chapter5. stop time 時間停止- 刻印と切望と -
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天野 晴海(あまの はるみ)
それが僕の好きな先輩の名前。
僕の就職した会社の先輩。先輩って言っても部署は違うし、九つも上だけど。社員食堂で見かけて、一目惚れしたんだ。
あちこちに訊いてみたら、野球チームを自分で作ってるんだって。早速僕も入れてもらっちゃった。別に野球が上手い訳でも、好きって訳でもない、ただ先輩の近くに居たかったんだ。
でも先輩は既婚者で、子供もいた。克晴って、かわいい男の子。先輩によく似ていて、試合には必ず連れてきていた。
それに、最近また一人産まれたんだ。授かりもの、恵まれものという感謝をこめて、恵君。女の子みたいに可愛い。
恵君の面倒はもっぱら克晴が見ている。よく出来た子だ。
で、チームの中の誰よりも、僕は克晴を自分の子みたいに可愛がっていた。先輩が僕の気も知らないで、よくマイホームに招待してくれたから会う機会も多かったのだ。仕事のことやチームの試合の段取りなど、話しは尽きなかったしね。
時々奥さんが留守で、変な気を起こしそうになってしまったけど、何もしたことはなかった。嫌われるのが、一番恐くて。
だから、先輩にはとうとう気持ちを打ち明けることが、出来なかった。
しょうがないよ、あんな可愛い奥さんと子供達がいるんだもの。
それに野球。
先輩の人生に足りないモノはなかった。僕が入り込む余地なんて、なかったんだ。
先輩のことだから、子供を9人作ってもう1チーム作るのかと、何年も前に訊いてみたことがあった。そしたら、そのつもりだったけど、奥さんにめちゃくちゃ反対されたって苦笑い。それに克晴がいるから。あの子一人で充分だって。
その時の笑顔ったら、もう。僕はまた好きになってしまった。
……切ないなあ。
今日も先輩んちに、お呼ばれしている。リビングで今度の試合の日程表と、にらめっこしていた。
「う~ん、今度はいよいよメンバーが足りない…」
大学時代からの仲間がほとんど、と言うこのチームは、結婚、就職、転勤で、様変わりしつつ、欠員が増えていった。
「その点、雅義は安心だよな、まだ若いし」
なんて言ってくれる。僕は先輩が望むなら、結婚なんかしない。
「あら、だめよ、そんな約束しちゃ。マサちゃんだって、今年もう27歳でしょ? 付き合ってる娘を大事にしなきゃね」
お茶を持ってきてくれた奥さんが、横やりを入れた。先輩が結婚した歳でもあったから、当然かもしれない。付き合ってる娘なんて、いないんだけどな。
「約束なんてさせてないぞ」
先輩が口を尖らせている。僕はそんな先輩の顔を、じっと見つめた。さっぱりと短い髪で、日に焼けた黒い肌。細い顎とすっと伸びた鼻梁。少し吊った細い眼が優しく微笑む。
そして、背が高くて細いのにガッシリした身体。野球で筋トレしてるから当然なんだけど、凄くいい体をしているのだ。
「雅ちゃん、明日もあの子お願いね。いつもありがとね」
奥さんが僕に一言かけて、寝室に引き取った。
克晴はいろいろな習い事をしている。以前は奥さんが送り迎えをしていたんだけど、恵君が生まれて、手が離せなくなっちゃったんだ。だから、僕がその役を買ったってわけ。
その時、先輩がふう、と溜息をついた。
「? …どうしたんですか?」
「ん? ああ…。克晴がな、今年で10歳になるだろ?」
「ええ、受験勉強、よくやってますよね」
「それがな、どうしても私立には行かないって、我が儘言ってんだよ」
僕も驚いた。なんでも父親の言うことをよく聞く、しっかりした子だったから。試合に来てもチームの誰とでも目を見て話す、行儀のいい子。手がかからなくて、みんなから褒められてるくらいだ。
「へえ、なんでまた」
「遠いのが嫌なんだと…。電車で通わなきゃいけないからな」
「…まあ、子どもですからね。友達も近所だろうし」
僕は、克晴のカタを持ちながらも、一言いってやらねば、とか思っていた。先輩を困らせては、いかん。
次の日、塾を終えた克晴を助手席に乗せて、僕は帰路についた。
「なあ、中学…私立行くの嫌なんだって?」
率直に訊いてみた。横目で見ながら、話しかける。
「…はい」
いつもハキハキしている克晴が言い淀んだ。
「? …どうして?」
何かよっぽどの理由があるように思えた。
「…遠いのが、嫌なんです」
「でも、お父さんは、私立に行ってほしがってるよね」
「……」
「キミを大切に思ってるからだよ。私立の方がいろいろ安心なんだ。将来性だけじゃなくて、環境そのものが…と言っても、難しくてわかんないかな」
僕は言ってから、苦笑いした。
「……分かってます。そんなの」
え?
