真夜中のページ・ボーイ
 
13.
 
 でも、そんな呻き声なんて、序の口だったんだ。
 
 僕はベッドの横で、絨毯に寝っ転がらされたまま縛られていた。
 斜め上の視界の奥にある扉。
 
 
 
 その中の狂気を、逃げることも、耳を塞ぐことも出来ずに、体中に浴びせられた。
 
 
 
 
 真っ暗な部屋がその口を閉じた後、中から男と老人の会話する声が微かに響いた。
 内容までは判らない。
 そのうち、狼の遠吠えとも、野獣の叫びとも付かない、恐ろしい呻き声が聞こえてきた。
「…………!?」
 地の底を這うような低い呻りから、夜闇を震えさせるような雄叫びに、変わっていく。
 首を絞め殺される時の、断末魔のようにさえ聞こえた。
 それが何度も何度も、繰り返される。
 
 それは、あの老人の……喘ぎ声だった。
 
 ─────!!
 
 両耳を塞ぎたくなるような、恐ろしい声。
 あんな老体が、あの男に何かさせている……? そして、あんな声を上げているなんて……!!
 胸が悪くなりそうなこの状態に、吐き気を覚えた。
 
「……くっ!」
 縛られた両手を、揺すって解こうとしてみた。
 しっかり結ばっていて、ビクともしない。
「───くそ…」
 狂喜してる老人の顔、そんなのまで声から伝わってくるようで……。
 ……イヤだ………嫌だ! ………聞きたくない…!!!
 目を瞑って、首を横に揺り続けた。
 頭の中で叫んで、恐ろしい雄叫びを、僕は必死に耳から遠ざけた。
 でも怖すぎて、実際に叫ぶ事なんて、できなかった。
 
 
 おぞましい咆吼は、長い間続いた。
 “その時”に向けて、喘ぎが高まっていく。
 煽られて胃の中のモノが上がってくるのを、僕は必死に抑えた。
 最後は、本当に断末のような声を上げて、事切れたように静かになった。
 
 
「…………」
 あまりの静けさに、却って違和感が湧くほどだ。
 暫くして、ゴトンと室内で何かの音が響いた。
 扉の開く気配。
 
 ……………。
 
 目線をやると、男が出てきた。
 唇に手の甲を当てて、グイと拭っている。
 
 僕は怖くて、何も言えずに見上げていた。
 
 男はベッドの横の屑籠にペッと唾を吐き出すと、苛ついたように眉を寄せて僕を見下ろしてきた。
 
「なんで、テメェが泣いてんだよ」
「……………」
 
 怖くて……
 それを言うことも出来ずに、ただ泣いていた。
 
「……うぜぇ」
 
 
 
「──あっ…!」
 くくり付けられたその場所で、絨毯に転がされたまま、僕はまた犯された。
 口付けがとても気持ち悪かった。
 乱暴な腰使いが、すごい痛い。
 
 ──やめ……痛い……!
 
 ちっとも反応しない僕に、余計怒りをぶつけられた。
 恐怖に完全に呑まれた僕は、萎えたまま勃起することは無かった。
 
「もう帰れ! お前、つまんねえ!!」
 
 僕の中でイクだけイって、動けないでいる僕を室外へ放り出した。
 まだ着乱れたまま……。
 こんな場面を誰かに見られたら、あの男だって困るはずなのに。
 
 
 廊下は板だから、硬い。
 土足だから汚いし……。
 でも……立ち上がれない。
 そのまま、シャツの前を掻き合わせた。
「…………ッ」
 その手で耳を塞いで、額を膝に押し付けて蹲ってしまった。
 
 まだあの野獣の叫びが、耳に付いている。
 あそこから出てきた時の、あの男の眼……
 痛いだけの挿入……
 
 身体が震えて、立ち上がるどころじゃなかった。
 散らばった靴も集められないまま、僕は長い間そこに蹲っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 どうやって部屋に戻ったか、覚えていない。
 朦朧とした記憶は、身体の痛みから、あれが現実だったことを思い知らされるばかりで。
 僕はあの恐怖の時間を、無意識に消そうとしていた。
 
 
 
 気が付いたら、朝の目覚ましが鳴っていた。
「……………」
 ……シャワーも浴びずに、布団に入っちゃったんだ……
 あちこちが気持ち悪かった。
 特に、口内……
 うがいだけは、した気がする。
 でもやっぱり気持ち悪い。
 
 熱いシャワーを浴びて、歯をガシガシ磨いて、出来る限り全身をさっぱりさせると、早朝ミーティングに出た。
 
 
 
「うわ……須藤、おまえヤバイぞ?」
 おはようの挨拶もなく、開口一番、野立先輩はそう言った。
「……そうですか?」
 曖昧に笑うしかなかった。
 
「狩谷に言ってやるから、少し休めよ」
 
 ────!!
 
