カバン返して。
 
10.
 
「え? 2ヶ月の出張ですか?」
 
 
 次の日、俺は上司に呼び出されていた。
「ああ。西方へ、大規模に手を伸ばすことになった」
「……2ヶ月って」 
「中間地点に居を構えて、あちこち回るんだ。先に小林が行って、売り込んでいる。荻野には試作のメンテとアフターケアで、バックアップを頼む」
 
「──────」
 
 断れる筈なんかないけど、ハイとも言えなかった。
 ”荻野に適任だって、社長がお前のこと、えらく買ってたぞ!”
 ──そんな上司の誉め言葉も、今は耳に入ってこなかった。
 
(2ヶ月は長いな……) 
 今までは独り身だったから、ちょっとした出張は気軽に受けていた。
 でも……
 言われた瞬間から、俺の頭は、千尋でいっぱいになった。
 ──アイツ、どうしよう。
 
 まだ時々、俺のカバン、引っ張り出してる。
 多分、問い合わせも続けてる。
 もし、俺のいない間にカバンが見つかったら……。
 いやそれより、千尋を……2ヶ月間、独りに?
 
 千尋はあの悪夢を、見続けている。その度に俺まで巻き込まれた。
 ……繰り返される、悲鳴と快感…
 飛び起きて泣き出す千尋を、俺は情けなくも勃起したまま、抱きしめて宥めた。
「──────」
 デスクに戻ると、腕を組むふりをして、身体の震えを押さえた。
 
「荻野! 2ヶ月だってな、来週からだろ?」
「耳早ぇな、竹村」
 物流課のヤツだ。以前、コンビを組んだことがあった。
「ああ、オレも今聞いてきた。オレは半月後に、追っかけ納品」
「…そうか」
「向こう行ったら、先攻の小林に、堅い数字ヨロシクな! って伝えてくれや」
「……ああ」
「? 元気ないな。どうした?」
「いや、なんでも…」
「しっかりしてくれよ! お前と小林の肩に掛かってんだからよ!」
 俺の背中を叩くと、竹村は自分の持ち場に戻っていった。
(はーっ…)
 後ろ姿を見送りながら、溜息をついた。
 竹村の言葉で、もうプロジェクトが動き出していることを、実感していた。
 俺独りがうだうだしてる訳には、いかなんだ───
 
 ───アイツは、どんな顔するんだろう……?
 
 
 
 
 
 
「え~っ! 出張ですかぁ」
 のーてんきな声だった。
「…………」
 食後の茶を啜りながら、千尋は目を丸くしている。
 メシの時に言うつもりだったが、グリーンの箸と茶碗で嬉しそうにヒョイパクしている姿に、切り出せずにいた。
 
「2ヶ月って、長いですねー……」
 さすがに驚いて、目が丸いままだ。
「……ボク、カバンが見つかるまで、留守番しててもいいですかぁ?」
 その後は、心配そうに上目遣いで、そんなことを言い出した。
 
 ──やっぱり、カバンか。
 俺はなんとなく、腹の底が重くなった。
「───」
 返事をしないでいると、千尋は目をうるっとさせて、慌てだした。
「カ…カバン見つかったら、ちゃんと出ていきます! こっそり居着いてたりしませんからぁ!」
(────!)
 突然、重かった腹が熱くなった。
 ムカツク感情が、湧き上がってくる。
「チッ!」
 掴んでいた湯飲みを、乱暴にテーブルに叩き付けた。
 向かい合う千尋の身体が、ビクッと震えた。
 
「お前、俺がいない間でも、カバンが見つかれば出て行くのか」
「……え?」
 普段、口癖のように出て行けと言っていたのに、俺の口は違うことを言い出していた。
「他に言うことねぇのかよ! 俺がいてもいなくても、何もカンケーねぇ訳だな!?」
「…………!!」
 驚きで見開かれた目が、俺を凝視した。
 
 俺はコイツを置いて行くのが、心配だった。
 毎晩独りで泣く姿が、容易に想像できる。
 それに……俺は、千尋と離ればなれになるのが嫌だった。
「来週、いきなり俺がいなくても、お前は平気なんだ! ああッ? 部屋さえありゃ、いいんだなッ!」
 
「…………」
 俺の突然の怒りに、目を丸くした顔は、ぴくりとも動かなかった。
 俺が怒鳴り散らすのを、収まるまでじっと聞いていた。
 そして、ゆっくりと目を細めた。
 
 
 
「……しかたないじゃ、ないですか」
 そう言って、微笑んだ。
 
 
 
 ────!?
 
