chapter7. cross fader -クロスフェーダー-
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 山崎には済まないことをしたと、思う。
 何も訊かずに、俺の手当をし、看病してくれた。朝と夕と飯を作り、世話を焼いてくれた。
 
 だけど俺は……
 
 これだけ回復すれば、充分だ。今ならもう動ける。
 ──山崎には、なんて説明しよう……。
 
 いろいろな思いが、頭を渦巻く。
 そして俺は……山崎の部屋を飛び出した。昼過ぎ、まだ大学から帰って来るはずのない時間。
 本当は一言、顔を見て礼を言いたかった。でも、山崎が帰ってくるのを待っていたら、恵の下校に間に合わなくなる。
 もうこれ以上、時間を無駄にしたくなかった。
 ペンと紙を探して、メモを残した。
 
 
“──山崎へ 
 ありがとうな、本当に助かったよ”
 
 
 感謝の気持ちは、書ききれない。傷の手当て、看病、飯、寝床、……本当に助かった。
 そして、……何も訊かないでくれて、ずっと笑顔でいてくれて───
 
 どれか一つだけでも書こうと思ったけど、それは違う。だから、何も書けなかった。
 ……こんな時、山崎なら何て書くんだろうな。
 口の端がふと緩んだ。お節介焼きの気のいいヤツ。くりっとした目が、平和そうな顔が、俺に笑いかける。
 ………あいつに、山崎に打ち明けていたら……。
 俺は、変われたのだろうか……。
 
 持っていたペンを握り締めた。
 ──今更もう遅い。
 
 平和すぎる空間。
 居心地が良すぎる、友達ごっこの世界……。俺は弱りすぎて、縋りたくなってしまったんだ。
 言ったって分からない。打ち明けたってどうしようもない。あの現場を見なければ、俺の痛みはわからない。
 わかったところで、……俺は救われない。
 
 奥歯を噛み締めて、ペンを置いた。
 ───行かなけりゃ。
 着てる服をそのまま借りて行くしかない。手荷物もなにもない。俺はメモをベッドに置くと、急いで飛び出そうとした。
 玄関で、室内を振り向く。狭いキッチンと廊下。俺に遠慮して、山崎はここで寝ていた。
 ───本当に、すまない……。ごめんな山崎。
 ……ありがとう。
 廊下に、深々と頭を下げた。
 散々世話になりながら、勝手に出て行くことに、心が咎めた。
 
 
 
 
 
 
「はぁっ……」
 たどり着いた植え込みに腰を降ろして、思わず溜息を付いた。
 植木に寄りかかって、辺りを見回す。
 小学校の東側の壁が、四角く整えられた植木の向こうにずっと続いている。正門はここからは見えなかった。
 ……ここなら、アイツには見つからない。……でも、恵を見つけることもできないな。
 
 財布もカードも何もない。それがこれほど不便だとは、なってみないと気付かないものだった。
 定期が無い。電車がだめなら、バスで…なんて、つい考える自分が情けなくなった。
 ──徒歩しかない。とにかく歩いた。場所は判っている。下校時間に間に合えばいいんだ……。
 恵に会いたい。抱きしめて、キスして……無事を確認したい。
 それだけを思って、小学校を目指した。
 
 
 いざ近づくと、足が竦んだ。どこでヤツに見つかるか分からない。
 正面は避けて、こんな植え込みに隠れた。
 ───どうしようか。
 歩き通して、また身体は動かなくなっていた。まだ無茶だったか……と、後悔しそうになる。
 でも、ベッドの上でじっとしている方が、耐えられなかったはずだ。
 空を見上げると、どんよりと黒く厚い雲が垂れ込めていて、今にも雨が降ってきそうだった。
 
 ───どうする……正面の校門に、行くか?
 
 自分に訊いてみる。
 動けるのか。もし見つかったとき、走れるのか。
 ……逃げ切れるのか?
 会いたい気持ちと、見つかるかもという恐怖が、交互に胸を締め付ける。
 ………メグ……
 可愛い顔が、すぐに浮かんでくる。
 こんなに側にいるのに。やっとここまで帰って来たのに。
 ………会いたいよ。恵──
 
 身体を動かしてみた。
「………っ!」
 立ち上がろうとして、激しい目眩に襲われた。
 ───ッ、…くそ!
 目を閉じたまま、肩で息をした。深呼吸を繰り返す。
 その時、前方の植木の間からいきなり、誰かが飛び出してきたようだった。
 
「────!」
 俺の心と体は、硬直した。
 ……ゆっくりと目を開ける。
「………」
 
 驚いて立ち尽くしている、霧島の姿がそこにあった。
 
 俺も驚いて、霧島を見つめた。
「かつにい!?」
 その叫び声に、デジャヴを覚える。
 4月の初め……河原で暴行されて逃げたとき、あの時も、こんな風に霧島に声を掛けられた。
「……霧島」
 コイツには、変なところばかり見られるな……。
 舌打ちしながら見上げると、顔つきが何となく以前と違うように見えた。
 ──育っているのか。……数日で随分変わるんだな。
 引き締まった霧島の顔を見上げて、恵を想った。
 恵は……メグの成長も、俺は毎日見ていた。
 日毎伸びていく手足、身長。………一週間会わないうちに、何か変わってしまっただろうか。今、どうしているんだ。
 ───なぜ、コイツが一人でここにいる?
 
