chapter7. time limit- 平穏 終告 -
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 驚きを隠せないまま、保健室に入った。ここも小さい……。
「座って、天野君のお兄さん」
「あ…、ハイ。すみません」
 俺は恐縮して、進められた椅子に座った。座面が低い、こんなガタイのいい男が座るイスではない。恥ずかしくなってしまった。
「手を出して。…酷いねこれは、転んだの?」
「…はい、走ってて」
「天野君の迎えに急いだの?」
 笑いながら訊いてきた。顔を上げると、思ったより若い顔がそこにあった。
「改めまして、保健医の桜庭です。ぼくは4年前にここに赴任してきたから、キミのことは残念ながら知らないけど。噂はこの二人から、聞いてるよ」
 心配そうに部屋の隅っこでこっちを伺う恵と霧島を、顎で指した。
「はあ、…あの、恵がここのお世話になってるんですか?」
 病気や怪我で保健室に来たなんて、聞いたことがなかった。
「ううん。天野君は一回も手当はしたことないよ。彼は相棒の連れだから」
「?」
「霧島君がよく怪我をしてね、しょっちゅうここに来てる。その後ろには必ず天野君がいるんだよ」
 可笑しそうに笑う。
「ああ…」
 納得して、霧島を見た。
 気の強そうな顔で俺を見つめていた視線と、ぶつかった。
「ハイ、終わり」
 ぽんと軽く、巻き終わった包帯の手を叩く。
「何があったか知らないけど…、転ぶ時は自分の体、庇わなきゃダメだよ」
「! …はい、すみません」
 あまりに無防備に転んだため、傷は深く、砂利がかなり食い込んでいたのを、全部取り出してくれていた。制服のブレザーに付いた血も落としてくれた。
「すみません、本当に助かりました」
 深々と頭を下げて、お礼を言った。
「いいよ、噂の克にいを見れて、ぼくも嬉しいから」
 にっこり微笑む保健室の先生は、落ち着いていて、優しかった。
 20代後半…だよな。よく出来た先生だなあ。
 俺はまじまじと見つめてしまった。ストレートのサラサラ髪が、長めにカットされて首元で揺れている。子供相手に染みついたような笑顔だった。
 
 保健室を出て、霧島にも礼を言った。俺のために走って了解を取りに行ってくれたからだ。
「さんきゅーな」
「しょうがないですよ、あんなカッコじゃ。誰でも驚きます」
 俺は目を丸くした。なんちゅー生意気なガキだ!
「それより、天野を待たせないでください。もうかなり寒いんだから」
 睨み付ける勢いで、言ってきた。
「ああ、…すまなかったな」
 普段の俺だったら、睨み返していたが、さっきのことを思い出して憂鬱になった。恵を引き寄せると、頭を撫でて謝った。
 
「天野? ……天野克晴か?」
 不意に俺を呼ぶ声。
 俺はビクっとした。大人のこういう声に恐怖を感じる。
 ……ましてやさっき、元凶に会ったばかりだ───見ると、俺が5・6年の時の担任だった柴田先生だった。
「柴田先生…、お久しぶりです」
 俺は頭を下げた。卒業してから一回も顔を出していなかったので、本当に久しぶりだ。
 でも、俺にはここの何もかもが“懐かしい”とは思えない。あの頃の俺は、学校そのものが異次元だった。
 先生も、友達も、何も知らない平和な世界の住人達。親でさえ、そうだったのだから。
「天野…でかくなったなあ」
 まぶしそうに俺を見る。同じぐらいの背丈になっていた。
「ホントですね、先生が小さく見える」
 はは、と声を出して笑った。平和ごっこの続きだ。
「天野……大丈夫か? その…」
 柴田先生が、何か口ごもった。
「?」
 俺が見返すと、
「いや、何でもない。じゃな、かわいい弟も大きくなって良かったな」
 なんて言って、行ってしまった。
「克にぃ、柴田先生、知ってるの?」
 恵が見上げてきた。
「うん、兄ちゃんもあの先生に教えてもらったんだよ」
「へーっ」
 恵が楽しそうに目を輝かせた。そういえば、あまり話したことはなかった。
「あっ」
 霧島が変な声を出した。
「ん?」
 振り向くと、なんとも変な顔をして、俺を見ている。
「そうか、天野じゃなくて、克にいだったんだ」
 小さく呟いた。
「? なにが?」
 恵が聞いた。
「あ…、なんでもない!」
 笑顔でごまかして、霧島はそれ以上何も言わなかった。妙に納得した顔をしていた。
 
