chapter4. behind time- キミに追いついて -
1. 2.
1.
天野 恵
これを見たとき、俺は“てんのめぐみ”と読んでしまった。
すごい名前だなあ。
クラス表が配布された紙の、一番上に書いてあったから、嫌でも目に付いた。
霧島丈太郎──俺の名前はそのすぐ下にある。
この二つの名前が並んでいるのは、なんかちぐはぐな気がした。印刷間違いのような。
始業式の日、校長の長い話を聞いたあと、新しい教室に入るとすぐ、奥に座ってる女の子と目があった。俺をじっと見ている。
なんだ? 妙にじっと見てくる。
ふわふわのショートカット。目がまん丸で、顔も丸い。色白でほっぺただけ赤かった。とくべつ着飾ってないけど、かわいいコだなと思った。あとは特に気にしないで、自分の席に着いた。
ところが、集団ではしゃいでいる女子のうちの一人かと思っていたそのコが、こっちに歩いてきて、俺の前に座った。
「よろしくね」
そう、挨拶してきたのが天野恵だった。
俺は思わず、じっと見つめてしまった。さっきのお返しみたいに。名前通り、女の子みたいだし、ふっくらしたほっぺたがいかにも幸せそうに見えた。
次の日、下駄箱で平林に絡まれている天野を見かけた。平林の悪名は違うクラスにも聞こえていたから、俺はよく知っていた。短気ですぐ殴る。
俺は急いで、天野に近寄った。あっと思った瞬間、天野が突き飛ばされていた。さらに殴りかかろうとしていたので、その間に体を割り込ませた。
平林のパンチを掌で受け止めて、睨み付けてやる。いつもねーちゃんと格闘をしてる俺は、このぐらいなら平気だった。
「……霧島君」
後ろから、驚いた声が聞こえる。
俺の名前、覚えてんだ。俺もなんとなく驚いた。ぼんやりタイプだから、まだ他人のことなど全然覚えてないかと思っていた。
「…チャイムが鳴るぞ。さっさと教室行けよ」
天野だけ、先に行かせた。
俺は平林に釘を刺しておきたかった。今後クラス内で暴れられると、うっとうしいからだ。
「俺と、いっせいのせで、殴り合わない?」
よく、ねーちゃんとやるゲームだった。平林は力比べだと思ったらしく、乗ってきた。
「膝着いた方の負けだよ」
「おう! お前なんか、体中床にくっつけてやる!」
腕をぶんぶん回している。俺は笑いながら叫んだ。
「いっせいの、せっ!」
平林は馬鹿正直に、パンチを出してきた。
俺は叫ぶと同時に、片足のかかとを軸に身体を90度回転させて、平林の真横に並んだ。それと同時に脇腹に一発入れた。相手が近づいてくるから、とてもやりやすいんだ。
不意打ちの当てっこ。しょっちゅうやってるから、俺は負けない。ねーちゃんには、なかなか勝てないけど。
平林はグエッと呻いて、床にへたりこんだ。
「俺の勝ち」
そう言い捨てて教室に走った。
教室に入ってみると、真ん中の机で、天野の周りには女子でいっぱいだった。
昨日もそうだ。これじゃあ、平林じゃなくてもむかつくヤツがいると思う。特に一番かわいい滝下が仕切って、天野を守っている。天野はそれに任せて、まるっきり他人事のようだった。
俺もちょっとムカついて、天野が何か言いたげに俺を見たとき、目を反らしてしまった。でも、自分の席に戻ってしょげている目の前の背中が可笑しくて、話しかけてやった。忠告もかねて。
「天野さ、あんま女子と仲良くしてない方がいいよ」
「え?」
鈍そうな天野は、やっぱりニブかった。なんで平林を怒らせるか、分かっていないみたいだ。ついでに、ちょっと思ったことを聞いてみた。
「天野ってさ、自分で何とかしようと思わないの?」
「?」
「人に助けてもらってて当然て顔で、そこにいるから」
「! …なに、何それ! 別にさっき助けてなんて言ってないよ! それにお礼を言おうとしたら…」
あ、と思った瞬間、
「ハイ、そこまで。喧嘩なら後でやんな」
先生に頭をごつんとやられていた。朝の会で大声出すからだ。しょうがないヤツだな。
番号順に座ってる俺たちは、先生に一番近い席だったんだ。
でも、そのあとがちょっと気になった。なんか先生にまで絡まれてる感じ。天野の点呼をとった後の様子が何か変だ。
次は俺なのに、先生はちっとも俺を呼びやしない。それどころかこっちを見もしない。なにやってんだ、センセ!
