chapter17. from time to time 未完成の子供たち
『俺は……天野と、どっか行きたい』
霧島君が言ったその意味を、僕はよくわかっていなかった。キスをされても。
ただ、心に留まったのは違う言葉。
『俺は、お前の中にいるのかよ!?』
──霧島君。
僕の中は、克にぃで一杯だった。他は要らなかった。…でも、霧島君は確かに居るんだ。僕の横に。
それは学校生活の中では、当たり前のことだった。学校では、霧島君が克にぃの代わりだったから。
克にぃと校門で別れて、克にぃが校門に迎えに来るまで。その間、僕はただ、ガッコウに居た。本当にそれだけの場所だった。そこにたまたま居る人達。その中の一人。
でも、霧島君が僕と何かできなくて悲しがると、僕も悲しくなった。霧島君が怪我をすると、僕も痛い。“大人になりたい”と本気で思えたのは、霧島君がいたからだと思う。
僕が僕であると、一人の人間としての感情を与えてくれたのは、たぶん霧島君なんだ。
でも、でも──。
そうやって僕が成長するのは、何もかもすべて、克にぃのため。
…克にぃに追いつきたい。
…克にぃのそばに行きたい。
いつかは置いてかれるかもしれない、そんな不安を抱えがら、僕の中には、本当にそれしか無かった。
克にぃが好き、大好き。周りなんか、まったく見えなかった。
だから…。
克にぃ無しなんて、考えられないし、霧島君無しっていうのも考えられない。二人がいるから、僕がいるのに。それを、どう切り離していいのかまったく分からなかった。
休ませてもらってる保健室のベッドで、そんなことが頭の中をゴチャゴチャしていた。
……どうしよう。どんな顔して会えばいいのかな。キスされたことが、ちょっと恥ずかしい。
それでも霧島君は、迎えに来てくれた。僕が怒らせても、見捨てたりしない。必ずそばに居てくれる。
「……ごめんな」
保健室から出て下駄箱に向かう途中、一言、そう言った。
下を向いていた僕は、顔を上げて霧島君を見た。そこには、普段の霧島君とは思えない、辛そうな顔があった。眉を寄せて、口もぎゅっと結んで。
僕が…こんな顔をさせてしまった。胸が痛くなった。僕が悪いのに、霧島君が謝る…。克にぃの時と同じだ。あの時と同じだ。
「………」
もっともっと、…まだ足りない。心も大人にならなきゃ。僕は、あの頃と、なんにも変わっていなかったんだ。
守られてばかり。なんにも、分かっていなかったんだ。
「ぼくが…ぼくが悪いの。…ぼくが悪いの……」
それしか言えなかった。流れる涙と嗚咽。その合間に、それだけ繰り返した。
「違っ…、あんなことしたの…俺が、悪いんだって…、泣くなって。ごめんなっ」
霧島君は慌てて、慰めてくれた。その後は仲直りできて、次の日も普段どおりしゃべれた。
4月に入ってからの克にぃは、またおかしくなっていた。
春休みの間中僕にくれていた、明るい笑い声が聞こえなくなった。またあの、真剣な顔をして考え込む。
やっと近づけたのに。克にぃの、僕の知らなかった部分、少し見せてもらって安心してた。手首の痣とか…打ち明けてもらったことで、そのことを僕も一緒に何かしていけると、…役に立てたらなんて思ってたんだ。
でも克にぃは、近づいた分だけ、一人で先に行ってしまった。どうしても、待っていてくれない。
それは僕には難しすぎて、きっと僕には言えないこと。そういうのをたくさん抱え込んで、僕との距離を離していく。
秘密を抱え込んで、自分だけもっと大人になっていく。──あの日から。
「ちょっとお使いに行ってくる。すぐ帰るからな」
って言って、僕から離れて。帰ってこないんだ、ずっと待ってるのに。すぐ帰ってくるって、言ったのに。
僕は窓からずっと、克にぃの姿が見えるまでずっと、ポーチを見つめたまま動けなかった。
克にぃが居るはずの空間で克にぃが居ないと、僕は一歩も歩くことさえ出来ない。そんな必要が無くなるから。克にぃのそばに寄るために歩く。克にぃの顔を見るために目を動かす。声を聞くために、喋る。
……なんで…なんで帰ってこないの?
