始まりは、卑怯なほど 甘い
2.
「ほらみろ。立ってられないだろ」
両腕で僕を脇から掬い上げるように支え、口の端を上げて笑った。
その顔は、……憎らしいけど………めちゃくちゃ格好良かった。
「─────」
思わず言葉を失した僕に、もう一度軽いキスをした。
「アンタ、名前なんての?」
「………………」
「オレ、有馬。
もう一度聞いてきた。
「……
「かずき? ホントに、女の子みたいだな」
「……それを言わないでください」
どれだけ、この名前に泣かされたか。一輝とか一紀とか、せめて漢字が男らしかったら救いがあるのに。
「ほんじゃ、和希。行こうぜ」
「……は!? ……だから、僕は仕事の途中で…」
また回してきた手で腰をぐいっと引き寄せると、有馬という男は歩き出した。
僕は悔しいことに、この男の胸くらいまでしか身長がない。とても引き剥がして逃げたりは、出来なかった。
「あ……有馬さん!」
離してほしかった。付き合ってられない。こんな変なヤツ。僕はもう帰りたい!
「哮って呼べ」
見下ろして、言った言葉はそれだった。
「………!」
───だから、そうじゃなくて……!
マイペースなこの空気に、嵌められていく。
信号待ちでようやく脚を止めた。ここを渡れば、駅は直ぐそこだった。
僕はまた口を開いた。
……うっ、なんだか、呼びづらいけど。
「……たける…さん……」
僕、帰ります。
そう続けようとして、また見下ろしてきた目にドキッとした。
もう辺りは暗くなっていて、商店街の街灯と車のライトだけが、僕たちを浮かび上がらせる。
真っ黒になった瞳を、真っ直ぐに僕に向けてきた。
ほとんど真上を向いて、僕は口をぽかんと開けていた。
ぶっと、哮さんが、噴き出した。
「なんて顔してんだ、和希」
「……………っ」
思わず見惚れたなんて、言えない。
僕はぷいっと顔を背けて、足元に視線を落とした。首も疲れたし。
………このヒトの目は、僕の心臓を早くする。
「メシ、食おう」
「え?」
信号を渡ると、駅と反対方向に僕を誘導した。
「さっき、コーヒーしか飲んでなかったろ?」
「……あ、ハイ。まあ……」
「この先に、上手いお好み焼き専門店があるんだ。おごってやるよ」
言いも悪いも無い。強引に連れて行かれた。
その店は、かなり大きなお好み焼き屋だった。
完全個室になっていて、客が各自で焼くように掘りこたつに鉄板が設置されている。
「へえ、こんなとこ僕、知らなかった」
会社が入っているビルは駅前だから、他はあまり歩く必要がなかった。
「駅から、ちょっとあるからな。でもここは混むんだぜ」
今日はまだ時間が早いから、空き室があった。
3畳くらいの、3方を襖で仕切った小部屋。
廊下側じゃない、2方の襖を開ければ両隣の部屋と繋がり、かなりの団体客も入れるようになっているらしい。
室内の柱や天井は、油が染みついて全体的にセピア色になっている。
吊るされた電灯が、黄色い光でぼんやりとそれらを照らし出して、時代錯誤な雰囲気を醸し出していた。
「……昭和の、初めの頃みたい」
もちろん僕は生まれてないけど、その頃の時代はこんな色をしてるイメージだった。
物珍しくて、きょろきょろする。
「面白いこと言うな」
また見つめられてしまった。
僕は恥ずかしくて、下を向いた。
「酒もイケるだろ?」
ビールと日本酒とお好み焼きともんじゃ焼きを注文すると、すぐに持ってきてくれた。
「乾杯」
カチンとグラスを合わせると、哮さんはぐいっとグラスの冷酒を飲み干した。
僕もビールを、一口含んだ。
あまりアルコール類は得意ではなかったけど、嘗めるだけなら…。
なし崩し的にこんなトコにきてしまった事を、ちょっと後悔して。
だいたい、デートってなんだ? ”お礼に食事”でいいじゃないか。
僕は、何を考えているかまったくわからない強引な男の顔を、じっと見つめた。
実際、変な出会いだった。
何者なんだ。僕よりは年上に見える。
「和希、焼き方知ってる?」
「知ってますよ! お好み焼きくらい!」
からかうように聞かれ、僕はムキになった。
二人で向かい合って座っていると、座高が違いすぎる。
僕は小さくて、子供になった気分だった。
熱くなった鉄板の上に、お椀の中でかき混ぜた具材を一気に流し込んだ。
「あ、ばか!」
「えっ!?」
じゅわあっと音を立てて、泡が脹れあがり、湯気がもうもうと立った。
前が見えなくなる。
「ああっ」
……鉄板から溢れる!
