ぼくは、あっち。
 

 
 僕は、濱中先生を初めて見た時、とても恐かった。
 運動音痴は中学の時も疎まれた。
 存在なんか無いみたいに無視するか、出来ないのにみんなの前でわざとやらせて、笑いモノにされたりした。
 高校でも一年の時は、あまりいい先生ではなかった。
 そして、濱中先生の第一印象は、殴ってきそうなくらい恐かった。
 
 ──でも、そんなことする先生じゃないっていうのは、すぐわかった。
 生徒をよく見てて、出来る子、出来ない子なりのそれぞれの教え方をしてくれるんだ。
 そんな先生、初めてだったから、すごい嬉しかった。
 先生が僕を見捨てない限り、僕も頑張らなきゃって。そう思ったんだ。
 だから僕は、自分の出来ることで精一杯はやるよう、努力をしてた。
 せめて嫌われないようにって。
 
 ……だから、こんなふうにいきなりキスされて、抱きかかえられて、すっごいドキドキしてしまったんだ。
 
 遠目にも格好良くて…みんなの人気者で。
 僕には、高嶺の花もいいところだった。
 先生と接点のある筈のない僕は、呼ぶことも出来なくて。
 ただ、遠くから見てるだけだった……
 なのに…。
 
 頷いた僕を、じっと見つめる。
 嬉しそうに笑って。……優しく細められた、眼差し。
 この間、間近で見つめられてドキッとした……
 
 この眼が……僕を見る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 次の時も合同体育。
 僕は当番だったから、先に倉庫に行ってゼッケンとかを用意しなければいけなかった。
「野原、鍵もらってきて」
「うん」
 他の当番の子と打ち合わせて、僕だけ職員室に向かった。
 職員室のドアを開けると、奥の方に濱中先生の背中が見えた。
「はまなかせんせーい!」
 
「はい?」
 
「──え!?」
 
 ………あ、びっくりした。
 もう一人の浜中先生が、もっと手前に座っていた。そこから返事をしたのだった。
「あ、すみません…。あっちの濱中先生を呼んだんです」
 僕は困り笑いで、奥の方を指さした。
「あっちの…ね」
 浜中先生も優しく微笑んでくれて、奥の濱中先生を呼びに行ってくれた。
 同じハマナカ先生でも、違うなあ。
 並んでる二人の先生を、見比べてしまった。
 優しい物腰で、いつも笑顔の浜中先生。生徒が言うこと聞かなくても、怒ったりは絶対しない。線が細くて、圧迫感がまるでない。
 反対に、濱中先生は恐い。怒鳴るし、動きが力強い。僕なんて、横にいると風圧で吹き飛んでしまう気がする。
 
 濱中先生が、僕を振り向いて笑顔になった。
 
「…………」
 ………あ、胸が。
 
 どきん、と脈を打った。
 先生が近づいてくる。
 ドキドキも早くなってきた。
 
「あの……倉庫の鍵を……」
 
 見上げた時は、顔が熱くて。
 たぶん、真っ赤っかになってる…そう思うと、恥ずかしくて、ますます頭に血が上った。
 
 
 
 この間のキス以来、なにがあるわけでもなかった。
 付き合えって言われても、どうしたらいいか判らないし。
 先生はあれ以来、他の生徒と変わりなく接してくる。
 気まぐれだったのかと思うほど、素っ気ない態度だった。
 
 僕は、言葉を無くして、ただ見上げてしまった。
「今日は野原が当番か。まあ、しっかりやれよ」
 いつもの調子で、にやりと笑う。
 
 ……それだけ。
 
「……はい」
 両手で鍵を受け取ると、逃げるようにして体育館に走った。
 
 どうして欲しいってわけじゃ、ないけど。
 意識しないわけにいかない。
 それなのに、濱中先生は……。
 僕ばっかり熱くなっている気がして、自己嫌悪に陥ってしまった。
 
 
 
 
「当番、お疲れさん。どうした?」
 体操着に着替えた小五郎が、ゼッケンを配っている僕の所に来た。
「何か最近、元気ないな」
 ……濱中先生にも言われたなあ。理由は違ったけど。
「うん、ちょっとね。ハイ、小五郎は4番」
 今日は小五郎がバスケ組。僕はテニス組だった。
「……テニスは個人だから、他の人に迷惑はかけないけど、みっともないの丸見えだからね」
 それはそれで、憂鬱だった。
 左でラケットを持つ僕は、他の人よりバックハンドで返す率が高い。
 当たらないんだ、これが。
 ボールの右側に回り込めって言われる。
 そんなに早く走れないし。
 
 結局、散々なスコアで、僕の番は終わった。
 片付けは、テニスコートのネット。これを外すのも大変だった。
 ちっちゃい僕は、何をするにも不自由だ。
 やっとこポールからネットを降ろすと、二人がかりでたたんで、外の倉庫にしまった。
「野原、ボール拾って。オレ、ラケットかたすわ」
「うん」
 テニスコートのフェンスに沿って、カゴを引っ張りながらボールを拾い集めていく。
 こっちのカゴは軽くて、助かった。
「?」
 フェンスの向こうは、体育館の裏側に繋がっている。
 人の気配を感じて、その方向を見た。
「───!」
 ……え……なに……
 