「ボク…本当に、間借りさせてもらってる……だけなんです」
 口の端を上げたまま、ゆっくりと喋る。
「ヤダとか、寂しいとか。……言う権利なんか、ないんです」
 そう言って、あの寂しい笑顔で、ニッコリと笑った。
 
 ───千尋ッ!
 
 胸が、苦しい……
 閉め出してしまった時、”お帰りなさい”と微笑んだ、あの笑顔だった。
 
「……あっ!?」
 俺は立ち上がって千尋の背後に回ると、その身体を抱きしめていた。
「てっ……徹平さん!?」
「千尋…」
 硬直している体を抱きしめたまま、肩口に顔を埋めた。
 あたたかな体温が、頬に伝わってくる。
 サラサラした髪が、俺の首にもまとわりつく。
 
「悪ぃ」
「…………!」
「俺が悪かった。……だからそんなこと、言うな」
「…………」
「お前は、居候なんかじゃねぇから。……そんな顔で、笑うな!」
 
 なんでこんなに、胸が締め付けられるのか、判らなかった。
 千尋の微笑……。
 我慢して、耐えに耐えてきたのだと思う。
 コイツの受けた仕打ちを考えれば、言いたいことも言えなくなるだろう。
 でも、そうじゃない。
 もっと、心の渇く何かがあると……
 
「おかしいと思っていた。お前のそれ、……何にも期待しない笑顔だったんだな」
 困ったようにちょっと寄せる眉。上がりきらない口の端。
 何よりも、双眸が翳る。
 それは、我慢なんかじゃなかったんだ。
「そんなふうに、自分なんてって……そうやって、いつも諦めていたのか」
 望み通りにならないことを、もう、哀しみもしないで。
 あの時もそうだ。
 ここがあるだけで、俺が帰ってきただけで、それで充分なんだってか……?
 氷のように冷たかった指先を思い出すと、改めて胸が痛くなる。
 
「そんな哀しい生き方、するなよ!」
 抱きしめた腕に、力を込めた。
 
 千尋は小さく呻いて、首を垂れた。
 長い髪が顔を隠す。
「…………だって」
 蚊の鳴くような小さな声が、絞り出される。
 
「……だって、もう、何もなかったんです。……家族を失った、ボクには」
「…………」
「みんなを返して。お父さんお母さんを…優美を返して…それ以外の望みなんか、叶わなくたっていい」
(─────!!)
「独り、生き残った罰だとさえ、思いました」
「千尋……」
 
 ……泣いてる。
 震える声は、時々裏返って掠れた。
「すごく辛いこと沢山だったけど、ボクはその場が改善されるより……」
 はたはた、涙が落ちていく。
「……あの空間に帰りたかった」
 俺の腕に。
 千尋の膝に。
 透明な滴が、落ちていく。
「ずっとずっと、祈ってました。お願い…お願い…もとに戻してって」
 
「だけど……そんなの、叶うはずもなく……だから、しょうがないって……諦めるしか無かったんです」
 
 
 ……助けのこない日々を、救いのない現実を…恨みもしないでか……?
 俺の眼にも熱いモノが溜まっていた。
 
「でも…お前、逃げ出してきたんだろ」
「……」
 声も掠れる。…情けねぇ。
 胸が締め付けられて、ちゃんと喋れない。
「お前は、生きてんだよ。ちゃんと、生きたいんだ」
 
 千尋が俯いていた顔を、上げた。
「……てっぺー…さん」
 ゆっくりと振り向く。
 乱れた長い髪の隙間から、涙でぐしょぐしょになった目で俺を見る。
 どうしたらいいのか、迷っているような視線だった。
「もっと自分に我がままになれよ! やりたいことはちゃんと言えッ、諦めんなッ!」
 
