chapter13. critical turning point                       -見えない回帰点-
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 着信音に怯えながら、会社に見切りを付けて……。僕の回りは、変わっていった。
 外にはあまり出ず、パソコンの前に座りっぱなし。時々真剣になりすぎて、時間を忘れた。
 
 我に返ると、克晴が欲しくなった。
 いい子になって、筋肉も戻ってきて……つい、見とれてしまう。
 シャワーを浴びて出てきた所なんか、もう。今終わったばかりなのに、押し倒したくなる。わざと新しいパジャマを、シャワーが終わった後に持って行った。
「ごめんね。忘れてた」
 手渡すとき克晴はいつも、腰タオルで僕を睨み付けてきた。髪がかなり伸びていて、半乾きの前髪を掻き上げたりしてる姿は、言いようがないほど綺麗だった。
 
 ここに連れてきて、丸々3ヶ月は経っているんだ。当然だよね。僕だけ定期的に、カットしに行っていた。
「伸びたね、切りたい?」
 セックスの最中に、指で梳いてあげて、そう訊いてみた。
「美容師、呼んであげるよ」
「………」
 一瞬驚いた顔をして、首だけ横に振っていた。そんな時ぐらい、声に出して返事してくれてもいいのに。
 
 
 ───それでも僕は、会社に在籍し続けた。
 だって、先輩との繋がりが途切れてしまう。それは全部、克晴のため……。
 先輩の野球チームの応援だけじゃ、先輩に心配させてしまうかもしれない。探りを入れられたくない。
 だから平気な顔して、時々通勤して……懲りずに何度も、長谷川部長に掛け合おうとした。
 
 そして、やっと会えたと思ったら……。
 立ち直れないほど、決定的な事を言われた。
『君は、会社に対して不真面目すぎる。やる気が無いなら、さっさと退職してくれないか』
『……は!?』
 さすがに、この言葉には、ショックと怒りを隠せなかった。
『部長が……アンタが…こんなふうに、させたクセに!』
 殴りかかってしまうところだった。
 たまたま他の社員が、入ってきて、暴力沙汰にはならずに済んだ。僕は頭が真っ白になって、帰宅した。
 
 
 なんで…こんなにも追い込まれるんだろう?
 どこかに、悪意が働いているとしか、思えない。
 ───でも、なんで、僕なんだ。……僕は、何もしていない……
 
 その思いが、涙を流させた。
 全てが悪い夢みたいで、克晴もいなくなっちゃう気がして…。
 克晴を抱き締めて、泣いてしまった。
「ぼくは……悪くない……僕は……」
 ここにいる克晴を、実感したくて。ムリヤリをまた、強いてしまった。
 
「痛いのは、嫌だ!」
 克晴の叫び声───
 
「────えッ?」
 
 会社でのストレスを、克晴にぶつけてしまっていた。これは……僕が悪い。
 
「……痛いの……ヤダ?」
 呆然と聞き返してしまうのも、どうしようもなく、情け無かった。
 ここ数日の仕打ちが、どんなに酷かったか、やっと僕は気が付いた。久しぶりに聞いたその大声は、僕を7年前まで戻した。
 
『指だけは嫌だ!』───そう言って叫んだ。
 ……あの時は、後ろから抱き締めてあげたら、大人しくなったんだ。
 
「そうだ、克晴! 久しぶりに、あれやろう!」
 今回も、そうしてあげた。
 温かい克晴の体……胸に当たる背中の温もりと、後頭部の感触が変に懐かしくて。僕の方が、大人しくなっちゃった。
 相変わらず、素股は嫌がってたけど…そんなところまで全てが…やはり、愛しい。
 
 
 
 
 
 ───あの日だ。
 あの時から、克晴が変わった。
 軟膏を塗ってあげた後、また外出して……帰ってきた僕に、克晴が言った。
 
「セミを、逃がしてやってくれ」
 
「え?」
 
 
 いつも通り寝ているとばかり思っていた彼の姿が、リビングルームにあって。
 僕は、すっごいビックリした。それだけでも、驚いたのに……。
 
 ───喋った。克晴が……喋った?
 
 ぽかんと見返す僕に、あとは無言で指を指した。
 その先を辿ると、ダイニングテーブルの椅子に引っかけた、僕のジャケット。
 そして……
「……セミ!?」
 つい大声で叫んでしまい、慌てて手で口を押さえた。
 何かと思った、大きな虫……! まさか、生き物がこの部屋に入り込んでいるなんて。
「……克晴が、見つけたの?」
 振り向いて、小さい声で訊いてみる。
「…………」
 もう、何も言わない。
 でも、僕をじっと見るその眼は、今までの無気力なそれとは違っていた。
 意志を持って、何かを言いたげで。真っ黒い瞳には、見たことのない光が射している気がした。
 