 濱中先生がいた。
 ちょっと遠いけど、大きな身体は遠目にもすぐ判る。
 その横に、もう一人……。
 
 横、っていうか。
 …抱きついていた。
 
 ──隣のクラスの子だ。
 そして、……先生の手は……
 その子をしっかりと抱きしめ返していた。
 
 
「─────」
 
 
 
 僕の頭は、真っ白になった。
 
 あれっきり、素っ気ない先生。
 僕と同じような、小さな男の子。
 抱きついて、しがみついて……
 
 別に、僕が特別ってわけじゃ……なかったのか……
 
 
 
 こころが──
 傷付かないように、いろいろ言い訳をはじめた。
 
 付き合えって言ってたけど…
 どっかに一緒にいくことを”付き合う”って言うじゃん。
 好きとか、一言も言ってないし。
 ……ばかだな……ぼく。
 
 テニスボールが歪む。
 すぐにその場を離れて、隣のコートのボールを拾った。
 手を伸ばす先にあるボールが、歪んで見えて、うまく掴めない。
「う……」
 僕、泣いてるんだ。
 熱いものが頬を伝いだしたとき、そう気が付いた。
 緑色のコートに、黒いシミがいくつもできていく。
 そしたら、嗚咽まで出てきた。
 
 ……僕、なんでこんな胸が痛いんだろう。 
 
 
「ミチル! 大変だな、お疲れさん!」
 小五郎が、走ってきた。
「…………」
「───!? どうした? 何、泣いてんだ!?」
 血相を変えて、心配してくれる。
 どう答えていいか判らない僕は、ただ首を振った。
「遅いから……心配して来てみれば」
 呟きながら、僕の頭を抱えてくれた。
 小五郎も背が高くて、僕と頭一つ分違う。
 胸におでこをくっつけると、体育倉庫でのことを思い出してしまった。
 先生のすごいキスに、必死でしがみついて……
「………うぅ~」
 止まらないよ……。胸がすごく痛くて。
 さっきの子にも、同じことして、同じこと言ってんのかな。
 他にも、たくさんの生徒に…先生、人気あるし……。
 
 いろいろ、頭の中でぐるぐると回りだす。
 
 泣きやむまで暫く掛かってしまった。
「ごめんね、小五郎……。昼休みにだいぶ食い込んじゃった」
「……そんなん、いいけど」
 心配そうに、僕を見下ろす。
「何があった?」
「…………」
 
 僕は、やっぱりなにも言えなくて。
 
 俯いた僕に、小五郎が謝った。
「ごめん。蒸し返したら、また泣くよな…」
 困ったふうに呟いた。
 
 ……うう。こんなんじゃ、いけない。
「だいじょぶ、だいじょぶ!」
 僕は小五郎から身体を離すと、腕を振り回した。
「もう元気! ごめんね、変なトコみせちゃった」
 照れ笑いをしながら、ボールを拾い集めた。
 情けない姿を見せてしまって、気持ちに喝が入った気がした。
 こんなじゃいけない。うじうじしてたって、しょうがないじゃん、て。
 
 
「鍵かえしてくるから、小五郎、購買でパン買ってきて」
 僕が言うと、小五郎は笑った。
「もうないよ、パンなんて」
 ……うう、そうか。
 泣きすぎてた自分を、恨んだ。
 鍵を返すのに、濱中先生に会わなきゃならない。
 僕はきっと平静でいられないから……。
 小五郎に、変な空気を読まれたくなかったんだ。
 でも、幸い濱中先生はいなかった。
 また浜中先生がいたので鍵を預かってもらい、教室に向かった。
 
「あ……」
「ん?」
 思わず出した声に、小五郎が怪訝な顔を向けた。
「あ、なんでもない…」
 慌ててごまかした僕の視線の端には、あの子が映っていた。
 隣の教室に戻って行く。
 ───さっき濱中先生と一緒にいた子だ。
 目が真っ赤で、頬が上気したように赤かった。
 …今一瞬、目が合った時、睨まれた気がした。
 
 
 ………濱中先生は…ちっちゃいのが好きなのかな……
 その子は、僕より小さかった。 
 
 
 
 
 
 放課後は、小五郎はバスケ部。
 僕は帰宅部だった。
 他校との試合が近いとかで、練習時間がかなり長くなっている。
 そのうち朝練も始まるって言ってたな。
 僕は帰ろうかと思ったけど、何となく体育館に足を運んでみた。
 ダンダンッというドリブルの激しい音が、幾つも聞こえてくる。
「そうじゃないって言ってんだろ! よく見てろよ!」
 濱中先生の大きな声が、響いてきた。
 
 ………うわ。
 
 こっそり覗くと、先生が手本を見せて、シュートをするところだった。
 長身の先生が、腕を上に伸ばして跳躍する姿は、ものすごい迫力だった。
 
 ……すごい……ほんとに…うまいなあ…
 
   小五郎がすぐ横で、真剣な顔をして見ている。
 ボールを渡されて、同じようにシュートをするけど、決まらない。
 ほとんどマンツーマンで教えているようだった。
 
 先生の手が、小五郎の肩に触れる。
 ボールを渡すとき、指が触れる。
 体当たりでシュートしに行く。
 
「………」
 小五郎も、かっこいいんだ。ファンの女の子たちの応援団もできてる。
 今までそんなこと、思ったことなかったけど。
 先生と小五郎の方が………似合うや。
 


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