chapter7. cross fader -クロスフェーダー-
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 山崎のマンションは、聞いていた目印のおかげですぐにわかった。
 前に遊びに来てと、強引に誘われたことがあって、その時聞いた話しを覚えていたからだ。
 遠くからでもそれはよく目立つ。
 そのマンションには不釣り合いなほどデカイ、要塞みたいなアンテナの固まりが屋上に設置されていた。
 真っ直ぐに伸びた針山のようなアンテナを、ごつい鉄骨の柵で囲ってある。
 それを目指して歩いた。
 
 エレベーターを降りて階段室を横切ると、二つ目のドア。
 そこに「山崎」のプレートが掛かっていた。インターフォンを押しても、反応はない。
 ……大学に、行ってるのかな。
 俺はもう、動くのが限界だった。人目は気になるけど、どうしようもない。そこで待つことにした。ドアに背中を付けて、滑り落ちるように通路に座り込んだ。
 ──体力が回復するまで……。
 目を瞑ると、うとうとと眠った。
 どのぐらいそうしていたのか……何度も人の気配に怯えた。今見つかっても、逃げられない。それが判っていたから。
 
 
 
「えっ!?」
 
 何度目かの人の気配。確実にこの階を目指して歩く足音。
 俺は緊張して、階段室を睨み付けていた。現れた顔に、どれだけ救われたか分からない。きょとんとした丸い目が、眼鏡の奧から俺を見ていた。
 
「悪い……中に入れてくれないか?」
 ふらつきながらも、やっと立ち上がった。
 身体が冷え切っていて、ここに座っているのも限界だった。
 
 
 ───俺は友達なんて、いらなかった。
 次元の違うところにいるクラスメイトと馴染もうとしたって、どうしても無理がある。
 体裁だけ繕って、薄っぺらな交友関係を作り上げていた。
 そんな中で山崎だけは、どこか違った。ちょっと変わったヤツだった。
 
 
 
「……今日、何日だ?」
 気さくに俺を部屋にあげ、コーヒーを淹れてくれる山崎に、訪ねた。
 ───こんな事は聞きたくなかった。今日が何日か判らないなんて、尋常じゃないだろう。
 ………でも早くそれを知って、現状を把握したかった。
 いったいどれくらい経ったのか。これ以上、恵を放っぽっておけない。
 山崎は目を丸くした。
「──今日は、25日。なんだよ、自分の誕生日のアピール?」
「…………!」
 緊張していた俺が、目を丸くする番だった。
 うるさく問いつめられたら……何があったとか詮索されたら、俺は耐えられなかったと思う。答えられる筈もなく、黙り込むか、ここを飛び出すかだ。
 俺は咄嗟に、その軽口に乗った。
「……誕生日。……ああ、そう……当たり」
 でも、山崎はそんなこと聞いたりは、しなかった。
 前からそうだ。やたら話しかけてはくるけど、プライベートなことは一切、聞いてはこない。
 だから、側にいても苦しくならなかったんだ。
 
 ………そんなヤツだから、俺はここに来れたのか。
 
 つい、笑みが零れた。
「よく覚えてたな、俺の誕生日なんて」
 自分自身、そんなの忘れていた。それどころじゃない。生きるか死ぬかの権利を取り戻したところだ。
 “誕生日”って言葉自体、どこか平和な響きを持つ。今の俺とのギャップに、内心は苦笑いをした。
 
 でも、さすがに両手の傷は隠せなかった。
 うっかりコーヒーカップを受け取ろうとして、傷を見られてしまった。
「……天野、絆創膏貼るから、手ぇ出せ」
 何の干渉もしない山崎だけど、見かねたようだった。
 ───どうする。……これを見たら、さすがに変だと思うだろう。
 勘ぐられたくない。何も探られたくない……お節介も、うるさいのも、ごめんだ。
「ほら、手!」
 考え込んでいた俺の目の前に手を出されて、一瞬身体が怯えた。
 見ると、山崎が自分の手をぴらぴら差し出して、そこに乗っけろと言っている。どこか呑気なその顔を見ていると、気が落ち着いた。
 ……左手なら。
 重ねた山崎の手のひらは、温かかった。
「ほい終了、今度はそっち。右手、かして!」
 またぴらぴらと手を差し出してくる。
 俺は……また戸惑った。でも、山崎は軽口を叩きながらも、差し出した手は引っ込めなかった。
「かして! み・ぎ・て! ちゃんと、借りたら返すからさ。あ、延滞料金は付けないでね」
 そのおどけてみせるカオに最後は根負けして、俺は笑ってしまった。
 手首の深い傷を自傷と勘違いされたから、それだけは慌てて否定した。これは、生きるために負った傷だ。
 
