ベランダの鍵貸します
2
(いけない! 気付かれる前に、干さなきゃ)
我に返った名雪は、洗濯カゴをひっつかむと、干し竿まで走っていった。
「……気持ちいいなあ」
パンッと、タオルを引っ張って竿に掛ける。
晴れ渡っている冬空を見上げた。どこまでも、水色の空が冴え渡る。
柔らかい日光がさんさんと照らすその庭は、この季節でも、半日もすれば洗濯物を乾かしてしまうだろう。
「怒られちゃったけど……鍵、返さなくてよかった!」
目尻をさらに下げてにっこり笑うと、名雪は次々とカゴの中の物を干していった。
(みんな、仕立ての良いものばかりだ)
シャツを広げてみると、とても良い生地を使っているのがわかる。
(洗濯するとき、痛めてないといいけど……)
「どうせなら、洗濯するとこから、やりたいなあ」
他のシャツを広げては、呟いた。
そして、残り少なくなってきたカゴの中に、手を突っ込んだとき。
「────あっ!」
思わず、叫び声を上げた。
(……これは)
郡司のトランクスを摘み上げていた。
その両端をもって目の前に掲げてみる。
「大きいなあ」
自然と顔が赤くなってしまった。
さっきの寝顔が思い出された。
(これ……彼女に洗って貰ってるんだ)
名雪は更に顔を赤くすると、あたふたと変な妄想を掻き消した。
「ふーっ」
溜息をつきながら全部干し終えると、早々に退散することにした。
カゴをベランダの端に戻しに行く。
「………………」
カーテンの隙間を遠目に見て、踵を返した。
名雪は大学に入っても、彼女が出来たことはなかった。
バイト三昧で、それどころではなかったからだ。
ドキドキする心臓を抑えながら、自分のアパートに走った。
マンション暮らしで、彼女に洗濯物を洗わせる「郡司」が凄いと思っていた。
ギシギシ音を立てる、錆びきった剥き出しの鉄階段。
縦筋が入って、ゆがんでいる板ドア。
入ると、薄暗い部屋に6枚の畳だけ。
申し訳程度に出っ張った空間に、一口コンロを置けるガス台と、小さな作りつけのコンクリートの流し台が設置されている。
トイレ洗面は、今時共用である。
「はぁ……世界が、違うなあ」
落ち込んだり、拗ねたりする性格ではない。
ただ、ギャップを感じずにはいられなかった。
大きなマンション、常に入れ替わる彼女、身の回りは他人任せ。
余りに違う世界に、郡司は居た。
「しょうがないよ、父親が違うんだもんね~」
一人呟きながら、次のバイトの支度を始めるのだった。
郡司は薄ら寒さを感じて、目を覚ました。
いつの間にか、うたた寝をしていたらしい。
ソファーから身体を起こして、前髪を掻き上げながら外に目をやった。
約束通り、自分の洗濯物が綺麗に干してあった。
何となく思い付いたことだったけど、悪い気はしなかった。
(便利だな)
取っ替え引っ替えの女が珍しく不在で、身の回りに不便を感じていたのだった。
日曜日ごとに、名雪は必ず朝、洗濯物を干しに来た。
他の日は、郡司自身が不在のせいもあり、いつ来ているかわからなかった。
ふと、外を見るとシーツがはためいている。
ああ、今日来てたのか、と知るのだった。
日曜の朝、いつものようにカゴを出しておくと、いつの間にか名雪が来ていて、それを干し出していた。
たまたまそれを見た郡司は、なんとなくその作業を見つめ続けてしまった。
郡司の下着も、気にせず手早く干している。
ふわふわした茶色い髪の毛を、気持ちよさそうに風にそよがせて。
時々空を仰いでは、日光を体中に浴びていた。
(気持ちよさそうだな)
日陰しかないという苦労を知らない郡司は、名雪が喜んでいる姿が新鮮だった。
「………」
名雪は、うたた寝している郡司を見てから、なんとなくカーテンの内側が気になっていた。
また見れないかな……と、無意識に思っていた。
(綺麗な寝顔……なんか、印象的だったなあ)
そんな思いが、名雪自身も気が付かないうちに、視線をガラス戸へ飛ばさせていた。
覗くなと叱られた手前、大っぴらに顔を向けることは、はばかられる。
身体は庭に向けながら、横目でついベランダを伺っていた。
でもそのガラス戸は、レースのカーテンで閉ざされていて、自分の姿を反射するだけだった。
何週間かそうやって、無意識にも視線を窓ガラスに飛ばしてしまいながら、名雪は洗濯物を干していた。
その窓ガラスの内側から、観察されているとも、気付かずに。
名雪の視線に郡司が気が付いたのは、3週間前だった。
(今日も相変わらず、気持ちよさそうだな)
日曜の朝は、何となくリビングで過ごすようになっていた。
名雪の作業を見ながら、珈琲を飲む。
「……ん?」
身体は向こうを向いたままだ。
顔もやや、こっちへ向けただけ。
その視線が、自分を見た気がした。
「…………」
窓際のカーテン越しに立っていた郡司は、名雪を見つめ返した。
(気のせいか?)