なんで僕のそばにいないの。
不安で、胸が押し潰されそうだった。こんないなくなり方、したことなかった。
時々不意に、僕を襲う恐怖。克にぃがいなくなってしまうことがあり得ると、実感してしまう時がある。
たとえば──死。
それだけは、いつか訪れる別れ。僕は、人間の“死”というものを、理解する歳になっていた。
何年先かなんて、分からない。想像も出来ないけど。
この空間からヒトが“居なくなる”ということが、どんなことか。克にぃがもし…という恐怖に、わけもなく襲われて、悲しくなって号泣した。
それは本当に突然湧いてくる感情で、夜寝るのに着替えてるときだったり、学校から帰ってる途中だったり。
そんなとき、克にぃは、僕を抱きしめながら優しく説明してくれた。
「そうやって繰り返して、心は強くなっていくんだよ。誰でも一回は、その恐怖に襲われる。仮体験して、想像を実感して、いざその時が来たとき、心がいきなり壊れなくて済むようにしているんだ」
「……いざ、その時が、きたら?」
「…うん。その時は、来るから」
「……やだ…やだやだ……克にぃ、どこにもいっちゃやだぁ」
僕は胸を突き上げてくる悲しみをぶり返して、また泣いた。
……やだ、心の準備なんて、いらない。何度も、こんな悲しい気持ち、味わいたくない! だって…「その時」なんてきたら、…僕の心は結局壊れてしまう。耐えられるはずがないんだから。
僕は滲み出る涙を、手の甲で擦った。
──克にぃ…。早く帰ってきて。
夕ご飯になる頃、克にぃは帰ってきてくれた。僕はもう、飛びついてずっと泣き続けてしまった。悲しいのと嬉しいのが一緒になって、全然涙が止まらなかった。
僕は自分のことで一杯で、その時の克にぃの様子には、なにも気付く余裕がなかった。なんで遅くなったとか、説明も、もう聞いてなかった。帰ってきてくれたから。それだけでよかったんだ。
でも次の日から、克にぃは戻ってしまった。とうさんと同じ空気を纏う。“お前には関係ない世界”に入ってしまった。
そして今朝。僕は隣で起きあがっている克にぃの様子が変で、目を覚ました。まだかなり早い時間みたいで、部屋の中が薄暗い。
克にぃの影が蹲って、震えている。変な静けさと、微かな嗚咽。
「克…にぃ?」
まさかと思った。眠気が、いっぺんに飛んだ。
「…泣いているの……?」
「…………」
声を殺して、泣いている。ただの一度も、克にぃの泣いてるところなんて、見たこと無かったのに。
僕はその姿に胸が痛くなった。いつもの格好いい克にぃじゃない。そんなのはいいんだけど。
とっても、小さく見えたんだ。頼もしくて、おっきな克にぃ。僕のすべて。だけど、ここにいるのは、何かを抱えて耐えている、一人のお兄ちゃんだった。
「………」
僕は無言で克にぃの後ろに回った。震えている肩に抱きつく。その腕をもっと前に回して、克にぃのすべてを抱え込もうとした。頭も腕も。僕がいっつもしてもらってるように。
克にぃ…どれだけ抱きしめられて、元気をもらったかわからない。
泣いている時は特に。泣き止むまでいつまでも、こうして待ってくれた。僕はまだ…大人って言うには、まだまだかもしれないけど、この感じはわかる。
これは、克にぃが僕に教えてくれた、オトナの気持ち。
「……克にぃの悲しいこころ、僕が…慰める」
精一杯を言葉にした。僕も待つ、克にぃが泣きやむまで。また笑ってくれるまで。
「どうした? 天野」
霧島君が、心配そうに僕を覗き込んだ。昼休み、いつもの花壇で。
……ああ、また僕まで、落ち込んでた。
克にぃが笑わないと、僕も笑えない。心が楽しくない。つい、今朝のことを思い出していた。
「……なんでもない」
僕も克にぃと同じ、うそ笑いをする。
「……天野、戻っちゃったな」
「……?」
「やっと笑うようになったのに、また、去年の冬みたいに」
「──!」
「克にいと、なんかあったのか? また拘束してくるのか?」
「っ…違う! 克にぃ、そんなことしないよ!」
克にぃのせいにしちゃ、いけなかった。僕が自分で、霧島君に心配掛けないようにしてなきゃいけなかった。これじゃ、克にぃが悪者になっちゃう…!