 
 それだけ言って、俺はもう我慢が出来なかった。
 抱きしめている一回り小さな体が、もの凄く熱くて。
 震え続ける唇が、視線が、堪らなく愛しい。
 
「んっ……」
 顎を取って強引にキスをした。
 舌を入れると、肩がビクッと震える。
 
 抑えきれない……
 泣かせてしまうかも、しれない。……そう思って、我慢してきたけど。
 
「千尋、ごめん」
 そう言って俺は、抱きしめていた体をイスから引きずり下ろすと、後ろの畳に押し倒した。
「……ぁっ!」
 苦しそうに、息をつく。
 俺は構わずに、ジャージの前を開けてシャツをたくし上げた。綺麗な胸が晒ける。
「て…徹平さん……」
 細く震える声が、シャツの向こうから聞こえた。
 
 
「千尋……嫌なら、やめる」
 
 
「…………」
「俺も、我慢してたんだ。でも、もう抑えきれない。……お前が選べ」
 言いながらも、俺は千尋の肌に手を滑らせた。
「……ッ」
 鎖骨、胸、脇腹、腰…と、撫でていく。
 こんなにちゃんと見るのは、初めてだった。真っ白い綺麗な肌に、興奮する。
 ジャージから出ている腰骨の際まで丁寧に撫で上げて、上に引き返していった。
 身体がその度、硬直して震えるけど、千尋は抵抗しなかった。
 胸に顔を寄せて、色付く可愛い突起に唇を近づけた。
「……っ」
 息を感じただけで、ぴくっと隆起する胸筋。
 そっと舌先で、先端に触れてみた。
「あっ…!」
 ビクンと全身が跳ね上がって、声が漏れた。
 ツンと硬く尖ったそこを、舌先で弄りまわす。
「あっ、…ぁああっ……!」
 肩をビクビクさせて、千尋が喘ぐ。
 想像以上の反応に、俺は煽られた。
 両腕を押さえつけて、豆つぶのようなそれを唇で啄み、舌と前歯で甘噛みした。
「あぁ……、んぁあ……」
 右と左を交互に愛撫する。
「あ、あ、ぁああぁっ! ……はぁあんっ……」
 鼻に抜けるような声で喘いだ後、千尋はすすり泣き始めた。
 
 ────!!
 身体をずりあげて、顔の見える位置まで動いた。
「…………」
 顔を横に背けて、唇を噛み締めている。
 ぎゅっと瞑った目は、睫毛が濡れて光っていた。
 唇も、睫毛も、小刻みに震えている。
「───ちひろ…」
 その唇に、そっとキスをした。
 
 
 
「お前が、好きだ」
 
 
 
 強張っていた横顔が、薄目を開けて、俺を見た。
 
 
「お前を抱きたい」
 
 
「…………」 
 瞳が揺れる。
 ……何も期待しない、双眸。
 自分を主張して、他人を非難することなど、決してしなかった。
 菜穂とは正反対のこの目に、俺は癒されたんだ。
 
 希望や欲求を一切捨てて、ただ見つめている。
 ───だから、こんなに透明なんだ。千尋の瞳は。
 
 
「お前のその目……愛しい」
 
 
 胸が掻きむしられるようだ。
 こんな目をしてないで、心から笑って欲しいと思った。
 俺が笑わせたいと、思った。
 
「ん……」
 もう一度、濃厚なキスをした。
 温かい舌が応えてくる。絡め返して、俺の中にも入ってきた。
「ん……、んっ……」
(スゲ……キスだけで、身体が熱くなる)
 頭を押さえ、背中に腕を回し、腰を擦り付けた。
 
 
「……はぁ」
 銀色の糸を引く、赤い唇。
 頬も紅く染めて、千尋は上目遣いに俺を見た。
「可愛い…」
 堪らず、頬に軽くキスをした。
 
「……徹平さん……嫌わないでくださいね」
 千尋が呟くように、いつかと同じ様な事を言った。
 泣きそうな口元。
「なんでだ?」
「ボク……すごいから」
 そう言って瞬きした目は、すっごい色っぽかった。
 
「嫌われるの、怖かった」
 おずおずと、俺の首に腕を巻き付けてきた。
 
 
「ボクも、徹平さん……大好きです」
 


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