ぼくは、あっち。
2
僕は、濱中先生を初めて見た時、とても恐かった。
運動音痴は中学の時も疎まれた。
存在なんか無いみたいに無視するか、出来ないのにみんなの前でわざとやらせて、笑いモノにされたりした。
高校でも一年の時は、あまりいい先生ではなかった。
そして、濱中先生の第一印象は、殴ってきそうなくらい恐かった。
──でも、そんなことする先生じゃないっていうのは、すぐわかった。
生徒をよく見てて、出来る子、出来ない子なりのそれぞれの教え方をしてくれるんだ。
そんな先生、初めてだったから、すごい嬉しかった。
先生が僕を見捨てない限り、僕も頑張らなきゃって。そう思ったんだ。
だから僕は、自分の出来ることで精一杯はやるよう、努力をしてた。
せめて嫌われないようにって。
……だから、こんなふうにいきなりキスされて、抱きかかえられて、すっごいドキドキしてしまったんだ。
遠目にも格好良くて…みんなの人気者で。
僕には、高嶺の花もいいところだった。
先生と接点のある筈のない僕は、呼ぶことも出来なくて。
ただ、遠くから見てるだけだった……
なのに…。
頷いた僕を、じっと見つめる。
嬉しそうに笑って。……優しく細められた、眼差し。
この間、間近で見つめられてドキッとした……
この眼が……僕を見る。
次の時も合同体育。
僕は当番だったから、先に倉庫に行ってゼッケンとかを用意しなければいけなかった。
「野原、鍵もらってきて」
「うん」
他の当番の子と打ち合わせて、僕だけ職員室に向かった。
職員室のドアを開けると、奥の方に濱中先生の背中が見えた。
「はまなかせんせーい!」
「はい?」
「──え!?」
………あ、びっくりした。
もう一人の浜中先生が、もっと手前に座っていた。そこから返事をしたのだった。
「あ、すみません…。あっちの濱中先生を呼んだんです」
僕は困り笑いで、奥の方を指さした。
「あっちの…ね」
浜中先生も優しく微笑んでくれて、奥の濱中先生を呼びに行ってくれた。
同じハマナカ先生でも、違うなあ。
並んでる二人の先生を、見比べてしまった。
優しい物腰で、いつも笑顔の浜中先生。生徒が言うこと聞かなくても、怒ったりは絶対しない。線が細くて、圧迫感がまるでない。
反対に、濱中先生は恐い。怒鳴るし、動きが力強い。僕なんて、横にいると風圧で吹き飛んでしまう気がする。
濱中先生が、僕を振り向いて笑顔になった。
「…………」
………あ、胸が。
どきん、と脈を打った。
先生が近づいてくる。
ドキドキも早くなってきた。
「あの……倉庫の鍵を……」
見上げた時は、顔が熱くて。
たぶん、真っ赤っかになってる…そう思うと、恥ずかしくて、ますます頭に血が上った。
この間のキス以来、なにがあるわけでもなかった。
付き合えって言われても、どうしたらいいか判らないし。
先生はあれ以来、他の生徒と変わりなく接してくる。
気まぐれだったのかと思うほど、素っ気ない態度だった。
僕は、言葉を無くして、ただ見上げてしまった。
「今日は野原が当番か。まあ、しっかりやれよ」
いつもの調子で、にやりと笑う。
……それだけ。
「……はい」
両手で鍵を受け取ると、逃げるようにして体育館に走った。
どうして欲しいってわけじゃ、ないけど。
意識しないわけにいかない。
それなのに、濱中先生は……。
僕ばっかり熱くなっている気がして、自己嫌悪に陥ってしまった。
「当番、お疲れさん。どうした?」
体操着に着替えた小五郎が、ゼッケンを配っている僕の所に来た。
「何か最近、元気ないな」
……濱中先生にも言われたなあ。理由は違ったけど。
「うん、ちょっとね。ハイ、小五郎は4番」
今日は小五郎がバスケ組。僕はテニス組だった。
「……テニスは個人だから、他の人に迷惑はかけないけど、みっともないの丸見えだからね」
それはそれで、憂鬱だった。
左でラケットを持つ僕は、他の人よりバックハンドで返す率が高い。
当たらないんだ、これが。
ボールの右側に回り込めって言われる。
そんなに早く走れないし。
結局、散々なスコアで、僕の番は終わった。
片付けは、テニスコートのネット。これを外すのも大変だった。
ちっちゃい僕は、何をするにも不自由だ。
やっとこポールからネットを降ろすと、二人がかりでたたんで、外の倉庫にしまった。
「野原、ボール拾って。オレ、ラケットかたすわ」
「うん」
テニスコートのフェンスに沿って、カゴを引っ張りながらボールを拾い集めていく。
こっちのカゴは軽くて、助かった。
「?」
フェンスの向こうは、体育館の裏側に繋がっている。
人の気配を感じて、その方向を見た。
「───!」
……え……なに……
濱中先生がいた。
