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俺の高校には、ハマナカ先生が二人いる。
一人は、浜中先生。こっちは元からいた先生。
一人は、濱中先生。こっちは俺が2年になったとき、赴任してきた。
浜中先生は、俺が「ハマチュウ」と名付けた。
ところが、ダチどもは、後から来た濱中先生をハマチュウと呼び出したんだ。
ウソだろ。
ハマチュウは、こっちだ。
もう一つの区別の仕方は、ひでぇもんだ。
簡浜(カンハマ)と難濱(ムズハマ)。
漢字が簡単か、難しいかってだけの、単純な発想だった。
これは誰かがいつの間にか、言い出していた。
「おはよう」
ドアが開いて、ハマチュウが入ってきた。
俺がハマチュウと呼ぶのはカンハマの方だけ。つまり浜中先生だ。
クラスの奴らは、騒いだまま静まらない。いつものことだけど。
「…席に着いてください。授業を始めますよ」
なんて、これまたいつも通り穏やかに声を掛けている。
俺は、席を立って先生の教壇に向かった。
「瀬良君、また、よろしくね」
俺は無言でプリントを受け取った。最前列の机に、数枚づつ置いていった。
「ほらよ、後ろに配って回せ」
いちいち声を掛けないと、全員に渡っていかない。
その作業を、ハマチュウは嬉しそうに見ていた。
そして配り終わると、花が綻んだみたいに笑って、俺に礼を言うんだ。
「ありがとう、瀬良君」
俺は、いつもそれを無視して、席に着く。
まともに見ると、赤面しそうだったから。
このプリント配りは、もともとはハマチュウが自分でやっていた。
教科は基礎解析。このおっとりした喋りで難解なことを言われても、眠くなるだけで。
いかにも気の弱そうなこの先生の授業など、クラスの奴らが聞くはずもなかった。
それを自覚したハマチュウは、毎回プリントを作り、それに沿って授業をやることにしたらしい。極論、授業を聞いてなくても、プリントさえクリアできればOKということだ。
ところが、配り始めると、もたくたもたくた……。
見かねて、俺が配るって言っちまった。
その日は俺が日直だったから。
それ以来、俺がプリントを配る係になっちまったってわけ。
「……………」
「ですから、シグマのここのエヌが……」
誰も聞いていない授業を、俺は片肘をついて見回す。
ハマチュウは説明の度、顔を上げて、生徒の一人一人を見ていた。
(……バカじゃねえの。ただプリントだけ読んでればいいのに)
そう思いながらも、先生の顔を見続ける。
(………あ)
俺は慌てて、眼を伏せた。次は、俺を見る……それがわかってたから。
俺はそんな先生が好きだった。
高校一年、一学期早々から生徒にナメられたいた。
言うことを聞かない生徒に怒りもせず、困ってオロオロしていた。
そのうち「ハマナカ」と呼び捨てにされだしたんだ。
俺はそれを聞く度に、なんだか知らないけどムカ付いた。
「ハマナカって、言いにくいじゃん。ハマチュウがよくない?」
俺が先頭切って、そう呼び出した。あだ名の方が、まだ聞き流せたから。
だから、「ハマチュウ」は、浜中先生の名前なのに。
濱中先生は、打って変わって皆の人気者だった。
カッコイイし、受け持ちが体育だったから。
女子なんか皆、ムズハマ命って顔になっていた。
「瀬良!」
バスケットボールを投げつけられて、俺はビックリして飛び退いた。
「何すんだ、センセー!」
「ボケッとすんな、危ないぞ!」
「はぁ? 先生が一番危ないだろ!」
実際、カッコイイ先生をつい見てしまうのは事実だ。
けど、俺の目が惹き付けられるのは、ハマチュウの方だった。
何でか知らんけど、カッコイイ濱中先生には、俺のセンサーはピクリともしなかった。
そんなわけで、俺はいつもムズハマを眺めながら、カンハマを思い浮かべていた。
「あ、瀬良君。丁度良かった、ちょっと手伝ってくれないかな」
放課後、友人達と下駄箱に向かっている途中、ハマチュウに呼び止められた。
「ひゃはは、ヨウスケが捕まった!」
「ほんじゃな、ガンバレ~」
「え!? おい、ちょっと…」
薄情な奴らは、さっさと行ってしまった。
俺はいきなり緊張した。
「……何? ハマチュウ」
ヤブ睨みをして、聞き返す。
俺の迫力に怖じ気づいたように、身体を一歩下げると、ハマチュウは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「その…。印刷を手伝ってほしいんだ。明日の分の」
「……いいけど」
「よかった! ちょっと急用で早く帰らなきゃならなくてね。いつもは残業してるんだけど」
また、頭を掻く。
俺は見惚れて、見上げてしまった。
優しげにちょっと垂れた目が、柔らかい空気を作っている。
ぼさっと伸びた野暮ったい髪が、お人好しを余計に際だたせていた。
印刷室に行くと、インクの臭いが鼻についた。職員室の横で、狭い部屋に印刷機が2台、コピー機が1台。あと、裁断機が奧の台に置いてあった。
その向こう、突き当たりの壁からは天窓がぼんやりと外の光を取り入れている。
「俺、ここ入るの初めて」
基本、生徒は立ち入り禁止のはずだった。
「今日は、特別。誰か来たら、僕が言うから大丈夫」
トントン、と差し込む紙を整えながら、何気なく言うハマチュウ。
俺は、妙に新鮮で、また見つめてしまった。
「……なに?」
気が付いたハマチュウが、怯えた目で聞いてきた。
「普段も授業で、そういう風に言えばいいのに」
「え、そういうふうにって?」
まったく自覚がないらしい。
「今みたいに……大人っぽく」
大人に向かって、大人っぽくもないと思うけど、このセンセはどっか、そういう所が欠けているんだ。
「言ったって、聞いてくれませんよ」
印刷機を操作しながら、また情けなく笑う。
「なんで? なんでハマチュウってそんな自信ないの?」
刷り上がった紙を乾かすため、受け取った紙の束を奧の台に運びながら、俺は聞いた。
「そんなふうに見えます?」
「……うん」
だから、みんなが付け上がるんだ。
「もっと自信持って、大声出せばいいのに」
「…濱中先生みたいに。……ですか?」
「!!」
なんでそこで、出てくんだ? そんな名前!
