真夜中のページ・ボーイ
 
19. もう一つの 罠
 
 旧館に戻ってワゴンを片づけると、シャワーを浴びに行った。
 
 
 ──────!
 浴室の鏡に映った自分を見て、驚いた。
 全身に、紅い痣が散っている。
 
 “俺のモノになれ”
 ……アイツは、そう言っていた。
 
 首の絆創膏にも目がいった。それを剥がすと、うっすら消えかけた赤黒い痕。
 ……ここだけ、チーフのものだ。
 イヤだな…嫌悪と一緒に、ズキンと胸に痛みが走った。
 
 …………アイツは?
 ───レンは、誰のモノ……?
 
 顔色を失ったまま、あの部屋に入っていくレンが、脳裏に浮かんだ。
「─────!!」
 蛇口を勢いよく捻ると、シャワーの音が床のタイルを叩いて室内に響きだした。
 僕はその雨の中で、両耳を塞いでしゃがみ込んだ。
 立てなくて……
 いつまでも、蹲ったまま泣き続けていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
「……………」
 目覚ましを止めて、なんとか起きる──いつもの朝。
 
 最近はやっと慣れて、起きたときにココがどこか、判るようになっていた。
 天井からぶら下がる裸電球を、ぼんやりと眺めた。
 
「─────」
 
 両腕を持ち上げて、目を覆った。
 昨夜のことを思い出してしまい、胸が痛くなって……
 困っていた、レンの顔が浮かんだ。
 僕を見つめて……何か言いたそうに、唇を動かした。
 
 あの時、僕はやっと気が付いたんだ。
 お互い、名前を教えてなかったってこと……
 知ってると思ってたから。僕のフルネームなんて……。
 
 
 ──キケン、キケン……
 僕の中で煩いほど鳴り続けていた、真っ赤なダブル・シグナル。
 それはもう、点滅も警報も止めていた。
 今は、あの哀しく揺れる琥珀色……ダーク・イエローばかりが脳裏に浮かぶ。
 停止線を越えてしまった僕は、もう止まれない。
 
 アイツのエリアに飛び込んだからには、もう、直進するしかないんだ……
 
 
 
 
 
 
「マネージャー、織部宗司ってお客様、知ってます?」
 早朝ミーティングの後、朝倉マネージャーに早速訊いてみた。
 
「ええ、別館に泊まってる方よね?」
 
 ────!!
 
「? ……どうしたの?」
「え……いえ……」
 
 こんなにも、あっさり認められるなんて。
 いくら探しても出てこなかった、謎の男の所在……。
 
 表向きの世界では、違うキーワードで存在していた。
 ただ、それだけだったんだ。
 
「……どんな方ですか? そのひと」
「──須藤君、別館のこと、あまり興味持っちゃ駄目よ」
 
「───は?」
「この間から、№101のこと何か言ってるし。織部様のことまで、聞いてくるなんて」
 
 暗く陰った瞳で、小首を傾げながら僕を見る。
「……どういう……」
「泊まっていることすら、シークレットのお客様も多いの。あんまり立ち入ると、危険だから……」
 
 ───!
 身体がビクッと、反応してしまった。
 “危険”
 朝倉マネージャーの口から、そんな言葉が出るとは、思いもしなかった。
 
 怯えた僕の顔をもう一度覗き込んで、朝倉さんは微笑んだ。
「……ごめんね、脅しちゃって。でも、覚えておいてね」
「……はい」
「織部様は……“織部宗司”様は、織部財閥の創設者、織部昭造様のひ孫に当たる方で、御自分が使っていらっしゃった部屋をそのまま、可愛いひ孫のために、一部屋借り切ってるって噂よ」
 
「……織部財閥!?」
 
「ええ…私が知ってるのも、これくらい。あまり表には出てこない話題だから……」
 
 ─────。
 
「須藤君、元気になったね」
 言葉を無くしてる僕に、朝倉さんは急にそんなことを言い出した。
「えっ……」
 ───元気? ……今日も寝不足で、かなり辛いけど……
 洗顔の時、鏡の中の僕は、泣きはらした酷いカオだった。
「……そうですか?」
「うん、目がぱっちり開いて、顔が明るい」
 ふふ、と微笑んでくれる。
「…………!!!」
 僕は再び言葉を無くして、赤面した。───そんな顔になってたんだ、僕……
 我ながらゲンキンなもんだと、ちょっと情けなくなった。
 昨日も一昨日も、ヤってることは同じ。ただ、アイツをちょっと、正面から受け入れただけだ………
 