 山崎は、何も聞いてはこなかった。
 ……下着を貸してくれと、言ったときも。
 
 
「毎回、さんきゅーとかそう言うの、いいって」
 コーヒーを淹れなおしてくれるという。飲むかと聞かれて、いつもの口調で礼を言ったら、そう言われた。
「うん、て言えばいいんだよ!」 
 俺は初めて気付いた。家族以外に、そんな言葉、使ったことがない。
 1のつぎは2と言うくらい当然に受け答えは”ああ、サンキュー”で済ませていた。それ以上は、何も出ない。何も感じていなかったから。
 
 俺は、まじまじと山崎の顔を見てしまった。コーヒーのお代わりはいるかと、聞かれている。
「……うん」
 初めて“他人”に言う…その言葉は、照れくさかった。
 
 
 
 今日が25日と聞いて、俺は心底驚いていた。
 ………そんなに経っていたなんて…。あの部屋で目を覚ましたのは、2回だった。
 ……五日。車に乗せられて、そのまま帰れなくて……、あの晩から今日で五日目だ。
 もう、じっとしてなんかいられない。
 早く…早く恵の所へ帰らなければ! ……あの子の心が潰れてしまう!
 傷の手当てをしてもらい、食事も出来たし、今日よく眠れば……。俺は、明日には恵の様子を見に行けると、思っていた。
 熱が高くなってきたのを感じたとき、どうしようもなく焦れた。
 濡れたシャツを着っぱなしだった。あんな格好でいたのだから、当然かもしれない。怪我の次は、病気か……。
 俺はいつ、恵に会いに行けるのだろう…。朦朧とした頭で、そればかり考えていた。
 
 
 いつ寝たかも覚えていない。
 朝起きると、上だけ着替えて、ベッドの中にいた。枕元には、水の入ったビニール袋と、濡れたタオル。
 昨晩の、割れるような頭痛と喉まで焼けるような高熱の感じは、無くなっていた。
 ……これのお陰だな。
 元氷だっただろう液体の、透明のビニール袋を見つめた。
 高熱が下がったのは、助かった。病院なんか行けないし、これで早く恵の所へ行ける。
「おっはよう! どお? 熱」
 山崎が元気な顔を部屋に突き出してきた。
 その顔は、今の俺にとって、気分の和む顔になっていた。あっけらかんと明るく、戸惑う俺の言葉を即座に導く。
 荒んで緊張しきっていた俺の気持ちは、かなり解されていた。氷枕のお礼も、素直に口から出た。
「本当に……助かったよ。ありがとうな」
 でも、その後作って運んできた玉子粥には、苦笑いだ。
 ローソクを自分で差しといて、早く抜いて! 溶ける! と言う。
 声をあげて、賑やかに笑う。そんな声すら、俺はちゃんと聞いたことがなかったと、気付いた。
 
 山崎が大学に行っている間、熱と風邪薬のせいで朦朧としたまま、睡眠の淵を彷徨っていた。
 時々意識が戻ると、考えた。
 ──どうすれば恵に会えるか。
 家には帰れない。アイツが絶対いる。
 恵の学校も、ヘタに行けない。アイツに見つからずに、恵に会うには……。
 だいたい、恵は無事なのか? 俺の帰りが遅いだけで酷く泣かせてしまった。
 妙な“貧血”も気になるし、俺が逃げ出したことで、矛先が恵に向かわないか…… 
 そう思うと、じっとしていられない。でも、身体は動かない。悔しくて握り込んでいる拳さえ、力が入らない。
 まだだ……もう少し回復してからでないと……。
 自分に言い聞かせた。
 
