chapter16. attraction field きみをめぐる衛星
-引力に引かれて-
──天野 克晴。
モデルみたいに格好いい顔をしているやつだ。あいつが毎日、トイレでしているコトを知った時、オレは本当に驚いた。たぶん他の誰も知らない。
いつまでも開かない個室のドアを見ていて、なんとなくあいつを思い出したんだ。
「どうした? 山崎」
「あ? …いや、なんでもない」
「早く行こうぜ!」
「ああ」
オレはトイレを出て、新しい車のパーツとやらを見に、友人の背中に引っ付いて大学を後にした。
天野との出会いは、高校1年で同じクラスになった時だ。やたら綺麗な顔をしているので、目に付いた。気付くと、自然に目が追ってしまう。
クラスの女子も、もっぱら天野ファンばかりだった。噂話しに耳を傾けると、ミステリアスでいい、と騒いでいる。
実際、天野の人付き合いは不思議だった。人当たりが良く、イヤミな所がまるで無い。それなのに、一歩踏み込むような付き合いは、絶対しない。するするとすり抜けていく布ような…。そこに居るかと思えば、鏡に映っているだけだった…とか、そんな思いにさせられる空気をいつも纏っていた。
それでも、そんなに気にはしていなかった。いろんな奴がいるさ。
ただ、授業が終わると、あっという間に教室を走って出て行くのには、寂しいものがあった。あいつには、このクラスの誰も必要としていないんだなって。
オレは天野と“友達”になりたかったんだと思う。
天野にとって、学校中の誰一人を必要としなくても、オレはその中で特別になってみたい…。なんとなく、そう思ったんだ。
1年の1学期も中頃、オレは走っていく天野を追いかけてみた。何をそんなに急ぐのか、知りたくなったんだ。天野は下駄箱には向かわず、渡り廊下を突っ切って、第2校舎の特別室の方へ走っていく。
「?」
放課後はマイナーな部活動をやってる生徒がちらほらいるくらいの、人気のない校舎だった。その一角のトイレに、天野は駆け込んで行った。
「…トイレ? 何もこんなトコの使わなくたって……」
ひとり呟いて、オレは出てくるのを待った。でも、なかなか出てこないので、中をそっと覗いてみた。
……個室か。大きい方だから、こんなトコまで来たんかいな? アホなことを考えながら、隣の個室に何となく入った。
「───!?」
自分の耳を疑った。心臓が止まるかと思った。ほんの僅か。天野がいると思って、隣を気にしていなければ、気づかなかったほど…。
「ぅ……んっ…」
……呻き声…、いや、……喘ぎ?
オレの頭は、真っ白になった。
オレは仲間内じゃ早熟な方で、ロクでもない兄姉もいるから知識だけはあった。それにしたって、オレ自身はそんなのはまだ、あまり関係ない世界に生きていた。
ソレは、兄貴達の世界だった。
オレは思わず、片手で口を押さえた。
────なに……何やってんだ!? …天野のヤツ!!
カラカラとロールが回る音がして、洗浄音と共に天野が個室を出る気配があった。オレはそっとドアを開けて、隙間から外を見た。手洗い場で、下を向いて手を洗っている天野が、鏡に映っていた。その顔は、何事もないように涼しげだった。
──天野の秘密。
──アレを知っているのはオレだけ。
そのことがオレの中で、天野を身近にさせた。そうでもなきゃ、『飯も食わない、トイレもいかないアイドル王子様』を地で行くような天野は、あまりにも雲の上で掴み所がなさすぎた。
「天野、これ手伝ってくんない? 買いすぎちった」
購買でわざとパンを多めに買って、一つを天野に放ってみた。他の奴らと弁当を食い終わっていた天野は、両手で受け取って、オレを振り仰いだ。
「サンキュー! いいのか?」
初めて交わす言葉なのに、前から友達だったような空気。誰にでもそうなんだ、天野は。ずっと見てたからよく知ってる。想像通りの反応だったから、ちょっとつまらなかった。
でも、その笑顔を向けられると悪い気はしない。そのあとは、何かとオレから天野に声を掛けた。いつか天野が、自分から殻を破ってくんないかな…。そんなことを、ちょっと期待して。
天野は帰る前に、必ずあそこへ駆け込む。それは分かっていたけれど、オレは二度とあの声は聞かなかった。
2年・3年と上がってクラスが違っても、オレ達は友達ごっこを続けていた。
天野が近くの国立大を受けると言うので、オレも頑張って、同じ学部を選考した。とにかく一緒に居たかった。少しでも離れたら、友達ごっこの絆すら、無くなってしまう気がしたからだ。