 
 
 
 ───それにしても……
 
 マネージャーにお礼を言ってフロントに走りながら、また一つ抱えた疑問を反芻した。
 ───織部財閥……僕でも知ってる、その名前。あまりいいイメージは無い、傘下には暴力団の名前も聞く。
 
 でもそれより……アイツの仮名が、実在する人物の名前だったってことに……驚いた。
 老人が付けたって、言ってたくせに……!!
 せっかく掴んだと思った、あの男の正体……どこまで行っても、得体が知れない。
 
 独りぼっちの、寂しい狼……
 
 ……そう見えたんだ。僕には……
 だから、僕は……
 
 
 
「須藤! ……なんて顔してんだ!!」
 ───えっ?
「顔洗って、出直してこい! そんなザマで、客の前に立つな!」
 声の方を見ると、狩谷チーフが目を吊り上げている。
「おまえ、ほんとヤバイって。……早く行ってきな」
 横にいた他のベルも、肘で僕の脇腹を小突いた。
「……………」
 言われている意味が飲み込めず、ろくに返事も出来ないまま、踵を返した。
 
 
 たったさっき、朝倉さんに元気になったって、誉められたのに……!
 通路を走りながら、ギュッと唇を噛んだ。
 ───アイツ……レンは、ウソを言ったのか……?
 僕に全部を見せたんじゃ、なかったのか!?
 そこにショックを受けていた。
 
 ───財閥の……ひ孫……?
 僕の中のセンサーが、また不可解さを訴えている。
 ───そんな身分の奴が、あんな状態に…?
 聞かされた名前の情報と、ヤツの様子が、どうしてもかみ合わない。
 
 ──変ダ、変ダ…何かがオカシイ──
 
 
 ……いったい何が真実なんだよ……!!
 
 
 
 言われたとおり、真っ青になっていた僕の顔は、見れたモンじゃなかった。
 顔を洗ったって、どんなに仕事が忙しくたって、強張った僕の心は、晴れはしなかった。
 何かが挟まったような不快さを抱えて、一日が過ぎていった。
 
 休憩時間は、自分の仮眠室に戻った。
 遠くて面倒くさいけど、休憩室に……あそこにいるのはもうイヤだったから。
 もうチーフに触られたくない。脅されるのも、視姦されるのも、それ以上も……何もかも、嫌だ。
 
 
 
 自室で休んでいる時も、頭は堂々巡りを繰り返していた。
 答えの出ない疑問を、勝手に反芻し出す……。
 僕が拘っているのは、レンを信用出来ないかも──ということだった。
 そんなことない──という気持ちが、別方向から突き上げる。
 
 交互に点滅していた、ダブル・シグナル。
 今また、僕のセンサーは二つの臭いの間で揺れていた。
 
 その中でふと、新しい疑問が湧いた。
 ──レンの……名字は?
 
 僕は、愕然とした。
 付けたのが、下の名前だけだったとしたら……
 朝倉さんの言ってる事が、本当だとしたら……?
 
 ひと月何百万という別館の一室を、十年以上借り切る、二つの勢力───
 織部財閥ならココだけじゃないはずだ。世にその名前有りと知らしめるように、財界の話題に上がる。
 中埜御堂都だって、僕はお札に印刷されててもおかしくないと思ってたくらいだ。物書きってだけじゃない…その名の持つ、権利の幅と言ったら……
「──────」 
 レンを取り巻く背後の大きさに、背筋がゾッとした。
 
 
 でも……だったら、どうだというんだ。
 寝返りを打って、仰向けになった。
 
 “雁字搦めだろ”
 制服のことをそう言った後のアイツの、皮肉に歪めた顔。
 “悪趣味だよな”
 最後は、そう吐き捨てていた……。
 
 僕を拘束して何かしようとする時、辛そうな顔を一瞬見せたり──
 あれが、僕に変な違和感を起こさせたんだ。
 
 自分を見てるようだったのか……
 ───雁字搦めなのは……レンなのか……? ……この“不夜城”に……
 
 
「……………」
 
 溜息と共に、目を瞑った。……目眩を起こしそうで。
 閉じた瞼の裏側に、暗く翳る…琥珀が揺れる───
 
 
 
 
「………レン」
 声に出したら、目尻からも涙がこぼれ落ちていた。
 
 


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