chapter6. sealed time- 封印 期間 -
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恵は時々、不思議そうに俺に訊いた。
「克にぃは、いいの?」
奉仕なんて言葉も知らないのに、俺の心配をしてくる。俺はメグを裸にしても、自分は一切脱がなかったからだ。
“男の生理の解消”と説明してあるこの行為は、俺にも当てはまるわけで。
「いっちょ前に、心配してくれんのか。ありがとな、でも兄ちゃんはへーきなの」
頭をぐりぐりとやってやる。
「わ。いっちょ前が、余計だよっ」
恵は乱れた髪を直しながら、唇を尖らした。その頬に掌を沿わせる。まだ少しふっくらしたほっぺたが柔らかい。
俺の様子に気付いた恵が、自らも頬を手に擦りつけながら俺の目を覗き込む。あどけない表情。邪気が全くない。
「……メグ、キスしていいか?」
俺は“兄弟”というハードルをある程度設定していた。これ以上しちゃいけない、その禁忌の中に、キスは入っていた。
でも……。
小さな唇。ぷっくりしていて、柔らかそうで、つい触りたくなる。唇を合わせるくらいなら、いいじゃないか。俺はハードルを少し下げてしまった。
「……きす?」
「うん、唇と唇をくっつけるの。結婚式でやってるだろ」
「あっ、あれ!」
10歳にして、キスをこれ程まで知らないのは、俺のせいだろう。ディープはともかく、そう言う話しは友達同士でするものだから。
「あれ、なんでするの?」
「……気持ちいいから」
俺は、そんなこと真顔で聞かれるとは思わなくて、不意打ちを食らった。答えなんか用意してなかったから、適当に答えてしまった。くっつけ合わせるだけで、気持ちいいもんか。でも、恵とならそれだけでもしたい。
「…そうなの?」
なんて、少し期待した顔で、恵は頬を染めている。
「はは、目をつぶって。メグ」
かわいくって、笑ってしまった。ちょこんと俺の前に座り、無防備に目を瞑って、唇を尖らせている。花嫁のまねかな? その仕草が堪らなくて、頬を両手でそっと挟んだ。
ゆっくりと顔を寄せる。息がお互いの顔にかかるくらい、近い。
───恵。かわいいメグ。俺の心がズキンと痛んだ。かわいい、だけじゃない。この心の底から湧き上がる思いは───
身体を屈めてそっと、唇を重ねる。ぴくっと、恵が反応する。柔らかい。想像以上の柔らかさだった。押し付けたまま離せない、頭がくらくらする。
「んんんっ」
苦しそうに、恵がジタバタし始めた。俺は名残惜しいけど顔を離した。
「ぷはっ!」
唇が離されると、水から上がった時のように、大きく息を吸っている。俺は笑い出してしまった。ベタすぎるだろ。
「メグ、鼻で息すればいいんだよ」
「あ、そうか」
目を白黒させながら、頷いた。
「……今度はそうする」
「うん」
笑いながら、ふと、今度もありか。嫌がられなかったな、なんてほっとした。
「克にぃ、聞いてる? それでね、霧島君が…」
また“霧島君”か。
俺は恵の言葉は一つ残らず聞く。漏らさないで全部聞いている。その中で、最近“霧島君”という名前がかなり頻繁に出てくるようになっていた。それが気になった。
「聞いてるよ。俺に似てんだろ?」
「うん。最近、ますますカッコイイの」
嬉しそうに、報告する。俺に似ているということで、興味をもっているらしいが。
俺にとってそれは幸なのか不幸なのか。そんな偽物はいらない。俺だけ見ていればいいんだ。その無邪気な笑顔を、鎖で繋いでしまいたかった。
「メグ、気を付けるんだぞ。親切な顔して、危険な奴はいっぱいいるから」
「うん。わかってるよ~」
また言ってる、くらいにしか聞いてない。わかってない。霧島の事を言っているのに。
俺はそんな理由から、修学旅行も行かせなかった。
小学5年生の11月上旬。他校とブッキングしないように、かなり遅い時期に行うようになったらしい。なんだかんだと両親と恵に理由をこねて、学校には嘘を言った。
「どうして? どうして行っちゃいけないの?」
これだけは恵も不服だったようだ。クラスで、学年中で、盛り上がっているのだから。小学校最後の思い出になるし。それは分かっている。俺だって、恵には楽しい思い出を作らせたい。でもそれ以上に分かっているのは、集団就寝、集団入浴などの“集団生活”だ。
この中で恵の無防備な身体が、どれだけの目に晒されるか知れない。恵のことを知らなかった奴までが、刺激されてしまうだろう。そんな中に恵を何日も放り込んでおけない。
修学旅行参加者について、最後の出席確認を取った日。
恵を迎えに校門に行くと、霧島が待っていた。
「恵は?」
「後から来ます」
キツい顔を俺に向けて、静かにそう言った。
確かに、俺に似ているかも。俺は不躾にジロジロ見てしまった。
普段、他のヤツの顔などちゃんと見ない。興味なんかない。でもこの、俺を睨み付けてくる視線は覚えがあった。俺もこんな目をしていたからだ。
「なんで、天野は修学旅行に行けないんですか?」
真っ直ぐ俺を見ながら、訊いてくる。本気で怒っているのが、わかる。
「……お前みたいのが、いるからだ」
俺は、そのまま言ってやった。
図星なのか、それとも更に怒ったのか。霧島の頬に紅が差した。
「天野から話しを聞く限り、問題はあいつじゃない、貴方だと思ってました」
「…………」
「やっぱり、そうだったんですね」
「……それが?」
俺はイラついた。なんだ、このナイト気取りは?
