chapter6. sealed time- 封印 期間 -
1. 2.
1.
宮村 雅義(みやむら まさよし)
俺はこの名前を、信じられない気持ちで眺めていた。
忘れるハズもない。
自分の身体に刻印を、嫌と言うほど刻みつけて、どこかへ消えた男。
ヤツが消えてから、もう6年も経っていた。父親に聞けば、消息はすぐわかっただろう。同じ会社の人間なんだから。でも、あえて聞く気はしなかった。
──俺に知って欲しかったら、自分で言えば良かったんだ。
あの冬の日。旅立ちの前夜、始めて知った事実。
『明日から僕、アメリカ。笑っちゃうだろ』
あいつは、何でもないふうに、いつも通りの帰り際にそんなことを切り出した。俺は言われた意味が瞬時には判らなかった。寒くて、口からは白い息だけが、絶え間なく出ては消える。
「よかったな克晴、僕から解放されてさ。じゃな」
ニヤッと笑うと、さっさと車を出して、行ってしまった。雪がかなり降っていて、車はすぐに掻き消された。呆然として、俺は何も言えなかった。
……アメリカ?
12歳の俺には遠すぎた。中学1年生が想像できる外国は、あまりにも遠い。訳が分からなかった。……初めて聞いたぞ、そんなの。
雪を踏みながらフラフラと玄関に入ると、いつも通り、母さんが出迎えてくれた。
「お帰り、きちんと雅ちゃんとお別れ出来た?」
なんて、訊いてくる。肩の雪を払ってくれた。
「2ヶ月も前から、内示が出てたもの。いろいろ話せたわね」
にっこり笑って、慰めるように俺の頭を撫でた。母さんは、俺がただ、父の知り合いのおじさんに懐いていると思っている。
……2ヶ月? 俺は、聞いてない。
蒼白になっているのは、悲しがっているからと勘違いされ、うっとおしくなった。ショックな振りをして、自室に閉じこもった。
実際ショックだった。別の意味で。
確かにオッサンが変になったのは、2ヶ月前くらいかも知れない。
普段は比較的優しい。鬼畜なところもあるが、基本は俺の身体に気を遣う。それがある時を境に、無茶をし出すようになった。やめろと言っても聞かない。足を開け、もっと鳴け、と乱暴に言い、酷いことをわざとしている気さえした。
最後の数日なんて、ほとんど強姦ざんまいだ。なに言ったって、叫んだって、聞きやしない。ただただ、俺の身体を掘った。
「……ふ…」
俺はメグに用事を言いつけて階下に行かせ、一人になった部屋で、床にしゃがみ込んでいた。
……それにしたって、なんで何も言わなかったんだよ?
今日だって“調教”という名の強姦を受けていた。その帰りがてらに、そんな重大な事を言うなんて。
しかも、明日からいない。……いない?
……いつ帰ってくるんだ。誰が俺の送り迎えをするんだ?
───おい! なんだよこれ!
頭の中で、整理出来ない疑問がグルグル回った。予定は2年だという、それだけは母さんから聞いた。
《よかったな克晴、僕から解放されてさ》
さっきの言葉を思い出す。
「はは……」
声に出して、笑ってしまった。まったくその通りだ。
……解放? ……俺は、自由なんだ。
もう塾の帰りに、あんな悔しくて恥ずかしい思いをしなくて済む。痛いことも辛い事もないんだ。そう思うと、心が晴れ晴れした。
……自由だ!
……もう、アイツの所有物じゃない!
俺は腹をかかえて、絨毯の上でゲラゲラ笑い出した。誰が聞いてたって構うもんか! 大きい声を出して、心のままに笑い転げた。
いきなり振って湧いた自由だ。心の呪縛、身体の拘束、それらの呪いが一気に解けた。
俺は、やっと普通に戻れるんだ!
その事実が信じられなくて、自分に笑いながら言い聞かせていた。
次の日に送迎の車が来なかったことが、その事実を告げていた。
…ああ、本当にアイツはいないんだ、と。
俺は心底小躍りして喜んだ。自分の足で電車に乗って、自分の足で帰ってきた。その自由が嬉しくて、堪らなかった。
───でも、自由になったと思ったのは、時間だけだったんだ。
週4日の、夕方からの塾帰りの2時間。この丸々3年間、オッサンに費やされてきたのだった。両親には、塾での教え足りないところを、あいつに教えてもらっていることになっていた。
“あながち間違ってはいないよな”、オッサンはそう言って笑っていた。
その時間は、確かに取り戻した。
でも、身体はそうはいかなかった。散々弄くられて、いいようにされていた。
ほぼ毎日だ。気持ちいいところを刺激され、前を扱かれ、射精に導かれる。望もうと望まざると、その選択権は、俺には無かったのだから。
自由になった今、誰もそれを強制しない。当然のごとく数日間、何もしないで放っておいた。
(……なんでだ?)