 家の近くまで帰り着いたときは、緊張した。アイツが待ち伏せしていないか心配だったからだ。
 
 俺は心底、恐怖してしまっていた。
 今度はいつ現れる…? あの声…脳細胞がミシミシと音を立てる。過去だった感触が、生々しく肌に戻ってくる。
 外を歩くのが怖い。他人が背後に立つだけで、ぞっとする。どうしようもなく、身体が言うことを聞かなくなる。硬直してしまい、動悸がしてくるんだ。
 この間は体育の時間に貧血を起こして、保健室に運ばれてしまった。
 
 こんなんじゃ、いけない。
 あの悪魔から逃げ出さなければ。恵を守らなきゃ。
 俺自身が前に進めない……。
 
 そう思いながらも、憂鬱にならずにはいられなかった。外には出ず、いっそう恵を閉じこめる。俺自身の勝手な都合と、成長させたくないという切迫感から。その気持ちが、恵の“自立”となる生活の何もかもを奪い取り、俺に世話させた。
 
 俺は何一つ解決できず、時間は過ぎていった。
 それっきりあいつは姿を見せなかった。
 
 
 3月中頃。大学受験も終わり、合格通知も来ていた。卒業式まであと数日、学校にも行かなくていいので、殆どを恵と過ごしていた。
 部屋に恵を閉じこめて、お喋りなどで時間を潰す。恵は最近、笑わなくなっていた。
 俺が話しかけても上の空で、ぼんやりして。朝のスキンシップも嫌がって、体を触らせてくれない。
「ごめんね、克にぃ。そういう気分じゃないっていうか。…そいういう言い方ってする? なんか、体だけ気持ちよくても、かえって辛いの。ぜんぜん気持ちよくないの。気持ちは泣きそうになるの。わかって。克にぃ」
 恵の言葉で一生懸命、伝えてくる。俺はそれに文句など言えなかった。俺がそうさせてしまっているのだから。
 
