまでしてもらわないといけなかったのは、事実だ。こういう手合いは、現行犯で逮捕しないと逃げられるから……」
 
俺は、唇を噛んだ。
……あんな醜態を、一部始終見られていたのか。
そう思うと、羞恥で腹が煮えくりかえる。
「お前を守りたかったのは、みんな一緒だよ」
そう言って、また謝る。
 
俺は心の底じゃ、判っていた。
助けられたんだ。本当にそう思う。
あれ以上の最悪は、避けられた。
でも、やっぱり納得いかない。……いつから居たんだ、こいつら。
あんな風に口の中を犯されたり、パンツまで引き下げられたりしてたとこ、ずっと見てたのか……。
自分が傷ついたショックの方が、今は勝っていた。
 
「……七尾」
差し出してきた、高明の手を、力一杯振り払った。
「触るな!」
憎悪の目で、睨み付けてやった。
特に高明は許せない。昨日のことが蘇った。
「……感謝はするよ! ありがとな!」
吐き捨てる様に、言葉が出た。
「……でも、許せない! あんなとこ、ずっと見てるなんて……」
悔しくて、また涙が流れた。
河村さんの悔しさも、俺の惨めさも……。
今は涙となって、止められなかった。
「……」
高明達は、それ以上何も言えずに、その場から消えた。
高明だけは離れようとしなかったが、柳原に促されて、引きずられるように出て行った。
俺は、床に蹲ってずっと泣いていた。
汚らわしいソファーには、触れたくもなかった。
 
───現場押さえのために、警官がたくさん来る。
俺も、帰らないと……。
 
泣き疲れて涙も出なくなって、ようやく立ち上がることができた。
会社に報告しなければ、いけないな。
どこまで何を言っていいのか、判断が付かない。奴が逮捕された事だけ、報告した。
「大変だったな……今日はもう、帰っていいぞ。ゆっくり休め」
俺の顔色を見て、上司が労ってくれた。
「すみません、ありがとうございます」
きっちり頭を下げて、早退させてもらった。
 
 
あんな風に素直に礼が言えたら、よかったのに。
まだ空いてる帰りの電車の中で、冷静になってきた俺は、少し後悔した。
そして思い出した。
───あ、事情聴取……
署に寄るのを、忘れていた。
───や…でも……アレを、口頭説明しなけりゃいけないのか?
口を押さえて、吐き気を抑えた。……それはそれで、拷問じゃないか……
再度恥を掻いて、さらし者になる訳だし……被害者って、とことん被害者だな…。
とても行く気になんか、なれない。
───落ち着いたらって、言ってた。それでいいや…
「……う…」
人目を気にすることもできず、膝に額を付けて突っ伏して、貧血のような目眩に耐えた。 
心細くなったのか、高明の顔がチラリと浮かんだ。
 
───本当に、助かったんだ。
……一時しのぎじゃなく。
……再発に怯える必要も、ないほど。
 
やっと、実感した気がした。
散々ゆすいだ口を押さえながら、その事実を噛み締めた。
……河村さんの敵だって、取ってくれたことになる。
それを、自分のプライドが傷ついたからって、八つ当たりをしたんだ。俺は……
何よりも情けないことだった。
……高明に…謝らなければ。
でも同時に、昨日の店でのことも蘇る。
目に焼き付いて離れない。あの時の高明の顔。……青野君の顔。
───やっぱり、許せない。
俺の感情は、後悔と怒りを行ったり来たりして、まとまらなかった。
そして思うことは、……帰りたくない。
マンションで、高明と二人きりになるのは嫌だった。
怒りにまかせて、何を口走ってしまうか、わからない。
 
駅を出た俺は、青野君と最後のキスをしたコーヒーショップに入った。
一番奥に座る。
あの時の青野君の言動は、ちょっと変だった。
……でも、それがどうして高明とのキスに繋がるのか、わからない。
……ここに来たのは、失敗だったかな。
俺は小さなテーブルに突っ伏して、流れる涙を隠した。
何時間そうしていたかは、わからない。
とっくに涙は乾いていたけれど、動けなかった。行き場がない。
 
「七尾!?」
聞き慣れた声に、俺は身体を振るわせた。
「見つけた! ……七尾!!」
高明が叫んで近寄ってくる。
……俺はまだ、整理がついていない。会いたくなかった。
だから動けずにいたのに。
高明は息を切らして、俺の前に座った。
どこをどれだけ探し回ったのだろう。汗だくで、それ以上声も出せない様子だった。
「……よかった」
俺の不在に怒りも、罵りもしない。それだけ言った。
「……」
俺は何も言えずに、高明を睨み付けた。
……その席は青野君のはずなのに。
そう言う思いが、俺を素直にさせない。
「……お前に、謝りたくて」
高明が口を開いた。
「今日のこともだけど、……昨日の…」
謝る? 謝ってどうするんだ? やっちまったことは、取り返しがつかないんだぞ!
心の中で、悪態をついた。
どう考えても、許せない。
「……うるさい!」
俺は高明の言葉を遮った。聞きたくない!
「煩い、煩い!! だまれッ!!」
堪りかねて、叫んでいた。
「……そんなこと言って、なんになるんだよ!?」
大声を出した俺に、高明は焦った。
「ちょ……やめろって」
俺の腕を掴むと、強引に店から出た。
「外じゃダメだ! 何も伝えられない」
グイグイと俺を引っ張っていく。
「部屋に帰ろう、全部話すから、……聞いてくれ!!」
必死な高明の叫びが、腕を掴む痛みが、少し俺の心に届いた。
 