僕は慌てて、ヘラで鉄板を突いた。
とたんに、手の甲に激痛が走った。
「あっち!」
「──おい、ちょっと貸せ!」
僕からヘラを奪い取ると、鉄板中に広がった生地の成れ果てと焼けていない具を、手早く鉄板から片付けた。
「火傷したのか? 見せろ!!」
席を立つと僕の横に座り込んで、火傷した手を捻り上げた。
「痛っ……」
「早く冷やせよ、ばか!」
氷の入ったグラスを掴むと、みみず腫れを起こし始めたそこに、くっつけた。
「うっ……」
滲みて痛い。
「何やってんだよ。知らないなら知らないって、言えばいいだろ?」
そう言われて、僕は泣きたくなった。
「焼き方を知らないんじゃないよ! 取った器がお好み焼きの方だと思ったんだ!」
怒られて、怪我して、非情に情けない気分だった。しかも、出た言葉は、言い訳だ。
「……そんなに、ばかばか、言わないでください!」
これが一番悔しい。涙目になった僕を見て、哮さんが眉を寄せた。
「……すまん。悪ぃな」
コップの角度を変え、常に冷たいところを患部に当てながら、そう言った。
「────!」
さっきまで、何したって謝んなかったのに!
僕の息を呑む気配で、哮さんが振り返った。
僕は掘りこたつに脚を突っ込んで、後ろの襖に背中を凭れていた。
右側は直ぐ壁だ。焼き方の説明がぺたぺた貼ってある。
そして左側で屈み込んでいる大きな身体。
追い詰められたような狭い隙間で、思わぬ至近距離に、たじろいだ。
「───和希」
吐息と共に、囁かれた僕の名前……。
カッコイイ釣り目が、窺うように僕を斜めに見上げながら、顔が……唇が近づいてくる。
「ん……」
また、唇を重ねていた。
今度は、さっきみたいに強引じゃない。
そっと触れたかと思うと、体温を確かめるように、優しく押しつける。
何度かそうして感触を楽しむと、舌先が僕の唇を舐めてきた。
「ぁ……」
身体がビクンとしてしまった。
火傷した手に添えていた大きな掌が、僕の肩を掴む。
身体を起こして、上から舌を入れてきた。
真上に向かされた僕は、目を瞑ってそれを受け容れた。
「────んん」
舌を吸われ、口内を撫で上げられ、僕の身体は熱くなっていってしまった。
さっきと同じ感覚が僕を襲う。
───腰が疼く。
僕は怖くなって、顔を振った。
こんなトコで、……しかも男同士で、変な気分になるなんて!
「……和希」
また囁くと、哮さんの手が僕のズボンをまさぐり始めた。
「…………!!」
やっ! ……なにしてんだ!
僕は慌てて、その手を押さえた。
火傷がズキズキ痛い。
「あっ……」
阻止した手を掬い取られ、哮さんの舌先が火傷の場所を舐め上げた。
ぞくり、と背中を何かが走った。
───嫌だ、怖い……
自分の感覚を持て余して、僕は首を横に振った。
「そんな、泣きそうな顔、すんな」
また、そっとキスをされた。
「んん………、っでも……」
「和希、かわいい。ほんとに女の子みたいだ」
「!!」
なにそれ……。ちょっと傷ついた。じゃあ、ホントの女の子、誘えばよかったじゃん!
「──やめろっ」
低い声で、………殊更男っぽく、抗った。
「…………」
動きを止めて、僕を見つめる哮さん。
「ほんとに、いや?」
目を細めて、口の端を上げる。
「……………」
悔しいけど、………見惚れる。
短い髪が、精悍さに磨きを掛けている。
僕なんかが、こんな風に短くしたら、きっとモンチッチみたいになってしまう。
だから僕は、男らしくしたいのに短くできない。
「あ……」
耳の横の髪の毛を掻き上げられた。
「……耳も小さいんだな。出せばいいのに」
だって、……だから………
「あ、やぁっ───!」
首を斜めに反らして、逃げた。
耳の中に舌先を入れてきたからだ。
「しーっ」
首筋にキスをしながら、人差し指を唇に当てられた。
「ん……」
襖一枚隔てた向こうは、違う客室だ。
うっかり大きい声を出すと、変な声が隣に聞こえてしまう。
僕は、涙目で哮さんを見つめた。
哮さんの頬も少し紅い。
さっきの日本酒くらいで酔ったりは、してないだろう。
「静かにしてな。すぐ済むから」
僕は、何がどう済むのかよくわからないまま、小さく頷いた。
また大きな手が、僕のズボンのファスナーに伸びた。
前が解放されて、ちょっと息をつく。
クスリと、耳元で笑う気配。
「和希、……かわいいな」
「ぁ………」
下着の中に、手が入ってきた。
僕の身体は、気持ちに反して熱くなってしまっていた。
でも、こんなの、やっぱりおかしい。
素直に受け容れられない感情が、表情を曇らせた。
「……泣くなよ」
「!! ……泣いてなんか、ないっ」
「じゃあ、……怖い?」
「…………」
僕は、小さく頷いた。
「はは、ホント、かわいい」
頭を抱えて胸に押しつけられた。
僕の心臓は、上と下に2つあって、同時にドクンドクンと激しく脈打っていた。
首から、かぁっと熱くなっていく。
「あ………」
下の熱いのを指を丸めて包むと、上下に扱きだした。
「────!!」
う………うわぁ………っ
抱きしめてくる腕にしがみつくと、声を殺した。
こんなこと、他人にやってもらうもんじゃない。
恥ずかしさが、脳裏で色々な言い訳をし始める。
でも……
「んっ、……あぁ、哮さん……」
気持ちいい……。キスみたいに優しかった。