俺は手を挙げて叫んでやった。
「せんせーい。俺、出席番号2番の霧島丈太郎。きりしまじょうたろうであってまーす!」
クラス中から笑いが起こった。俺、こういうのけっこう上手い気がする。
そしたら天野のヤツ、何を思ったかくるっとこっち振り向いて、真面目な三白眼つくって、
「ありがとう、霧島君!」
だって。
俺は思わず噴き出してしまった。そんな顔して礼を言うヤツがあるか。俺は笑いが止まらなくて、げらげら笑っていたら、天野まで笑い出した。
お、ちゃんと笑えんじゃんか。
結局俺も、先生にげんこつ貰ってしまった。
昼休み、俺は天野を誘って校庭に出た。なんとなく、ちゃんと話してみたかったから。教室じゃうるさいし、帰りはさっさと帰ってしまうらしいから。
実はこのぽわんとしたお子ちゃまが、朝、平林に言い返していたのが意外だったんだ。ちらっと見ただけだけど、ちゃんと喰ってかかって、あいつを怒らせていた。
昨日見ていた限りじゃ、教室の中でふわふわただよってるタンポポの種みたいだったのに。
「さっき言ったのはさ、下駄箱でのことじゃなくて、普段の天野のこと。天野って、もっと自分で何かしたいとか、こうでなきゃイヤだとか、ないわけ?」
どうも自分のイシがないように見える。
友達も自分からは作ろうとしないし。かといって、来るモノ拒まずで、選んでいるわけでもないみたいだ。
俺はただ、天野が何を考えているのか、知りたかった。天野は花壇に腰掛けて、うつむいたまま俺の話を聞いている。あどけない顔が、ほんとに女の子みたいだ。
そしたら天野から、変な答えが返ってきた。
「カツニイがいれば、他に何もいらないから」
ん? カツニイってなんだ?
「はあ? 誰、カツニイって」
「8歳上の兄貴」
うへ、8歳上!? すごいな……って、アニキって言ったな今。俺はまた噴き出してしまった。
「兄貴! そんな言い方すんだ、天野って! 似合わない!!」
俺は笑い転げた。この顔で“兄貴”はないと思う。俺だって“ねーちゃん”としか呼ばしてもらえないのに。
そしたら
「とうさんもかあさんもそう言う。似合わないって!」
とふくれっ面になった。その顔が、めちゃくちゃかわいい。
その口が、今度は、父さん、母さん……俺もうダメ、ツボに入っちゃった。
「とーさん! かーさん! はっはっはっ!! 似合わないっ!!」
思いもよらないギャップだった。幼い声で、これがまたいっちょ前な発音でさ!
「そんなに、にあわない?」
しょげた顔で聞き返され、さすがに俺も笑いが収まった。涙を拭きながら、その顔を見る。そしてやっぱり思う。
「うん、似合わない!」
むっちゃムリして背伸びしてるとしか、思えない。でも、俺の返事にその幼い顔を、またムクれさせている。
同い年にはとても見えない。そのほっぺたを突きたいな~なんて思いながら、訊いてみた。
「なんで? なんかすごいムリしてるように、聞こえる」
ちらと、こっちを見て、また下を見る。
「…克にぃが、そう呼んでるから」
……ああ、真似ね。俺はやっと納得した。
でも、8歳上の兄弟って、どんなだろう。俺には想像も付かなかった。3歳上なだけで、ねーちゃんは、すげー大人だ。
「克にぃはすごいよ。親の変わりに、全部僕の事を面倒見てくれる」
ん? 親の変わり?
「僕は、余計モノだから、親がホウキした僕を克にぃが全部引き受けてくれたんだ」
「…放棄って。…へえ、以外」
なんだそれは…穏やかじゃないな。話しを聞いていると、ただの幸せなお子ちゃまじゃない感じがした。
「天野って、両親にめちゃめちゃ甘やかされて、何も一人でできないお坊ちゃんかと思ってたんだ」
だから、ぼんやりしてるのかと思ってた。
「え~、なんだよそれ」
口を尖らせる。こんなしぐさが、とても甘えっ子に見える。
「恵なんて名前もさ、幸せじゃなきゃ付けられないよ」
普通そうだろ?