「雪だね」
 不意に恵が言った。窓を見ると、雪の粒が窓ガラスに当たっては溶けながら、滑り落ちている。
「ああ、ほんとだ」
 季節はずれのドカ雪が、2年に1度くらい降る。
「これは積もるな。でっかい牡丹雪」
 窓に近づいて外を見ると、霧島丈太郎がポーチをくぐってくるのが見えた。
 急な大雪の備えはしていないらしい。寒そうにコート一枚で、顔を顰めて走ってくる。俺は、恵に気付かれないうちに追っ払ってやろうと、一人で階下に降りて出迎えた。
「今日は、貴方にお話ししたいことがあって、来ました」
 玄関にたたずみ、雪も払わないで言った。相変わらず、俺を真っ直ぐ見てくる。
「はん?」
 俺は腕組みをしたまま、壁に左肩を寄っかからせて、斜に構えた。
「天野を、解放してください。最近、笑わないんですよ! あんなに元気で明るかったのに…」
 悲しそうに口を歪める。
「なんでそんなに、天野を拘束するんです? 天野が嫌がってるんだから、やめてください!」
 そこまで聞いて、俺は我慢をやめた。適当に喋らせていたが、聞き捨てならない。
「おい、恵が嫌がってるって、なんだよ!」
「わかんないんですか? そんなはずないでしょう! 言わなくったって、わかるはずでしょう!? お兄さんなんだから!」
 切り札のように、その言葉を出してきた。
「なんで、そこまで拘束するんですか? 貴方は天野の幸せを考えないんですか?」
 ダンッと横の壁を叩いていた。
 霧島の体が、一瞬揺れた。無意識にやってしまって、俺さえ、その音に驚いた。
 痛みが後から来る。無遠慮な霧島の詰問に、いい加減頭にきていた。
「幸せを考えない、だと?」
 ゆっくり近づく。
「お前に何がわかる? 俺がどれだけ恵のことを考えてると思ってんだ?」
 サンダルに足を引っかけ、タタキに降りる。霧島は、俺の迫力に押されて後ずさり、ドアに背中を着けた。それでも俺を真っ直ぐ見上げてくる。握り拳が震えている。
 俺はドアに肘をつき、ドアと俺の体の狭い隙間に霧島を追い込んだ。
「お、脅したって駄目です。俺、今日は言うぞって決めてきたんですから!」
 見上げて、睨み付けてくる。
「天野のあんな顔、毎日見るの、もう嫌なんです。俺、辛いんです」
「……それで?」
「なんでですか? あんなに大事にしてたじゃないですか! 天野、貴方の事しか話さないんです。貴方のことだけ見てるんです。そんな風に育てておいて…今は貴方のことも話さない! 俺、悔しいけど……んっ」
 うるさい口を、俺は塞いでしまった。自分の唇で。
「んんっ……!」
 苦しそうにもがく霧島を、俺は逃がさない。
 ドアに押し付けて、無理矢理上を向かせて、舌を入れた。
「ん、や、やめ…っ」
 隙をついて出る言葉も、すぐ塞ぐ。
「──────!!」
 俺がかつてやられたように、煩い言葉と、いっそコイツそのものを、取り込んでしまおうかという勢いで、吸い上げた。
 握り拳でドンドンッと俺の胸を叩いて抵抗する。そんなもの、びくともしない。俺がどれだけ恵を思っているか、教えてやる。俺は恵を想って、濃厚で激しくて甘いキスを、霧島にしてやった。
「ん…、んん……っ」
 膝ががくがくし始めて、立っていられなくなったようだ。脇の下に手をいれて体を支えてやる。ひとしきり濃厚なキスを繰り返すと、ゆっくり離してやった。
「……はぁ」
 霞んだ目で、俺を捉えようとする。
 俺は、思いっきり怖い形相を作って睨み付けた。
「オトナをなめんなよ」
「!」
 霧島は顔を歪めた。手の甲で唇をぐいっと拭って、俺を一瞬睨み付ける。そして、バタンとドアを開けて、雪の中を走って行ってしまった。
 
「……………はぁ」
 何してんだ、俺。
 今のは、完全に八つ当たりだった。わかってることを、くどくど言うから、黙らせたかった。頭を抱えて、玄関にへたり込んでしまった。
 何してんだ、俺。
 恵の友達、襲っちまった。……あいつが悪いんだ。いつまでも食い付いてくるから。
 
「どうしたの?」
 恵が降りてきた。
「!」
 今のを見られたかと、俺は焦った。慌てて立ち上がる。
「窓から霧島君が走ってくの見えたから。なんで帰っちゃったの?」
 俺はホッとした。
「……急用思い出したって」
「ふうん?」
 言い訳を怪しんでいるのだろうか。何か府に堕ちない顔で、視線を玄関扉に向けている。
 
「それよりメグ、春休みになったら、旅行に行かないか?」
「えっ」
 うつろだった恵の瞳に光が差した。
「兄ちゃん、ちょっといろいろあってさ、メグに窮屈な思いさせて…」
 恵の肩を抱き、頭を撫でる。
「……ごめんな、ほんと。だから、お詫びと約束の実行。今度どこまでも行こうって、言ったもんな」
「うん、うん、うん!」
 恵は、目をキラキラさせて、久しぶりに笑った。首を大きく縦にブンブン振る。かわいくって、思わず全身を抱きしめてしまった。
 ………ごめんな、恵。
 


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