……でもオレは分かってる。未だにあいつの目に映るオレは、その他大勢のうちの一人だと。何一つ、天野には近づいちゃいなかった。
「どうしたよ? 山崎」
「ん?」
「ん、じゃねえよ。何、考えてんだ? 俺の話、きいてんのかコラ」
一生懸命、改造した愛車をオレに見せびらかしているところだった。
「ああ、ごめん」
オレは眼鏡のズレを人差し指でなおして、愛車バカのタクローを見た。
「なあ…」
「あん?」
「自分の隣に居るヤツが、話聞いてなかったら、やっぱそうやって怒るよな、…普通」
「え? 俺、怒ってねぇよ、別に」
オレは笑った。
「いや、そうじゃなくて。天野さ、天野克晴。わかるだろ? あいつ、オレが急に話しを止めても、聞かないフリしても、全然気にしないの」
…そう。リアクションはあるけど、心が伴っていない。“どうした?”って聞いてくるだけで、何も感じていないんだ。
「天野?」
「ああ、……なんで、ああなんかなぁって思ってさ」
ガレージの隅に腰掛けていたオレは、上を向いて溜息をついた。
タクローは抱え持っていたぶっといマフラーを足下に置くと、面白くない顔をしてオレの隣に座った。
「……あいつ、変なヤツな。…大学に何しに来てんだろ。山崎、仲いいから、よく知ってんのかと思ってた」
オレを横目で見る。
「高校一緒ってだけだよ。もう、3年も付き合いがあるのに、オレ、天野の何もわかんね……」
タクローは目を丸くしてオレを見ていたけど、急に明るい声で笑った。
「はは、でも天野が合コン出ないのは助かるぜ~! 客寄せにはなるかしんないけど、洒落になんないぜ、あんなのがマジで顔出したら。みんな持ってかれちまう」
「あはは。そうだな、お前の目下の心配なんて、そんなとこか」
女をコマす! とか張り切って改造車を作るこの男に、オレは笑った。
…こんな会話を、なんで天野とはできないんだろう。
「な、な、これどうやって立ててんだ?」
タクローがオレの耳の横に飛び出た髪の毛を、両手で左右に引っ張った。
「痛てっ」
ぼんやりしていたオレは、遠慮のない痛みに飛び上がった。オレはクセっ毛で、耳横の髪の毛が外に跳ねている。
「立ててんじゃねぇよ! お前こそよく立ててんな、コレッ」
タクローの前髪を引っ張り返した。短い前髪全部をツンツンに真上に立たせて、ムースで固めている。
「わーっ、やめろ!! 崩れるッ」
オレは声をあげて笑ってやった。
「よくやるよな、毎朝毎朝セットすんだろ。マメだねーっ」
次の日、天野の様子が明らかに変だった。今までも時々見せていた、緊張した顔。それを朝から隠そうともしない。真っ青で、血の気がまるでなかった。
「天野…? どうした?」
声を掛けて、ちょっと焦った。ぴりっと張りつめた空気、そこに電流が一瞬走った気がした。隣に座ったオレに、目線だけ寄越した。
何を考えているのか、全く分からない表情。楽しかったらこんな顔はしない。だったら、悲しいのか、苦しいのか。
……何かが、辛いんだ。……なんで、なんでいつも溜め込んでしまうんだろう、こいつは。
あまりにもその様子は、目に余った。
「天野…、なんか、タイヘンなのか? …大丈夫か?」
オレは初めて聞いてみた。3年間、オレからも、こんなふうに心から出る言葉で、本気で歩み寄ろうとはしていなかったんだ。
「……」
天野は、何か言いたげにオレを見て、口を開きかけた。オレは眼を覗き込んで、言葉を待った。
「───ッ」
開きかけた唇はきゅっと結ばれ、意志を強く持ち直すように、眉がきりりと吊り上がった。
「……!」
ああ、ダメだ。…オレじゃ、まだダメか。
でも、閉ざされた心より、その時の眼に驚いた。吊り上がった眉の下は、今にも泣きそうだった。
「なんでもないよ。…さんきゅーな」
でも天野は全てを隠して、にこりと笑った。
「…オレじゃぁ役に立たないだろうけど。何かあったら、言ってくれよな」
言わずにはいられない。机に肘を突いて、気軽に。いかにも付け足しのようなフリでそう言った。
「ああ」
ふと、微笑んで。
「ほんと、さんきゅーな」
オレをちゃんと見て礼を言った天野は、さっきよりマシな顔色だった。
その数日後、大学の近くで、天野が車に乗り込む所を見かけた。
「天野!」
オレが声を掛けたときの、あいつの顔──
オレは今でも忘れない。
──助けて──
そう言っていたんだ。そしてそれはたぶん、ずっと昔から。
それっきり、あいつは大学に来なくなった。