「……恵は?」
 絞り出すように、訊いた。声もろくに出ない。
 
 ずっと黙っていた霧島が、身体を振るわせた。
 
「何してたんだ! ──こんな大事な時に!」
 いきなり叫び出した。
 
 ──大事なとき? 
 ……なんだ……何かあったのか?
 
 
「そんな心配……俺に訊くぐらいなら、天野の所に、早く戻ったらどうですか!」
「───!」
「なんでいきなり、いなくなったりしたんですか!? 天野……どれだけ……っ」
 
 
 立て続けに聞こえてきた言葉は、俺自身が散々望み、そして心配していたことだった。
 今更コイツに言われるまでもない!
 ───それができるなら、とうに帰っている!
 ───だいたい、それなら、もともとメグを泣かしたりなんか…!
 悪魔の仕打ちが、煮えたぎる怒りとなって蘇る。
 わかってることを畳みかける、霧島の言葉にも、苛立った。
 
 理由なんか、説明できるわけがない。
 何を言ったって言い訳で……何も返す言葉がない自分にまた、怒って……そして、何よりも声が出ない。
「………うるせぇ」
 睨み付けて一言。それしか、言えなかった。
 
 もっと怒鳴り返してやりたかった。
 黙れ! と、口を塞ぎたかった。
 でも、ハアハアと苦しい息遣いが、自分の耳に煩い。
 苦しくて、大きな声すら、出ない──── 
 
 
 
 俺の呻きに、血相を変えて歯噛みする霧島。そのカオは、やはり前よりかなり大人びて見えた。
 それでも、悔し紛れのように何か言い出すのは、相手にしないつもりだったのに…… 
 
「……貴方はもうムリだ!」
 拳を握り締めて、俺を睨み付けてくる。
 
 ───何、言ってんだ、こいつ…?
 
 
「貴方には、貴方の世界がある! もう……天野だけの兄ちゃんじゃ、なくなってるんだ!」
「面倒みきれないのに、天野から何もかも奪うのはよせよ!!」
 
「────ッ!」
 
 
 面倒見切れない……だと? 
 ……違う! 不本意に拘束されて、引き剥がされた。
 俺はいつだって、メグだけを思ってるのに……
 
 そうだ、恵には……俺のことは、どう話しがついているんだ?
 急に心配になって、父さんの顔が思い浮かんだ。
 “適当に話しを付けておくから”そんなことを言っていた。
 ………無責任な説明をして、恵が傷ついていなけりゃいいけど……。
 俺は再度、奥歯を噛み締めた。
 
 霧島も、一瞬泣きそうな顔をした。そして、一層俺を睨み付けて来た。
 腹の底から怒りを燃やすような、叫びが響く。
「奪ってばかりでなく…必要なものもあるんだ! 俺がそれになる、貴方の代わりに天野を守る!」
 
 何を知ったような…そう、一笑に付すこともできない、必死な声だった。
 
 
 
 雨が降ってきた。
 大粒の雨が、ボタボタと顔を、身体を濡らしていく。
 霧島も俺も、そんなのは微動だにせず、睨み合った。
 
 
 俺の代わりに、守る…?
 そのフレーズが、頭にこだまする。
 恵に、何かあったのか……何か、起こっているのか? 問い質そうとした。
 この生意気なガキの胸ぐらを掴んで、いったい何が起こっているのか、聞き出したかった。
 誰に向かって物を言っているんだと、以前のように言ってやりたかった。
 ───でも、怠い体は動かない。
 
 霧島が、一歩近づいてきた。
「……………」
 真剣な眼が、俺を真っ直ぐに見下ろす。
「天野を……天野を俺にください。俺は絶対傷付けない。裏切ったり、置いてけぼりにしたりしない!!」
 
「─────ッ!!」
 
 ……傷つけたり、置いてけぼりにしたり……
 その言葉は、そのまま、俺の胸に突き刺さった。
 理由はどうあれ、結果はそうなっているんだ。俺は恵から離れ、ひとりぼっちにさせた。いきなり、なんの説明もなく。
 恵が泣き続ける姿は、容易に想像できた。
 
 帰り着けさえすれば…直接メグに触れることさえできれば……そのことばかり必死で、できるだけ考えたくなかった、メグ側の真実。
 
 その恵に、コイツは……霧島は、付いていてくれたんだな……。
 恵の泣き顔なんて、考えただけで胸が押し潰されそうになる。
 でも、たった一人で泣き続けさせないで、支えになるヤツが居てくれた。それは俺にとって、とても救いだった。
 
「………………」
 
 ───恵に何かが起こっている。
 霧島の様子から、それは間違いないと思った。
 それなのに、俺が役に立たない。
 
 悔しいけど、それは事実だった。
 ───どうする…
 また、自問する。
 誰よりも恵を心配する、霧島……。この間もそうだった。
 こんなヤツが俺にもいたら…そんなことさえ、思わせたんだ。
 
 俺が動けない以上、誰かが恵を守らなければいけない。
 今の俺は、恵に会うことすら出来ないでいる。
 そうだ…こんなんじゃ、駄目だ。……アイツを何とかしないと……。
 執拗に俺に構う、あの悪魔……俺の問題を、片づけないと…!
 
 
 
「……………………」
 ───俺は、心を決めた。
 
 俺も、真っ直ぐに霧島を見上げた。
 生意気な、恵の同級生──
 ガキだガキだと、思っていたけれど、……こんな事になるなんて
 
 
 
 
「───今は……頼む」
 
 
 ……恵を……頼む……
 
 
 
 
 降りしきる雨は、涙を流さずに泣く、俺の心を代弁しているかのように、頬を伝った。
 


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