僕はちょっとびっくりして、よそ見運転をしてしまった。
顔を克晴に向けて、まじまじと見る。
真っ直ぐ前を向いて、姿勢正しく座っているその子供は、今までとは違う眼をしていた。
意志を強く持ち、意見を曲げない視線。その目は、何かを思い詰めたように鋭く光っていた。
「………」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
玄関前で克晴を降ろした時、
「なんか知らないけど、…あんまお父さん困らせんなよ。もっとちゃんと説明すれば分かってくれるよ」
なんて、エールまで送って。
その時の克晴の顔を忘れない。
「はい」
って言いながら、少し笑った。困ったような、泣きそうな顔で。
ちっちゃい頃から見てたから、まだまだ子どもだと思っていたのに。その顔は、苦悩する一人の人間だった。
それから僕は、克晴を観察するようになった。面長で涼しい目つきは、やがて父親そっくりになるだろうと思わせる。背も伸びてきて、とてもしなやかな体付きになっていた。
概ねいい子なんだけど、どこか頑ななところがあって、その時の顔つきときたら、大人顔負けの、鋭い眼光を発した。
僕はだんだん、克晴が何に拘っているのか興味を持った。
「なあ、なんでそんなにお父さん、困らすんだ?」
何度となく訊いてみた。しかし、たいがいはぐらかされて答えになっていなかった。
でもあの日、いつもみたいに訊いてみた。塾の方針を決めなきゃいけないから、いい加減僕も先輩も苛立っていたんだ。
車を路肩に止め、ちょっとキツめに言ってしまった。
「いい加減にしろよ、後でわかって感謝することだってあるんだぞ! 今の生活を壊したくないってのは分かるけど、自分でどこまで判断できるってんだ。親の言うことは聞いとけよ!」
言ってから、しまったと思った。
小学4年生に向かって、何をムキになってるんだ僕は。先輩の困った顔が、僕をかなり苛立たせていた。
でも、その子供が、僕の顔を睨み付けてきて。
……その時、僕は相手が10歳なんて忘れるほど見入ってしまった。
頬を上気させ、怒りに唇を噛みしめる。眼は怒りと悲しみで潤んでいた。
子どもだから、だから苦しんでいるんだ。自分の意見が通らない。ただ子どもだから、というだけで。そのもどかしさとやり切れなさが、視線から伝わってくる気がした。
僕はその噛みしめる唇を、解いてあげたくなった。
なんでこんな顔をする様なことが? 何をそんなに思い詰めている? 相談にぐらい乗ってあげるのに…。
でも僕の頭は、思うだけでそんなことは口に出さなかった。体が勝手に動いていた。
「!」
いきなり押さえつけてキスをしていた。
克晴の身体がびくんと跳ねて、硬直した。シートベルトをしているし不意打ちだったから、簡単に押さえ付けられた。小さくて柔らかい生意気な唇に、僕は自分の唇を押し当てていたのだ。何を言っても無駄な気がして、強引に開かせたかった。
でも、柔らかさに驚いて、僕はすぐ克晴から離れた。
……僕、なにしてんだ!?
狼狽して、後は何も覚えていないくらいだった。とにかく送り届けて、逃げるように家に帰った。
───先輩に言い付けられる…どうしよう、先輩に嫌われる!
僕はその事ばかりが心配で、翌日会社に行くのがとてつもなく恐かった。
でも克晴は、誰にも言い付けなかった。
先輩はいつも通り笑顔で、週末の試合も何とか終わらせて、僕は送迎を繰り返す。次に会った時どんな顔をしたらいいか困ったけど、克晴が平然としているので、僕も何もなかったみたいに振る舞った。
でも、隣に乗っている少年の横顔を見ていると、僕はどんどん変な気分になっていった。
…もっとしてみたら、どんな表情をするのだろう。
…声を上げさせてみたい。
妄想が膨らむ。克晴が平然としている程、その顔を歪ませたくなった。
僕はとうとう実行してしまった。車を人気の無いところで止めて、いきなり克晴に襲いかかった。
「───!」
声もなく克晴の唇は、僕に塞がれた。
びっくりして眼を見開いている。この間と同じ柔らかい唇、この行為がなんなのか判っていない顔。顎を押さえて開かせて、舌を入れてみた。
「んんっ」
流石に、反応があった。僕は小さな舌を探し当てて、吸ってみる。
想像以上に柔らかい。ほっぺたが赤く染まった。単に緊張しただけなんだろうけど、僕にはもの凄く艶っぽく見えた。
始めの軽い気持ちとは裏腹に、僕の行為はエスカレートしていった。もっともっと吸い上げる。この生意気な口から、克晴のすべてを吸い取って自分に取り込んでやる。すべて僕のモノにしてやる。…そんな気持ちに変わっていた。
「んん──っ!」
凄い力で抵抗され、僕は我に返った。
とにかく顔を離す。その時の克晴の目が、僕の心臓を掴んだ。睨み付けてくる、芯が燃えるような強い目線で。揺るがない真っ直ぐな真っ黒い双眸。僕はこの目が好きだ。先輩とまったく同じ眼だ。
「……いい眼をしてる。…さすが先輩の子だな」
つい言ってしまった。
カッと頬を赤くして、克晴は益々睨み付けてきた。“父親”に反応した、そう思った。僕は咄嗟にずるい考えが思い浮かんだ。
「…こんなこと、言わないよね。単なる遊びなんだから。騒ぎ立てたら、お父さんに迷惑が掛かるだけだよ」
眼を見開いて、僕を凝視する。やがて、悔しそうに唇を噛みしめた。
「………」
何も言わない。言えないんだ。しばらく身体を震わせていたけど、無言で下を向いて唇を袖で拭った。
僕の心の奥底に、小さな火が灯った気がした。