俺は、二段ベッドの上で、身体をまるめて自分を抱きしめていた。あんなに嫌だと思っていた。どれだけこの時が終わったらと願ったか。二度と嫌だと、毎日終わるたびに思った。……その行為を、身体が欲している。
(────ッ!)
腕に力が篭もる。
こんなの嘘だ! アイツのせいだ、アイツのせいで、俺の身体はこんなになっちゃったんだ!
増悪が脹れ上がる。オッサンに対して恨みが沸いて止まらない。どうしていいか、まったく判らなかった。俺は自分でしたことなど、一度もなかったんだ。
今日は具合が悪いからと言って、中学校を休ませてもらっていた。学校は休んでも、恵は迎えに行かなければ…。そろそろ、保育園のおやつの時間が終わる。
あと2時間…。
──2時間。
俺はぎくっとした。そのキーワードは…。
《ホテルの休憩が、なんで2時間なんだろうな。そうでなきゃ、半日か一泊だろ? 急に1万円越えるんだぜ。僕なんか、もっとゆっくりしたい。あと1000円払ってもいいから、3時間がいいな》
オッサンがぼやいていた事があった。
その頃は、そんなこと言われても意味が分からなかった。料金も時間管理も、全部あいつだったからだ。
《でもま、2時間あれば、万事おっけーなことはできるよな》
にやりと、俺を見て言ったもんだ。
そうだ…今の内に、処理しちゃわないと……
俺は下着の中に右手を入れた。でも、触れるのに戸惑う。
《僕が初めて自分でやったときはね、好奇心とプライドがごちゃ混ぜになって、なかなかできねーの。触れられねーの。でも、最後は好奇心が勝った》
そう言って笑いだしたオッサンを思い出した。
あれは、“理屈じゃない物理的欲求”てやつの説明をしてくれた時だ。
俺が身体の変化のことで、オッサンに縋った時、話してくれた内容の一部だった。
──そうか、…これがそうなんだ。
自分が望まないのに、身体が欲する。物理的欲求って、つまり出しちゃえばいいって事なんだ…。
《いつか、身体と頭が一致して、ああ、そう言うことかと納得するんだ》
…………。
なんだ、これは?
なんで俺、あいつの事ばっか考えてんだ!
アイツの言葉、笑った顔、知識、行動…。自分の中は、オッサンで埋め尽くされている…。
俺はぞっとした。離れても縛られるなんて!
ふざけるな! ……嫌だ、嫌だ!
あいつを頭から追い出すように一生懸命振った。
あんなヤツ、ヤルだけヤって、俺を捨てやがった! あんなヤツ…!
ほっぽり出された。そう思ったんだ。
なんの説明もなく、いきなり消えた男。
あの関係に、ちゃんとした決着を付けずに。
怒りが湧いて、どうしようもなかった。
ふざけんな! ふざけんな! ふざけんな!
あんだけの事して、こんな身体にしやがって、これからの事も言わず。
……なんだったんだよアレは。……なんで俺にあんなことしたんだ。……なんでなんの説明もしないで、行っちゃったんだ?
これから俺はどうしたらいいんだ?
ひとこと、説明が欲しかった。謝罪なんかいらない。
なにがどうなって、俺の前からいなくなるのか。俺はどうしてこんなことに巻き込まれたのか。どう、自由になったのか。
俺のわかる言葉で、あいつの口から聞きたかった。
俺はあいつの何も知らない…。
そこまで考えて、ふと思い至った。
あいつ、父さんが好きだったよな。
いつもいつも、試合の時も家にいても、ずっと父さんを見てた。鈍い父さんが気付かないのをいいことに。それは、ずっと前から知っていた。俺の顔を見ながら、父さんの事を思い出してることも。
でも、今まではその“好き”とセックスの行為が、俺には結びつかなかった。
……本当は、父さんと?
───そうか。
俺は父さんの代わりだったんだ。
そう思うといろんな事に説明が付く。
父さんに近づくために、俺に優しかった。父さんと一緒にいるために、俺の送迎なんて引き受けた。父さんとセックスしたいけど、出来ないから、代わりに俺をヤった。父さんと一緒に居られないなら、俺も必要ない。
俺はまた笑い出した。腹の底から、低く絞り出すような呻き声で。
─代わり─
それなら、なんの説明もいらないよな。“もうおまえ、必要ないから”なんて、言われないだけマシだったのかも。
俺は笑い続けた。あまりにも惨めで。
“何で俺なんだ”…だって? 誰だってよかったんじゃないか、利用できるなら!
