chapter7. time limit- 平穏 終告 -
1. 2.
1.
「父さん、この葉書…」
声が掠れた。
夕ご飯の後、さりげなく聞いたつもりだった。恵は今、風呂に入らせている。その隙をついた。
「ああ、雅義だな。懐かしいだろう、克晴も覚えているな?」
「…うん」
──忘れるわけがない。
「海外転勤からやっと帰って来たという知らせだ。もう何年になるんだ? 2年と言ってたのに」
「そうだね」
俺は曖昧に笑い返した。6年。俺は毎年数えてる。
「お前はよく懐いてたからな、嬉しいだろう!」
さあ、喜べと言わんばかりに、笑顔を向けてくる父親。
父さんを恨んだことは無いけど、隣にいながら、世界のずれを感じる。こんな感覚をまた味わうのかと思うと、気分が悪くなった。
「帰ってきて、どうしてるの?」
「一応、栄転だったからな、本社では昇進のはずなんだが…まだ内示が出ていないらしい。通常はポストが用意してあって、そこに入るために戻ってくるんだが」
「ふうん。出世かあ、すごいね」
「ああ…、でも、時間が掛かり過ぎたんじゃないかな。父さんもよく分からん。あいつは行ったっきり、全く連絡一つ寄越さなかったからな…」
……へえ、そうなんだ。どうりで家族の会話の中でも、話題に上らなかったわけだ。俺は助かったけど。
もういないのに、あいつのためにニコニコするのは沢山だった。
「今度、みんなで会おうか。あいつを呼んでバーベキューでもしよう」
父さんがのんきに、そんなことを言い出した。
「!! ……いいよ。俺、忙しいし」
「どこがだコラ、恵の面倒もいいが、自分の面倒も見ろよ。今年受験なのに、大学進学の塾も行かないで」
お鉢が俺に回ってきてしまった。
「分かってるって、父さん。心配しないで。それより、本当に俺忙しいから、変なセッティングしないでね」
言うだけ言って、自室に逃げた。
────あいつが、帰ってきてる!
バタン! と、勢いよく扉を閉めて、そこに寄りかかる。立ってなどいられなかった。
ドアに背中を擦りつけながら、その場にしゃがみ込んだ。腕を体に巻き付けて、自分を抱え込む。爪が痛いほど締め付けて、掻き抱いた。
「………っ」
ショックで、声も出なかった。
どうなるんだ?
あいつ、来るのか? ここに。…まさか。6年も経ってるんだぞ。
俺はもう子供じゃない。俺に会いに来たりはしない?
その時俺は、はっとした。
───恵!
ちょうどそんな年じゃないか! あいつの好きそうな、10歳の男の子。
俺は足下から何かが這い上がってくるような、ゾワゾワした感覚に襲われた。あいつが恵を見たら、あいつがまだ父さんに拘っていたら…。
───俺じゃない。
恵に何をされるか、わからない!
俺はその恐怖に怯えた。
植え付けられた乱暴な仕打ちは、そう簡単に抜けるもんじゃない。俺は非力な10歳に戻ってしまっていた。
ガタガタ体が震え出す。
俺だって二度と嫌なのに! ……あんな事を、恵が強要されたら……!
その時、寄っかかっていた部屋のドアが、揺すられた。
「あれ? 克にぃ?」
ドアの向こうで、恵が声をかけてくる。風呂から上がってきたのだ。
「そこにいるの? ドアが開かない…」
俺は慌てて立ち上がり、ドアの前から退いた。
「ごめんごめん、ちょっと片付けものをして、ドアを塞いでたから。さあ、お帰り! 自分でちゃんと洗えたか?」
髪がびしょ濡れの恵を膝に抱え上げて、ベッドの縁に腰掛けた。
まだ毛先からしずくが滴っている。いつもは、俺が一緒に入って洗ってやる。今日は修学旅行の代わりだと言い聞かせて、一人で入らせたんだ。
タオルで頭をゴシゴシ拭いてやりながら、恵を見た。湯上がりで、真っ白い肌に紅が差し、とても艶っぽい。
「僕、一人で入ったよ!」
目をキラキラさせて、タオルの隙間から喜びを、覗かせる。
「ああ、すごいな。兄ちゃん、心配だったよ」
微笑みながら、労った。恵は、修学旅行ごっこを無邪気に楽しんでいるようだ。
単に葉書の事を訊く時間を作りたかっただけの、思いつきだったんだけど。
「克にぃ、寝るとき、枕投げしようね」
ふふふと、笑って、膝の上で跳ねる。
「こら、動くなって。まずこの頭どうにかしよう。これからは、もうちょっとしっかり拭こうな」
「うん、これから、もっと教えて! 僕、一人でやってみる!」
俺は頭を拭く手を止めてしまった。
一人で。…ひとりで?
