chapter18. dark change- 子羊たちは踊る -
 
 
  ──夢を見た。
 
 小さな恵が泣いている。まだ泣くことしか出来ない、小さな赤ちゃん。
 
 あの子がいつも泣くから。小さい体で、大きな涙の粒をぽろぽろ零して。
 だから俺は泣くのをやめた。もう泣かないって決めたんだ。
 だって、俺、お兄ちゃんになったんだ。
 
 何歳になっても恵が泣くから、俺は側にいて、ずっと守ってやるんだ。幼心に、そう誓った。
 
 
 ……ああ、そうだ。俺は、あの時から涙を流さなくなった。
 ……その後ずっと、たとえ何があっても。
 
 
 熱い何かが頬を伝う。幾度も幾度も、筋を作っては流れていく。座り込んだシーツの上にハタハタと音を立てて、それは落ちている。
 
 自分の違和感に気付いて、起きあがっていた。そのまま動けなかった。
 ──俺は、泣いているのか。
 
 
 ……何で今更。
 散々、酷いことされてきたじゃないか。どんなに心が痛くても、身体中が張り叫んでも、涙は不思議と出なかった。
 なのに。なのに今更。
 
 昨日の惨状を思い出す。あんなことぐらい…なんだ、って思う。今まで流した血の涙は、もっともっと凄惨だった。それぐらい酷いことをされてきたのに。
 ……昨日は…あのあと俺は、立つに立てなかった。
 強引に引き裂かれた痛みと、悪戯に高められてしまった体が、言うことをきかない。俺はその火照りを自分で慰めた。…犯されたトイレで座ったまま。
 それは、毎日学校帰りにやってる自慰とは、わけが違った。情けなくて、悔しくて、やり切れなさでいっぱいだった。
 あれを思い出すと……俺の胸が針を刺したように痛む。涙がそこから滲み出てくる。今また、新たな涙が伝い落ちる。
「…………っ」
 俺は両手を握り込んで顔を覆い、嗚咽をかみ殺した。
 
「克…にぃ?」
 恵が起きてしまったようだ。横でもぞもぞと動く。
「…泣いているの……?」
「…………」
 俺は無防備に流す涙を止められず、そのまま動けないでいた。
 ふわっと背中が温かくなったと思ったら背中から腕を回され、恵に抱きしめられていた。俯いて顔を覆っている腕ごと、肩も頭も。精一杯手を回して、抱え込んでくれる。
 俺の首筋に顔を埋めて、恵もしばらく動かなかった。
「……克にぃ」
 恵が小さく囁く。
「僕が悲しくて泣くと、いつもこうやって抱きしめてくれた」
「…………」
「僕は温かくて気持ちよくて、安心して……それで泣きやむことが、できるんだ」
「…………」
「…だから、今は僕が克にぃを抱きしめてあげる」
 暖かい息が、首筋に広がる。
「……克にぃの悲しいこころ、僕が…慰める」
 俺は声も出せずに、一つ頷くのが精一杯だった。恵の優しさが、心に触れる。
 ……俺は、悲しいのか…?
 癒されていく中で、不可解な涙の理由が少しわかった気がした。
 
 
 その日、恵を迎えに行くと、校門前にはまた霧島がいた。でも一人だけだ。相変わらず、生意気に睨み付けてくる。
「……恵は?」
 俺は面白くない顔を作って、それだけ聞いた。
「その前に…」
「……?」
 霧島のせっぱ詰まった顔に、只ならぬ気配を感じた。
「克にいは…天野の何なんですか?」
「…………」
「兄なのか、保護者なのか、それとも……っ」
 顔を歪める。
「どれか一つに、絞ってください! でないと、天野は笑顔でいられない!」
 それだけ言うと、踵を返して校庭の端を走り抜け、校舎内に戻って行ってしまった。
「………」
 なんだ? どういう意味だ。あんなこと言うためだけに、霧島はここにいたのか?
 ──それより、恵はどうしたんだ…
 どうして一緒にいないのか。霧島のあの血相は、恵に何かあった証拠だと思った。
 俺は気が気じゃなかったが、メグがいつ来るかもしれないと考えると、そこから動けなかった。
 焦れた気持ちを持て余したまま、かなりの時間、校門の外で待たされた。
 
「天野君のお兄さん」
 やっと俺を呼んだのは、以前世話になった保健室の先生だった。
「先生……恵は!? 恵は無事なんですか?」
「ええ…。遅くなってすみません。介抱していたものですから」
「介抱? メグは、具合が悪いんですか?」
「ええ、とにかくこちらへ。会いたがってますから」
「あ、…はい」
 案内の元、校門をくぐった。
「あっ、センセーイ! 天野はーっ?」
 遠くから霧島が走ってくる。校舎の裏側の方から、飛び出してきた。ずっと走って探し回っていたのだろうか、合流したときは、汗だくで息も絶え絶えだった。
「先生!」
「うん、貧血を起こしちゃったみたいで、今、保健室で寝てるよ。さっき気が付いたけど」
「「貧血? 恵(天野)が?」」
 声がはもった。俺と霧島は、同時に同じ事を訊いていた。
「ふふ。きみたち、ほんと良く似てる」
 先生が笑うから、俺は霧島を睨み付けるだけで、それ以上は噛みつくのを止めた。霧島も息を荒げながら、俺を睨み返しただけだった。
 保健室に行くと、恵が飛びついてきた。
「克にぃ!」
「メグ! 心配したぞ!!」
 待たされた分、会いたくて会いたくて、俺もつい駆け寄って抱きしめてしまった。
 恵の甘え方も異様だったので、ついそれにつられてしまった。ほっぺたとほっぺたを、くっつけ合わせる。恵の体温を感じたい時は、これが一番手っ取り早い。
 今日はいつもより、ちょっと熱かった。風邪でも引いたかな…貧血というのが引っかかった。
「メグ、大丈夫か? 何ともないのか?」
「…うん。よくわかんないけど、……今は、平気」
 見たところ、元気そうだった。
 
 
 
 帰ってからも心配だったけど、問題なさそうだったので、とりあえず安心した。
 甘え続けている恵は、その延長でキスをねだってきた。その唇を捉える。甘くて柔らかい舌を絡めると、猫みたいに目を細める。
 可愛い恵。何もなくて、よかった。
 …俺はいい。俺が何されても、恵が無事なら。元気でいれば、それでいい。
 心配してる間中、そう願っていた。顔を見て抱きしめた時も、心からそう思った。恵が横で笑っていてくれれば……恵の存在そのものが、俺には救いだった。
 
 その日はまだ恵を抱けなかった。
 そのことが、恵に打たれた楔に気付くことを遅らせた。
 気付いたところで、防ぐ手だては、俺にはなかったのだけれど。
 
 俺たちは、必死にもがいていた。
 俺たちなりに、生きているつもりだった。
 でもそれは、「自分たちの世界」という舞台で、ただ踊っているに過ぎなかったのだ。
 
 幕は下りる。
 そして新たな幕が上がる。
 俺たちの周りで、大人達の欲望が密かに形を作って、動き始めていた。
 
 
 
 
-第1部   完


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