ちょっと遠いけど、大きな身体は遠目にもすぐ判る。
その横に、もう一人……。
横、っていうか。
…抱きついていた。
──隣のクラスの子だ。
そして、……先生の手は……
その子をしっかりと抱きしめ返していた。
「─────」
僕の頭は、真っ白になった。
あれっきり、素っ気ない先生。
僕と同じような、小さな男の子。
抱きついて、しがみついて……
別に、僕が特別ってわけじゃ……なかったのか……
こころが──
傷付かないように、いろいろ言い訳をはじめた。
付き合えって言ってたけど…
どっかに一緒にいくことを”付き合う”って言うじゃん。
好きとか、一言も言ってないし。
……ばかだな……ぼく。
テニスボールが歪む。
すぐにその場を離れて、隣のコートのボールを拾った。
手を伸ばす先にあるボールが、歪んで見えて、うまく掴めない。
「う……」
僕、泣いてるんだ。
熱いものが頬を伝いだしたとき、そう気が付いた。
緑色のコートに、黒いシミがいくつもできていく。
そしたら、嗚咽まで出てきた。
……僕、なんでこんな胸が痛いんだろう。
「ミチル! 大変だな、お疲れさん!」
小五郎が、走ってきた。
「…………」
「───!? どうした? 何、泣いてんだ!?」
血相を変えて、心配してくれる。
どう答えていいか判らない僕は、ただ首を振った。
「遅いから……心配して来てみれば」
呟きながら、僕の頭を抱えてくれた。
小五郎も背が高くて、僕と頭一つ分違う。
胸におでこをくっつけると、体育倉庫でのことを思い出してしまった。
先生のすごいキスに、必死でしがみついて……
「………うぅ~」
止まらないよ……。胸がすごく痛くて。
さっきの子にも、同じことして、同じこと言ってんのかな。
他にも、たくさんの生徒に…先生、人気あるし……。
いろいろ、頭の中でぐるぐると回りだす。
泣きやむまで暫く掛かってしまった。
「ごめんね、小五郎……。昼休みにだいぶ食い込んじゃった」
「……そんなん、いいけど」
心配そうに、僕を見下ろす。
「何があった?」
「…………」
僕は、やっぱりなにも言えなくて。
俯いた僕に、小五郎が謝った。
「ごめん。蒸し返したら、また泣くよな…」
困ったふうに呟いた。
……うう。こんなんじゃ、いけない。
「だいじょぶ、だいじょぶ!」
僕は小五郎から身体を離すと、腕を振り回した。
「もう元気! ごめんね、変なトコみせちゃった」
照れ笑いをしながら、ボールを拾い集めた。
情けない姿を見せてしまって、気持ちに喝が入った気がした。
こんなじゃいけない。うじうじしてたって、しょうがないじゃん、て。
「鍵かえしてくるから、小五郎、購買でパン買ってきて」
僕が言うと、小五郎は笑った。
「もうないよ、パンなんて」
……うう、そうか。
泣きすぎてた自分を、恨んだ。
鍵を返すのに、濱中先生に会わなきゃならない。
僕はきっと平静でいられないから……。
小五郎に、変な空気を読まれたくなかったんだ。
でも、幸い濱中先生はいなかった。
また浜中先生がいたので鍵を預かってもらい、教室に向かった。
「あ……」
「ん?」
思わず出した声に、小五郎が怪訝な顔を向けた。
「あ、なんでもない…」
慌ててごまかした僕の視線の端には、あの子が映っていた。
隣の教室に戻って行く。
───さっき濱中先生と一緒にいた子だ。
目が真っ赤で、頬が上気したように赤かった。
…今一瞬、目が合った時、睨まれた気がした。
………濱中先生は…ちっちゃいのが好きなのかな……
その子は、僕より小さかった。
放課後は、小五郎はバスケ部。
僕は帰宅部だった。
他校との試合が近いとかで、練習時間がかなり長くなっている。
そのうち朝練も始まるって言ってたな。
僕は帰ろうかと思ったけど、何となく体育館に足を運んでみた。
ダンダンッというドリブルの激しい音が、幾つも聞こえてくる。
「そうじゃないって言ってんだろ! よく見てろよ!」
濱中先生の大きな声が、響いてきた。
………うわ。
こっそり覗くと、先生が手本を見せて、シュートをするところだった。
長身の先生が、腕を上に伸ばして跳躍する姿は、ものすごい迫力だった。
……すごい……ほんとに…うまいなあ…
小五郎がすぐ横で、真剣な顔をして見ている。
ボールを渡されて、同じようにシュートをするけど、決まらない。
ほとんどマンツーマンで教えているようだった。
先生の手が、小五郎の肩に触れる。
ボールを渡すとき、指が触れる。
体当たりでシュートしに行く。
「………」
小五郎も、かっこいいんだ。ファンの女の子たちの応援団もできてる。
今までそんなこと、思ったことなかったけど。
先生と小五郎の方が………似合うや。