自分に気が付いてる様子は、名雪には見えない。
手早く次々にタオルやシャツを干していく。
(ん? ……やっぱ、見てるな)
ちらっと、一瞬だけ視線がこちらに向けられる。
うたた寝を見られた事を知らない郡司は、それが不可解で、反対に名雪を見つめ続けた。
こうして、二人の奇妙な覗き合いが、始まったのだった。
2月の2週目の日曜日、いつも通り珈琲カップを片手に窓際に郡司が立つと、聞き慣れない声が聞こえてきた。
「……?」
耳を澄まして、驚いた。
名雪が、歌っていたのだ。
大きなバスタオルを竿に掛けながら、何かの歌を口ずさんでいる。
(へえ……可愛い声だな)
高くて優しいその声は、郡司の耳に聞き心地良く響いた。
「ぁ……」
気持ちよさそうに口ずさんでいた名雪が、ふいに歌をやめて、舌をぺろっと出した。
「違った、違った」
そう言うと照れたようにニコッと笑って、何事も無かったように、その続きを歌い出す。
「…………??」
郡司はそれを見てしまって、噴き出した。
(もしかして、歌い間違えて、自分でダメ出ししたのか……?)
その仕草が可愛くて、ますます眺めてしまった。
よく見ていると、しょっちゅう、ぺろっと舌を出しては違う違うと呟いている。
(そんなに覚えてないなら、歌わなきゃいいのに……)
呆れながらも、ずっと眺め続けていた自分に気付く。
持っていた珈琲カップから、すでに湯気は立っていない。
(……熱い珈琲、淹れなおすか)
窓際から離れるとき、もう一度名雪に目をやると、冷たそうに丸めた両手を口元に持っていくのが見えた。
その口からは、白い息が短くいくつも吐き出されていた。
次の週の日曜日、ベランダに見慣れない籠が出ていることに、名雪は気付いた。
「あ、もしかして!」
洗濯カゴの2倍くらいの大きさで、上品な蓋付きの焦げ茶色の藤籠。その上にメモが乗っていた。
──取り込んだ洗濯物は、この中へ入れてくれ──
取り込む作業まで全部、名雪がやっていた。
今までは、綺麗に畳んでプラスチックの洗濯カゴに入れ直して、ベランダに置いておいた。
でも、洗濯物は洗った後は膨らむから、入れ間に合わないときがあった。
名雪はそのことをメモにして、郡司に伝えていたのだ。
「ああ。これで取り込んだあと、汚れないや」
嬉しそうに言いながら蓋を開けて中を覗くと、缶珈琲が一本置いてあった。
「あれ!?」
拾い上げると、まだかなり熱い。
(わあ……これ、僕に……?)
名雪は思わず、横のガラス窓を振り仰いだ。
「郡司さん……ありがとうございます!」
中は相変わらず見えないけれど、一言お礼が言いたかった。
にっこり微笑むと、陽の当たる暖かい庭に出て、美味しそうにそれを飲んだ。
「はぁ、……暖まるなあ」
その心遣いが、胸に染みる思いだった。