全部自分でできるようになって、俺なんかいらなくなって。一人前の大人になる。
あいつに何かされなくたって、恵は俺の手から離れて行ってしまう。
俺は急に焦りだしてしまった。まだまだ、なんて悠長に思っていたのに、すごい身近に別れを感じてしまった。
「…ぼちぼち、な」
辛うじて返事をして、手を動かす。
その後は、枕投げに付き合ったりしたものの、何をしたか覚えていないくらい、動揺してしまった。
俺は一層、恵に時間を費やし、拘束した。
今まで許していた、“付き添い有りなら、外で誰かと遊んでもいい”も無しにした。俺自身が、外をふらつきたく無かったせいもある。
さすがに恵が文句を言う、不条理だからだ。でも焦っている俺は、きちんとした説明ができずに、最後は怒鳴ってしまった。
「兄ちゃんの言うこと聞いてれば、安全なんだよ!」
言ってから、しまったと後悔した。こんなことで恵の心が離れていったら、どうしようもない。
しかし、俺が怒鳴るなんてよっぽどのことだったからか、恵はおとなしく従った。
そして俺は、愕然とした。その言葉は、まさに、あいつが俺に言った言葉だった。
『いい加減にしろよ、後でわかって感謝することだってあるんだぞ! 今の生活を壊したくないってのは分かるけど、自分でどこまで判断できるってんだ。親の言うことは聞いとけよ!』
あの頃の俺はまるっきり子供扱いで、父さんに自分の主張がまったく通らないことでイラ立っていた。それなのに、そんなことを言われて、悔しくて悔しくて、あいつを睨み付けたんだ。それしか出来なかったから。
そしたら、いきなり襲ってきやがった。
──全てが、あそこから始まったんだ。
俺は繰り返そうとしているのか? 恵を拘束して、俺だけの物にするために…。
胸がチリッとした。そんなことしちゃいけないという恐れと、あいつは俺じゃなくてもよかったんだ、という腹立ち。
俺は違う。俺は恵を愛してる。
だから、同じ愚行にしても、俺にはそれが必要なんだ。
俺はどんどん自分を追い込んでしまった。
──あいつとは違う。
その怒りが、自分を正当化して、ある目標をもって動き出してしまった。
12月の終わり。雪もちらつくような寒さが続きだしていた。あの葉書を見てから、2ヶ月近く経っていた。だから、俺は少し油断していた。
「…克晴?」
不意に声をかけられて、振り向いた。恵を迎えに行く途中、家と小学校の中間地点。
誰か分からなかった。分かりたくなかった。そいつはスーツを着て、一見ただのサラリーマン。
「……克晴だろ? ……大きくなったなあ」
「────!!」
全身の血が逆流するかと思った。
心臓は動かない、止まってしまった。
その声、過去じゃない。
頭が動かない。
──どうしよう…………どうにかしなければ。
手も足もガクガク震えている。
……悟られるな!
でも、目を見開いて、凝視したまま動けない。
スーツの男が、ゆっくり近寄ってきた。俺の名を呼びながら、ゆっくり、ゆっくり…それは悪魔の、足音。
──動け、俺の身体!!
バッと、身を翻して俺は走った。
動け、動け!! 自分に叫びながら、とにかくその場から逃げた。
どれだけ走ったか分からない。走れなくなって、地面に派手にすっ転んでしまった。慌てて後ろを見る、アイツはいなかった。
──逃げれた…!
倒れたまま、ふう、と息を吐いた。
呼吸が苦しい、こんなに走ったことはない。まだ心臓も、固まったままだ。
”克晴”……いきなり俺の鼓膜を、直接叩いた肉声。
やつが本当に、そこに居る。
直面した現実に驚きすぎて。数メートルの距離間さえ、わからなくなった。
「あなた、大丈夫?」
眼鏡をかけた太ったおばさんが、声をかけてきた。路上で転んだまま動かないのだから、心配になったのだろう。
「あ、はい…。ありがとうございます、大丈夫です」
制服の汚れをはたいて、俺は立ち上がった。そうだ、しっかりしなきゃ。恵を迎えに行かなきゃ。
……何やってんだ俺。
真っ白だった。逃げるしかなかったことが、情けなかった。
がむしゃらに走ったから、とんでもない所まで来ていた。大きく回り道をして、恵の小学校にたどり着いた。
「克にぃ! どうしたの?」
校門前で待っていた恵は、俺の格好を見て驚いた。
それで俺も、気が付いた。右手の側面が血だらけで、その血が制服のあちこちに着いている。肘と膝が泥だらけ。顔も汗だらけ…たぶん、泥と血も付いてるだろう。
……ひどいな。
自分でも笑ってしまう様相だった。どれだけ狼狽して、取り乱したんだ…俺は。
「克にぃ、保健室行こう! 手当しなきゃ」
俺の左手をひっぱって校門の中に導く。
「だめだよ、関係者以外、立ち入り禁止なんだから」
「カンケイシャじゃん! 克にぃ、僕の保護者だよ! 平気! こんなのほっといちゃ駄目だよ!」
蒼白になって心配してくれる。ぐいぐいと手を引っ張る。こんな恵を見たことがなかったから、ちょっと驚いた。
「天野。俺、先生に言ってくるから、待ってな」
えっ。俺はビックリして声の方を見た。もう身を翻して、校内に向かって走っていく霧島。
……居ることに、気付かなかった。
「あいつ、霧島、一緒だったんだ」
「うん。いつも、克にぃが来るまでいてくれるよ。克にぃが見えると、じゃなって帰ってくの。今日はだいぶ待ったから、ずっと一緒だった」
「……へぇ」
いつもなら、むかついたかもしれないが、今日は助かった気分だった。恵が一人きりでいないで良かった。
「いいって! 連れてきて!」
校内から走り出ながら霧島が叫んできた。
「ほら、克にぃ、バイキン入っちゃうから、早く」
手を引かれるまま、校舎に入った。
久しぶりの小学校の校舎。
こんなに小さかったのか…。
下駄箱、廊下、窓、すべてがミニチュアみたいだ。
こんな所が、俺の世界の全てだったのか。