「天野を修学旅行に行かせてください! あいつ、ほんとに行きたがってるんです」
真剣に、懇願してくる。
「恵を、あいつ呼ばわりするな」
「!!」
赤かった顔が、真っ青になった。
「貴方はっ……! 門限どころか、放課後の自由時間も奪い、学校行事まで揉み潰す! 天野は、…天野は、貴方の人形じゃないんですよ!」
握り拳を震わせて、絞り出すように訴えてくる。
この年にしちゃ、たいした子供だと思う。恵と同級生にはまず見えない。
でも、誰に向かって物を言っているんだ。
「恵は俺のものだ」
「────!!」
霧島は今度こそ、顔面蒼白で言葉を失した。そこに、校門から恵が走って出てきた。
「克にぃ、お待たせ! あれ?」
俺たちを交互に見る。
「うわっ、やっぱり似てる! 二人して立ってると、絵になるねー!!」
「………」
さすがに、俺も一瞬言葉を失した。
でも恵の顔を見ていると、とげとげした心も、和らぐ。
「さ、帰ろう。じゃな、ナイト君」
恵の肩をぐいと引き寄せ、俺の体にぺたりと、くっつける。
「うん、じゃね、霧島君!」
恵の無邪気な笑顔と、横目で冷たく笑う俺を、同時に見送りながら、霧島はずっと突っ立ていた。見開かれた目は、悔しさでいっぱいに見えた。
俺も、あんな目をしていた。理由はまったく違うけど。
何かに反発し、何かを守ろうとする。それが上手く行かなくて、悔しい。そんな真剣な眼差。
俺は自分自身を、一生懸命守っていた。
あの時と同じ年になったんだな、恵は。
横を歩くふわふわ頭を撫でる。小首を傾げながら、見上げてくる恵。俺も、こんなだったハズだ。何も知らなかったんだから。
……とうとう追いついてきた。俺の人生が変わった…歪められてしまった年に。
来年で小学校を卒業する。恵もあの制服を着るのだ。
嫌でも成長を実感する。
どっちなんだ。来て欲しくなかったのか。もっと早く来てほしいのか、俺の側に。
ただ成長していくのと、俺の側に堕ちてくるのでは、意味が違う。
俺はようやく気付き出していた。
育った恵を、俺はどうするつもりなんだ? 本当に俺と同じにしてしまうつもりか?
俺の側に来るというのは、そういうことだ。
──駄目だ。俺でさえそれは駄目なんだ。
恵に触れていいのは俺だけ。恵を愛していいのも俺だけ。その俺でさえ、恵を自慰行為の対象にすら、したくなかった。
恵に欲情するなんて、神にも逆らうような、そんな神聖なものを汚すような気がしたんだ。
それだけが、俺の最後の防波堤。このタガが外れたら、俺は何をするか判らなかった。
恵を泣かしてはいけない。
だったら、霧島が言うように、普通に遊ばせて放置させておけばいいじゃないか。悪戯に囲って、世の中から孤立させて可哀想じゃないか。
分かってる。
分かってる、そんなこと。この手にできてしまえば、こんなことで悩まない。
だから…
愛してる。
愛してるって囁いて…、その意味が理解できるようになるまでは、待ってるんだ。
「克にぃ?」
恵が、俺の袖を引っ張った。
赤信号の横断歩道で立ち止まったまま、俺は考え込んでいたらしい。
「ん、何でもないよ。帰ろう」
「…? …うん」
「そう言えばさ、メグ。さっき何で遅かったんだ?」
「あ、修学旅行に行かない人達のミーティングがあったの。結構いたよ」
「へえ」
俺は意外だった。
「喘息や他の病気で、ドクターストップとか、おうちの事情とかね。その子たちだけで登校して、授業を受けるんだってさ」
「そうか、授業あるんだ」
「うん。出席日数にカンケーするからって。僕、休みかと思ってたのに~」
むすったれて口を尖らす。
「……メグ。旅行、行きたかったか?」
つい、聞いてしまった。ごり押しが罪悪感を掻き立てている。
「うん、まあね。でもその間克にぃと離れるほうがヤなことに気が付いたの」
きょろっとした目を俺に向ける。
「だから変わりに、克にぃと二人きりで旅行できたら、そっちの方がいかったのに~」
ほっぺまで、膨らんだ。
「はは、そうか、そんなのもありだな」
俺の心は霧が晴れたみたいに、軽くなった。
二人きりで旅行なんて、思いもつかなかった。
「よし、じゃあ今度、行こう。父さんの車借りて、何処までも走ろう。絶対な!」
俺は高校3年に上がった4月に18歳になっていた。運転には早く慣れておいた方が役立つという父さんの進言から、6月のゴールデンウィーク中には車の免許を取得していた。
「うん! うん! 行く! どこまでも! やくそーく!!」
恵は目をキラキラさせると、歌うように言いながら、走り出した。
よっぽど嬉しいのだろう。時々クルクル回転しながら。ポーチをくぐって玄関まで走っていった。
俺も、走り出したいくらい、心が弾んだ。
バイトして、お金を貯めなければ。……でもそんな時間はないなあ。実際は、時間はあるけど、恵の側にいられなくなる。自宅でなにかできないかな。
そんな浮かれ気分の時、あの葉書を見つけたんだ。
リビングのテーブルの上に、無造作に置いてある、一枚の葉書。そこに書かれている文字に目が留まったとき、俺の心臓も止まってしまった。
「……っ」
息ができない。足が動かない。俺の体は…心も、やっと、自分の物になったのに。自分じゃどうしようもないくらい、動かなかった。目だけがその文字に、釘付けになる。
宮村雅義
悪魔が舞い戻ってきた。
呪いの呪文を吐く、悪魔が……