 
 
俺たちは、やっとマンションに戻った。
外はすっかり暗くなって、すでに21時を回っていた。
無言でソファーに蹲る俺に、高明はホットミルクを作ってくれた。
立ち上る湯気からは、甘い香りが漂う。温かそうなマグカップを、俺は手も付けずに見つめていた。
「……何から話していいのか」
正面に座って、高明は口を開いた。
「青野のことは、ほんと、悪かった。オレは……、釘を刺しに行ったんだ。アイツに」
「……?」
目線だけ高明に向けた。
「……七尾に色目、使うなって」
「!! ……はぁ!?」
気色ばんだ俺を、高明は目で押さえた。
「聞いてくれ! そしたら、アイツからもオレにお願いしてきたんだよ!」
「……!?」
「アイツ、昨日であそこ辞めるんだって」
「……えっ?」
知らずに声が出た。
「……声で仕事を得る代わりに、失うモノもある。……だから、ごめんなさいって」
「…………」
「ずっと泣くんだ。それだけ七尾に伝えてって。僕の声を忘れないでって……」
「………」
───なに……なんだ、それ。
この間感じた、心の底のザワザワが蘇る。
───なんで泣くの………その悲しみが、判らなかった。
失うモノって……?
───わからない……
  
「……どういう……」
 
 
「……パトロンが付くって、ことだ」
 
「!!」
「ボイス教室の先生が、……デビューを約束してくれたって」
「っ!! ……止めろ!」
───わかりたくない!!
俺は、昼間の屈辱を思い出した。
───あんな事を、仕事を得るために、……受け容れるというのか?
そのために、バイトも辞め、俺も……何もかもを諦めて……?
青野君の涙。悲しげな微笑。みんな腑に落ちた。
 
「……ありがとうって…」
俺は声を絞り出した。
「……ありがとう、なんて、泣きながら……言うんだ」
俺の頬にも、熱いものが伝う。
「……泣きながら、忘れないでって」
それでも、最後は声を出して笑ったんだ。
笑ってくれたんだ……俺に…。
酷すぎる……。
あの時の涙……笑い声……痛すぎるだろ……。
「……ぅ……っ」
声は嗚咽に変わった。それ以上は喋れない。
 
なんで、なんで、そんなことになるんだよ……。
……声で仕事を…
そんなの、あの声なら当然、望むことだろ!
……河村さんだってそうだ。
営業なら、当然契約が欲しいだろ!
そんな、必死に生きていこうとする弱みにつけ込んで!
怒りで、身体が震えた。
世の中の腐った大人達!!
そんなの許さない、許されない!
 
「……どうなってんだ、この世の中……」
顔を手で覆って、うめき声を出した。
「……俺たち、ただ一生懸命、生きてるだけだろ?」
「…………」
「やりたいこと、叶えようとしてるだけじゃんか……」
顎から、ポタポタと際限なく涙が滴る。
「なあ、高明……違うか?」
俺は高明を見た。
高明も泣いていた。声も出さず。
違うって……言ってほしかったのに。
そんなことばっかじゃないって……。
俺たちの、こんな泣き方、おかしいって……
 
……俺たちは……いったい何歳まで、ひ弱な子供なんだろう。
世の中を……わかったように、狡く生きていけるようになるには、
……どれくらい心を押し潰せば、いいんだろう……
 
「──────」
俺はふと、一つの疑問を思い出した。
俺が許せないでいた、心に引っかかっていた…ある疑問。
「……高明……だからって、なんでああなるんだ?」
俺は二人のツーショット──キスシーンのことを、言っていた。
「……!」
高明の身体が、びくんと震えた。
「青野君が泣いたって、お前がキスしていいことには、ならないだろ?」
「………」
「青野君が……ねだったのか?」
言いたくなかった。そんなはずないと、思っていながら、打ち消しきれない気持ちが辛かった。
「……違う」
高明が、ゆるりと首を横に振った。
「奴の名誉のために、先に言っとく。青野は……最後まで七尾さん、七尾さんって言ってた。オレはそれを止めさせたかった」
 
「…………ッ!」
 
胸に、違う痛みが走った。
息苦しい。
……疑ってしまった……俺の方が───よっぽど馬鹿だ。
 
情けなくて情けなくて、自分をどうにかしてしまいたくなった。
言葉を失ったを俺を、高明も持て余すような目で見る。
そして、また喋りだした。
 
「……さっきも言ったけど…オレは、……オレはアイツに釘を刺しに行ったんだ」
「…………」
「なんでか、わかるか?」
「…………」
俺は、高明の顔をじっと見つめていた。
その唇が動くのを……
 
 
「おまえが……好きだ」
 


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