「関係ねーよ! ハマチュウの話し、してんだろ!」
俺はイラついて、大声を出してしまった。
「…ごめんなさい」
ビクッとして、俺に直ぐさま謝った。
「なに、ハマチュウ。濱中先生が羨ましいの?」
イヤミを込めて聞いてしまった。
すると、ハマチュウはじっと俺をみて、
「いえ。……僕は僕ですから」
と、また笑った。
「…………」
どきん。
心臓が高鳴った気がした。
「ありがとう、ここまでは順調です。そしたら、乾いたのから裁断します」
俺の焦りはよそに、プリント作りは進んでいった。
「これが難しいんですよ。端がいつも切りきれなくて、汚くなっちゃうんです」
”裁断機”と言ったって、超アナログだった。
台の上に紙を半分乗っけて、紙を押さえるための板をその上から押し当てる。
台の右端に付いている定規みたいに長細い金属の板の角で、台からはみ出た紙を無理矢理切り落とすようになっていた。
B4のコピー紙を、半分のB5に裁断する。
それだけのことだけど、一人だと、押さえ手と切り役を同時にやるのが難しい。
押さえきれなくて、カッター部分が紙を最後まで切り落とす前に噛んでしまうのだった。
「ホント、難しい…」
俺が押さえ手で、ハマチュウが、切り役になった。
全体重をかけるつもりで押さえてても、最後はずるっと引きずられて皺になってしまった。
「………ごめん」
「いいですよ。次のは成功させましょう」
にっこり笑って、台に紙をセットする。
俺が上半身を乗り上げて紙を押さえると、とい面の先生がカッターの部分を降ろそうとして前屈みになる。思いがけず顔が急接近して、俺は慌てた。
「あっ!」
押さえきれなくて、紙が半分も切れないうちに、カッター部分に巻き込まれてくちゃくちゃになってしまった。
これでは使い物にならない。
「うわ…センセ、ごめん…」
「…いいですよ。足りない分はコピーしちゃいます」
また、にっこり笑ってくれる。
俺は胸が痛くなった。
いつも、この笑顔。
俺には、嬉しいよ。
だけど……
「なんで怒んないの? ハマチュウは」
「え?」
「生徒に呼び捨てにされてさ……。授業中、言うこと聞かない、どーしょもない生徒たちをさ……」
睨み付ける俺に、また真っ直ぐ視線を向けてきた。
「呼び捨てって、…それは愛称ですから」
照れくさそうに笑う。
「僕は嬉しいですよ。そう呼んでくれるのが」
「…………!」
「それに、生徒っていうだけで僕には可愛いから、怒るなんてとんでもないです」
頭を掻いて、笑う。
「むしろ、僕なんかのせいで授業がわからなくて、皆さんに迷惑かけてると思うんですが」
──それは、そうかも。
頷きかけてしまった。
「いや、…でも、基礎解析でまだマシだよ。微分積分だったら、マジ、アウトだったけど!」
またフォローにならないことを、言ってしまった。
ハマチュウが笑う。
「僕、瀬良君にとても感謝しています」
「………」
「毎時間、プリント配ってくれて。それに、僕の目を見て返事してくれるのは、瀬良君だけです」
照れたように笑う。
俺も照れた。
「ハマチュウ…助けてくれたじゃん」
「え?」
「俺が一年の時、職員室でさ」
夏休みの課題だった、俺が出したレポートが、上手すぎた。
初めはそのセンコウも褒めてたんだ。
でも、真面目にやりすぎて、提出が遅くなっていて。
先生に説明したとき、俺が言った一言、”兄貴にも見せながら頑張った。”
そしたら、評価が「C-」だ!
俺、絶対納得できなくて、講義しに行ったんだ。
あのやろう、兄貴にやらせたレポートだと勘違いしやがった! そう思って。
そしたら俺を一瞥、じろりと見て『宿題は自分でやるもんだ』だと。
狸じじいめ! 頭っから、俺が嘘付いてレポート出したと決め付けたんだ。
職員室の真ん中で。
俺は、どれだけ惨めな気持ちになったか、わからない。
そしたら、後ろからハマチュウが
「瀬良君は、そんなことする子じゃありませんよ」
って、言ってくれたんだ。大きな声で。
俺は、レポートの評価より、人前で嘘つき呼ばわりされて恥を掻いた格好にさせられたことに、傷ついていたから。
それは救いの神だった。
俺の潔白を堂々と保証してくれたんだ。
あの時から、俺はハマチュウを眺めるようになったんだ。
”そんな子じゃない”って。
俺を見ててくれたのかと思って。
ハマチュウは、思い出して眉を寄せた。
「あれは酷かったですね。講義しに来た瀬良君が、反対に吊し上げ食ってる感じでした」
「…………」
「僕は、生徒対先生なら、100%生徒の味方です」
「────」
───なんだ。
………俺だからじゃないのか。
少し厳しい顔を作ってるハマチュウを、見つめた。
俺は……だから、センセーを助けたかったんだ。
こんどは俺が助けるって………
………俺だからじゃないのか。
俺が”生徒”だから、だから助けただけなのか……
生徒なら誰でも───
ちりっと胸のどっかが痛くなった。