「い──いいです! ……そんな!」
 
 そんなの、あの人に火を点けるようなものだと思った。
「子供じゃないんですから、先輩! ……休みくらい、自分で取れますよ!」
 笑い飛ばすと、先輩から逃げるべく、踵を返した。
 これ以上心配してもらっても、ヤブヘビな気がして……。
 
 
 
 
 
「須藤君、お茶しよう!」
 
 ぼーっとエレベーターホールの前で立っていると、いきなり腕を引かれた。
「! ……朝倉さん……」
 振り返ると、綺麗な顔が僕を心配そうに見つめていた。
 耳の下で切りそろえたサラサラ髪を揺らして、小首を傾げる。
「そんな様子じゃ、今すぐって仕事も、入ってないでしょ?」
「あ……ハイ…」
 
 
 朝倉さんは休憩室に入ると、熱いコーヒーを淹れてくれた。
「……苦いです…」
 僕は一口すすって、舌を出した。
「それくらいの方が、呆けたアタマには、いいんじゃない?」
 ふふ、と笑って、自分は普通のブラックを飲んでいる。
「…………」
 しょうがないから、ありがたく苦いそれをすすった。
 
「……須藤君に、ヘルプ頼んだの……悪かったかな」
 伏し目がちに、朝倉さんが言い出した。
 ……沈んだ声。
 
「そんな……僕、ここに来れたことは、とても感謝してます!」
 それは本当だった。
 違うホテルを知れたこと、しかもホテルマンの内では憧れられている、“不夜城”だ。
 そして、三つの館は想像以上に個性的で、それぞれをやりくりするのは、ベルマンの血が騒ぐってくらいだった。
 
 だから、朝倉さんにそんな声を出して欲しくなかった。
 後悔させたら、僕のせいだ。
 
「ヘルプが問題なんじゃ無いんです!」
「……………」
 じゃあ何? と、穿った目で見つめてくる。
 
 ───そりゃそうだよな……僕の様子は、確かに尋常じゃ無い。
 
「…………」
 言ったって、しょうがない。
 どう言えばいいんだろう。
 僕も目を伏せて、コーヒーに集中した。
 
 ───あ、そうだ……
 
「あの……」
「…………?」
「№101のお客様って、大作家……ですよね?」
「……そうよ?」
「どんなもの、書いてるんですか?」
 老紳士を見る事ばかり考えていて、どんな人物か……何の作家なのかなんて、興味が行かなかった。
「やだ、須藤君。そんなことも知らなかったの?」
「だって、……誰もそこまで、教えてくれなかったです」
 笑われて、僕はちょっと拗ねた。
「……そうなんだ、ごめんね。……須藤君も名前、知ってると思うけど。歴史小説の第一人者。中埜御堂 都(なかのみどう みやこ)よ」
 
 ───えっ!?
 
 すまなそうに言う朝倉さんを見つめて、僕は固まってしまった。
 だって、その名前は余りに有名すぎて。
 有名というか、あって当たり前みたいな。
 歴史と言えば、その人。教科書の例文にも使用されるくらいだ。
 小説、時代考証、エッセイ、ドラマの脚本に至るまで、歴史関係と言ってその人の名前が出ないことは無かった。
 学生時代は、参考文書として何度世話になったことか。
 だから僕は………
 
 
「まだ……生きてたんですか!?」
 
 大声で、聞き返してしまった!
 
「ちょ! ……しっ! ……須藤君、なんてこと言うの!!」
 
 目を丸くした朝倉さんが、腰を浮かせて、両手を振り回した。
 僕も迂闊だったことを悟って、両手で口を塞いだ。
「……だって、教科書代わりのような歴史小説だったから……ずっと昔の人が書いたのかと思ってたんです」
 真っ赤になりながら、言い訳した。
 
「まあ、ね。……そうとうなご老体なのは、確かだけど……」
 朝倉さんも、小さな声で苦笑いをした。
 
「だから、もうずっと別館に籠もられていて……塩崎君が原稿の受け渡しなどを、しているのよ。締め切り過ぎてるのに、差し替えたんですよ、なんてね」
 ふふ、と笑う。内緒話を共有するみたいに。
「……そうなんですか」
 ……そんな、大役……。
「老人の話相手に、なってあげているみたい。……可愛がられてるわね」
「………………」
 
 ──それだけ……?
 つい、昨晩の事を思い出した。
 塩崎さんは夜毎、あそこで行われていることを、きっと知らない……。
 
 老紳士は、塩崎さんには、あんなこと要求しないんだろうか。
 老人があの中庭で最初に見せた、優しい眼差しと、新米の僕を心配してくれる心遣い……。
 そして、塩崎さんの嬉しそうに笑った、可愛い顔が思い浮かんだ。
 
 ………ほんと……可愛がられてるんだろうな。
 ───あの人は、ヨゴレなんかじゃ……ない……
 
 何故か、胸がズキンと痛かった。
 
 
「…………須藤君?」
 黙り込んでしまった僕に、また心配そうに眉を寄せる。
 マネージャーだって、わかってるんだ。
 ……塩崎さんを差し置いた、僕指名のルームサービス。
 そのせいで、確執が起こっていること。
 
 でも、そんなのはもう解決したんだ。
 塩崎さんは笑ってくれた。
 
「何でもないです。僕、平気です!」
 残った苦いコーヒーを、ぐいっと煽った。
「たった2ヶ月しかないんです。……残りの日数、大事に仕事しますね」
 苦すぎて、舌がもつれた。
 そんな僕を、朝倉さんは笑ってくれた。
 
 
「さあ、じゃあ早速、お仕事に戻りましょう!」
 その急かせっぷりで、本当はマネージャーも休憩時間じゃ無かったことに、気が付いた。
 …………心配してくれたんだ。
 その気持ちに、胸が熱くなった。
 
 
 責任を感じてる朝倉さんに、負担を掛けてはダメだ!
 
 
 僕は心を強く持って、仕事に支障が出ないよう集中した。
 いつもの笑顔を取り戻して。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ───それなのに…………
 
 
「よ……張り切ってんな」
 
 午後2回目の、本当の休憩時間。
 狩谷チーフが入ってきた。
 
 
 その時、僕は迂闊にも、休憩室に一人だった───
 
 


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