そんな奴にいいようにされて…。俺だって、自分なりに悩んでたんだ。少なくとも理由はどうあれ“俺”を選んでいることは、“俺”を見ていることだと思っていた。
そうでなきゃ、あんなの続くわけがない。誰でもよかった、なんて冗談じゃない!
俺は、笑いながら泣いていた。涙なんて出ないけど。
心が痛い。
きっとこれは、心が泣いているんだと思った。
あまりにも悔しくて、悔しくて…。
俺が俺のために悩んだり、頑張ったりしたことを、全て否定された気がした。
……もういい。 あんなヤツ、俺もいらない。
もともと無理矢理だった。
俺だって、アイツじゃなくていいんだ。俺の考えで、俺の意志で、動いていってやる────
俺はそう決めたんだ。
それからの俺は、恵のためだけの生活になった。
自分の身体に、迷っている場合じゃない。恵を大事に育てる。あんな変な大人たちに傷つけられないように、俺が守る。
そのためなら、自分の時間なんかいらなかった。
私立の中学は遠すぎて、恵の送り迎えができない。だから絶対に嫌だったんだ。それは、オッサンに変なことされる前から思っていた。メグの事は全部俺がみるんだって。
悪戯されだしてからは、尚更だ。
でもそんなこと、父さんに言ったって、分かりはしない。それでちゃんと説明しなかった。
でも、オッサンに初めて問われた時「言えば分かってくれるから」って応援してくれた事は、嬉しかったんだ。だから、違う理由を用意して、父さんに説明した。
“説得”って形で解決できたのは…皮肉にもあれが、切っ掛けだった。
翌年、恵は小学校に入学した。
俺は中学で部活にも入らず、恵の終業時間には校門の前にいるようにした。部活も、友達も、俺にとっては茶番だったし。って言っても、俺の方が授業が長い場合も多い。それはしょうがないから、出来る限りの範囲だったけど。
自慰行為は、恵には絶対見られたくなかったから、部屋ではやらなかった。学校のトイレで、帰り間際に無理矢理。夜困らなければ、なんだってよかったんだ。
そうやって、恵に掛かりっきりで時間は過ぎて行った。俺は高校も一番近い所にした。ここはたまたま進学校だったから、親も文句は言わなかった。俺もまじめに勉強して、ばっちり入学できた。
そして、俺は16歳。
恵は8歳になった。
ぷにぷにしてふくよかだった顔の円みが、少しずつ削げていく。自分が泣いていることさえ判らないような小さな小さな赤ちゃんの、紅葉の手。無造作に振り上げては、俺の指を驚くほどの力で握っていた。その手が、今は自分の意志で動き、俺に抱きついてくる。
俺のまねをして、背伸びして、俺のことを“兄貴”なんて呼ぶ。そんなにムリして背伸びしなくても、どんどんお前は育っていっているよ。そう教えてやりたい。
急ぐことはない。今しかないこの時間を、もっと惜しんでほしい。
時間だけは総てのものに平等なのだから。
そんなふうに言うと、良く聞こえる。だけど、お前が育つということは、俺も同じだけ年を重ねる。そういうことだ。
お前の成長を見たい。
早く俺と同じ土俵に立て。
そう願ってしまう自分が、いざ恵がここまで来たときには、同じ距離を保ってさらに一歩先に、行ってしまっているんだ。
お前に何を望み、俺は何をしたいのか。
……雲の中を泳ぐように、全く先が見えなかった。
それでも、恵は「オトナになったよ」なんて言う。8歳のどこがだ。そう思いながら、もっと大人として扱ってしまった。
あんまり背伸びするから。心も同時なのかと自分の都合のいいように解釈して、いいようにしてしまった。
それは、アイツが俺にしたことと、どう変わりがあるのか…。“愛”というの名の下に、俺はその罪を封印した。
恵は俺の手の中で、身体を変えていった。
「ん……克にぃ…」
縋るように俺を見る。こんな顔をするのは、気持ちいいけど、素直に言えない時だ。俺は笑って、そこをもっと刺激してやる。
「ぁ……っ」
しなやかに肢体を仰け反らせて、喘ぐ。胸の尖りも、感じるようになってきていた。
「メグ…、かわいいよ」
そこにキスしながら言うと、吐息が熱く震えるのが分かる。俺の言葉で、声で、恵の体は喜ぶ。俺にはそれが、堪らなく嬉しかった。
9歳、10歳と成長していく恵と共に、俺の心も変化していった。
恵無しではいられない。寝ても覚めても、恵のことばかり考えるようになっていた。
学校で離ればなれになっている時が、一番苦痛だった。先生が何かしやしないか。“友達”というハイエナに襲われないか。
恵の周りから、何もかも排除したかった。