「……驚いた。僕にくっついてきたんだね」
 
 部屋の中で飛んじゃったら、それまでだと思ったけど。そっと両手で包んだ時は、ビッと一瞬鳴いただけで、後は大人しかった。
「うわ……セミを掴むなんて、子供の時以来だよ!」
 変に感動して、興奮しながら克晴に言ってしまった。
「…………」
 さっきと同じ眼で、僕を見続ける。ニコリともしない。
「……逃がしてくるね」
 手の隙間から飛ばないように気を遣いながら、玄関の外に出た。
 途端にじっとりとした空気に、包まれた。
 ここは高層マンションの上の方なのに、初夏の夕暮れは、ちょっとの風も吹かさなかった。
 僕は手摺りの外に両腕を突き出して、下を見降ろした。敷地内をぐるりと囲む、低い植木。アスファルト。
 何処までも続く街路樹と、4車線の大通り。その向こうには、またマンション、オフィスビル……。こんな都会のどこに、このセミは居たんだろう。
「よっ!」
 手の中のモノを、陽が延びてまだ明るい夕方の空に、放った。
 すとーんと落ちていくそれを眼で追うと、また一声ビビッと鳴いて、羽を広げた。
「……………!」
 軌道を変えて、すいっと飛んでいく。
 突然の珍入者は、黒い点となって……立ち並ぶマンション群の隙間に、消えていった。
 
 ───はぁ……
 
 先輩たちと円陣を組んだり、白石と肩を叩き合ったり……。
 人と触れあっては、いたはずなのに。克晴以外の生命体に、久々に触れた気がしていた。
「………」
 それは僕にとってあの蝉が、無垢な存在だったからかもしれない。
 ただそこにある命。
 裏工作も、ドロドロした感情も、何もない。
 ………セミだもんな。当たり前だけど……でも。
 包まれた僕の手の中で、じっとしていたのが、変に可愛く思えた。放った途端、自分の力で飛んでいった。それにも驚いた。
 ちゃんと飛んで、ちゃんと生きて……
「───────」
 僕は黒い点が消えていった、遙か向こうを眺めながら、ぼんやりと思った。
 いっそ、このくらい解り合えない方が、何も期待しなくていいのかもしれないなぁ。
 ……なんて、すさんでいた僕の心は、そんなことまで考えた。
 そんなこと、あるはずない。
 ───僕は、克晴と解り合いたい。
 すっかり暗くなった空を、手摺りにもたれながら、眺め続けてしまった。
 それにしても……。何かペットを飼うの……有りかな。
 
 部屋に戻ると、克晴がまだリビングで待っていて、あの眼のまま僕を見た。
「……飛んだよ」
 笑って教えてあげると、ふいっと視線を反らした。あとは無用とばかりに、寝室へ戻って行ってしまった。
 
 ………克晴。
 あんな虫一匹に、反応した。
 僕に、喋った。
 僕は嬉しくて……自分の部屋で、泣いてしまった。
 
 
「優しいんだ……僕、感動した」
 頭を撫でながら、言わずにはいられない。あの手の中の感触が、まだ消えていなかった。
「なんか飼いたい? 猫とか」
 その夜、ベッドの中で訊いてみた。
「……………」
 克晴は無言で睨み付けてきた後、くすりと笑った。
 
 ───え……!?
 
 眼はキツイ、憎悪の炎……その口元が片端だけ、一瞬上がったのを、僕は見逃さなかった。
 ───克晴!?
 この前のキスの時も、さっきもそうだったけど。応えて欲しいと、いっつも思ってるのに……。
 いざ、その反応が返ってくると、僕は驚きのあまり何も言えなくなった。
 でもそれも一瞬で……垣間見えた表情は、反らされた視線と共に、消えてしまった。
 
 ───ズキン
 
 ……なに……? 
 嬉しいのに、心がすごい痛かった。
 
 
 
 
 
 
 次の日から、克晴はリビングで新聞を読むようになった。
 朝食か夕食の後、ソファーに深々腰掛けて、優雅に紙面を広げちゃって。
 もっとも、読むならソファーでって、僕が命令したからなんだけど。何も言わずに、新聞だけ持っていこうとするから、なんとなくカチンときちゃって。
「克晴! それ、ベッド持ってくの禁止! 読みたいなら、ソファーで読んで」
 って。だって、それは二人の共有物なんだよ。
 本当は、そんな変化に驚いて、嬉しくて、抱き締めて誉めてあげたかったのに。
「…………」
 “それならいい”って、放り出すかと思った。僕はまた、失敗したかと思った。
 なのに……僕を睨み付けて、下唇を噛んで、暫く迷ってたみたいだけど、そのままソファーに座ったんだ。
 食事以外で、寝室から出てきている克晴を見るのは、とっても新鮮だった。
 
 
 
 相変わらず、克晴が何を考えているのかは、判らない。
 僕に心を開いたのか……? そんな瞬間を何度も見せながら、僕が喜ぶと、掌を返したみたいに突っぱねる。
 でも、確実に以前よりはいい子になっていて、食事中に喋ることがあった。外の天気は……とか、そんなことだけど。
 
 驚いたのは、先輩のこと、口にした時だ。
 こっちに出てくるようになって、二週間くらい経った、朝食の時……。
「もっと新聞、取らないのか?」
 って、聞いてきたんだ。
「……父さんは、何社も取って読んでた。記事が偏るからって」
「……へえ」
 知ってたけど……それ以上、返せなかった。
 そんなに喋る克晴が、眩しくて。僕をちらりと見た目線が、すっごいカッコ良くて。
 
 食事中じゃなきゃ、僕は舞い上がって、その場で襲っちゃっていた。
 


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