「家族はね、恵まれてたよ。だけど僕が恵まれてるわけじゃない」
天野は下を向いて言った。
「キライだ。こんな名前」
……よくは分からないけど、よっぽどの事があるらしい。
こんなよく似合う恵まれた名前を(しゃれにもならないよ)キライだなんて言うんだから。
「…俺はいいと思うけどなあ」
なんとなくそう言うと、じっと眉間にしわを寄せて睨み付けてきた。けっこうスネ坊なとこもあるらしい。俺は心の中で笑った。こいつ、かわいいなあ。
でも一つだけ、はっきり分かったことがあった。天野の表情を動かすのは、兄の話をした時だけだった。
「克にぃには、めちゃめちゃ甘やかされてるからね」
なんて、最後には極上の笑みを浮かべたのだ。
それに気が付いてみると、天野はとてもわかりやすいヤツだった。
ほんとに「カツニイ」以外、いらないんだ。話すのは、カツニイのことだけ。他には何も興味を持たなかった。カツニイみたいになりたい。繰り返しそう言う。そう言って笑う天野の笑顔から、俺は目が離せなかった。
学校に送り迎えして貰ってるって知った時は、マジでビックリした。だから、さっさと帰ってたのか。
カツニイが来た! ってすっ飛んで校門を出て行く。
どんな兄なのか、俺も見てみた。背がすごく高くてハンサムだった。8歳も離れてると、兄弟っていうより、親戚のお兄さんて感じだ。ちっとも、似てないし。
天野はともかく、兄ちゃんの方は(こっちも天野か)大人なんだから、もうちょっとそういう風に振る舞った方がいいと思う。
立ってるだけならカッコイイけど、天野が飛びつくと、ウチのじいちゃんみたいに甘い顔になった。
「ヨウスルニさ、僕が思うのは……」
天野が喋っているのを聞いていて、時々噴き出しそうになる。
「天野って言葉がちぐはぐ」
俺は笑い出してしまった。
「え?」
話しを中断されて、きょとんとした顔をしている。
「なんかさ、時々やたら難しい言葉使うだろ、今みたいな、大人っぽい言い方。そうかと思えば、ひとのこと君付けしないと呼べないのな。平林にまで君付けしてさ」
あんなに虐められてんのに。お人好しにも程がある。
だいたい、“要するに”って、意味わかってんのか?
「うん、オトナみたいでしょ。克にぃが色々教えてくれるから自然に」
嬉しそうに笑う。ほっぺた赤くして。
「また克にいかよ!」
天野のことを話してるのに、最後は克にいの話しになってしまう。
この会話のループにいい加減じれたけど、これを我慢しないと、コイツと会話はできなかった。
天野が、何となく変わったのは、あいつの誕生日が過ぎてからだった。
10月が誕生日の天野は、俺より半年、年下だ。
それまでは、ただ幼い子供みたいだった。だいぶ自己主張もするようになったけど、仕草や行動はただ動いているだけの、たどたどしい感じで。
……だけど。
10月に入って、俺はなにかが変だなと思うようになった。
いつものように側にいて、気配が違うんだ。
振り向いてこっちを見たとき、なぜかハッとした。顔を寄せて喋る時の、声にもドキリとする。
とくに変わったと思うのは表情だった。ふと、目線を上げたり、微笑んだりする口元が、違う。
俺は、天野の変化がなぜなのか知りたかった。
「なんか天野、最近変わったよね」
俺が言うと、目を一瞬輝かせて
「そう?」
なんて、悪戯っぽく笑う。
「ほら、そんなとこで笑わなかった。もっとどうでもいいって感じだった」
「そうかな」
さらに嬉しそうに笑って、いつも最後ははぐらかす。前は絶対そんな反応しなかった。
それに、クラスの奴らや、先生への態度まで変わっていった。何がどうって訳じゃない。ただ、ハッキリモノを言うようになったというか、動きにメリハリが付いたというか。漂っていただけの小舟が、自分で動き出したような。
天野は、日が経つごとに変化していった。
何処がとは、どうしてもはっきりわからない。俺は気になって、天野の動きをじっと見てみた。
……目線かな。
天野の目線を追ってみる。
先生と話している時、女子と話している時、俺の横にいる時。
以前はただクリクリ動かして、映るモノを見ているだけだった。克にいのことを話している時だけ、輝いた。
でも、今の天野は、真っ直ぐ見据えてくる。瞳の奧まで覗き込む様に、真っ直ぐに。そうすると、明るい茶色の瞳に光が差してきらきらして、綺麗で、見つめていられなくなる。
誰もがたじろいでいることと思う。先生でさえ、体を後ろに反らすことがあった。
「天野」
俺が呼ぶと、体ごと振り返っていたのに。
視線が俺をとらえ、ゆっくり顔を傾け、体が柔らかくしなる。
そして、微笑む。
……もう、ただの幼いだけの子供じゃあなかった。