 
 
 
 
 
 ───やめろ……俺に触るな……
 
 アイツの手が、俺の身体を這い回る。俺はまだ小さな子供だった。
 俺は泣かない。俺は誰にも言わない。それをいいことに、俺の身体は弄ばれ続けた。
 ……なんで、なんで!?
 心は叫び続ける。どうして自分がこんな目に遭うのか。
 ──あっ、また、イかされる!
 身体が跳ねる。
 ………もう、嫌だ……こんなの……
 アイツが、俺の顔を覗き込む。楽しそうに。
 
「…………」
 何かを聞いた気がした。
 意識が戻ってくる。うっすらと開いた視界に、人の影が動いた。
「─────っ!!」
 背中に激しい衝撃が走って、息が詰まった。俺は飛び起きた反動で、身体を後ろの壁に叩き付けていた。
 アイツが……あの悪魔が、目の前に居るのかと思った。あの顔で、俺を眺めているのかと思ったんだ。
 
 
 ───見つかってしまった?
 俺は、逃げ切れなかったのか? それとも、まだあの部屋にいるのか……
 …まだ、あそこに繋がれていた?
 
 
「───────」
 ……ここがどこだか、判らない。
 混乱する頭の中で、目に映るものがだんだんハッキリしてきた。
 
 
「わあ、ごめんごめん!!」
 びっくりして手を振り回している男がいる。
 ───あの悪魔じゃ……アイツじゃない。
 邪気のない丸い目が、眼鏡の奧で更に丸い。
「………やま……ざき?」
 止まってしまった呼吸が、戻ってくる。
「ああ、ごめんな、びっくりさせちまった」
 肩を落として、すまなそうに何度も謝る。
「……いや、俺の方こそ……」
 
 アイツじゃない、アイツじゃない、と自分に言い聞かせて、心を落ち着けた。
 
 ……また、あの夢を見たんだ。
 暫く見なかったのに、アイツが戻ってきてからまた見るようになっていた。
 まだ10歳の頃の俺……。何も知らない、分からなかった俺に刻まれた刻印。
 ……あの悪夢をまた、繰り返すのか。
 
 山崎は、俺の狼狽ぶりを軽く受け流してくれた。
「オレのせいじゃないなら、よかった!」
 にっこり笑って、買ってきたケーキをちゃぶ台の上に箱から出した。
「誕生日プレート、作ってもらったんだぜ!」
 見てみろと、差し出す細長い板チョコには、チョコレートの線で俺の名前が漢字で書いてあった。
「よく書けてんだろ、難しいのに」
「……難しいか?」
 俺は、恵が初めて俺の名前を書いた時のことを、思い出した。
 ノートに印刷された正方形の升の中に、一文字一文字埋めていく。
「克にぃの、“克”っていう字、むずかしいよ。うまく四角におさまんない」
 見れば十と口が大きすぎて、八の部分が入っていない。“晴”も升から飛び出ていた。
「はは、メグの字、大きくていいなあ」
 褒められるとこだけ、褒めておこう。そんなことを思って、恵を抱きしめたんだ。
 ……早く、会いたい。この腕で抱きしめたい。
 ちいさな身体を思い出すと、胸が痛んだ。
 
 “誕生日パーティー”で中華料理を食べ終わった後、傷の様子を見た。
「これは、痕が残るな」
 買ってきたガーゼで傷を消毒し直しながら、塞がり掛けた傷を見て、山崎が言う。
 俺もそう思った。これだけ深いと、治ろうとして盛り上がってくる肉が、みみず腫れのように膨れるだろう。つい、深い息を吐いた。
「?」
 山崎が、俺の溜息に首を傾げた。邪気のないきょとんとした所が、恵を想わせる。
 思わず、笑った。
「……弟が……弟がさ。こんなの見つけたら、すごい心配するから」
 本当に……。こんなのを見たら、俺の変わりに泣くだろう。
 
 恵に心配なんか、させたくないのに……。
 


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