僕は瞬時にそんなことを考えて、叫んでいた。
「そんなことって…。してたじゃないか! 今もしてんじゃねーか!」
霧島君も、怒鳴り返してきた。
「いっつも、克にい克にいって言ってるくせに、今は言わないじゃないか! それって、克にいに不満があるからだろ!?」
「………!!」
その言葉は、僕から声を奪った。言い返せない。
不満じゃないけど……嫌なことする訳じゃないから…。そうじゃなくて……
「僕だけの…克にぃじゃ、なくなっちゃう……よぉ」
霧島君に言うことじゃない。わかってたけど、他に言いようがなかった。
あの顔をしてる時の克にぃは、誰かを考えている。僕じゃない誰かを。
僕と一緒の時に、そんなことはしなかったのに。今の克にぃの心の中は、その人の方が僕より多いんだ。
「わ…わがまま、言うなよ! 克にいだって大人だろ、そんなの、当たり前じゃんか!」
霧島君は、ますます眉を吊り上げた。
「天野も、克にい離れしろよ、いい加減!」
腕を掴まれて、真っ正面から見つめ合った。僕は泣くまいと、必死に涙を堪えていたのに。体を引っ張られた瞬間、零れてしまった。
「……!」
霧島君も、泣きそうな顔をした。
「…天野の涙は、いつも克にいのためだな。…それも、俺が泣かせてしまう…」
それだけ言うと、ぎゅっと唇を結んで僕の腕を放した。
「俺だって…」
小さく呟きながら、ばっと身を翻して、校舎の方へ走って行ってしまった。
「…………」
僕は呆然とそれを見つめていた。
時々、激しく感情を突きつけてくる霧島君。僕はそれを受け止めきれない。展開について行けずに、動けなかった。
カ ツ ニ イ バ ナ レ
…なに……それ?
「天野君、どうしたの? また、一人だね」
「あ、先生…」
保健室の桜庭先生だ。僕は放心したまま、見上げた。
「……元気、ないね。お茶でも飲む? 今から入れるとこだけど」
首を傾げる、柔らかな笑顔。桜庭先生は、他の大人の先生と違って、何か安心できる。
……克にぃに、優しい空気が似てるのかな。僕は、その空気に縋り付きたくなってしまった。
「………………」
返事もできないまま、ゆっくりと立ち上がった。
───メグ…
───愛してる
…克にぃ。
「……んっ」
温かい手が、僕を触る。体中を撫でてくれる。僕は気持ちよくて、全身が熱くなっていく。
「ぁ……っ」
お尻の窄まりに指を入れられた。
「ん…、ん…」
息も熱くなる。するすると、指が入ってくる。
「ぁ、克にぃ……」
腰をよじって、僕は逃げる。そのままじゃ刺激が強すぎて、おかしくなっちゃう。
でも、克にぃは許してくれない。僕の腰を押さえて、もっと刺激してくる。
「あっ、…あぁ、気持ちいい…克にぃ」
「メグ…、かわいいよ」
克にぃ、キスして…
……キスは?
「あっ、…んんっ」
前の方を、咥えられてしまった。
「んっ、んっ、……はぁっ」
息をつく余裕もない。後ろの指も気持ちいい。僕は全身に、高まる感覚を巡らす。
「か…かつにぃ……あぁ」
身体が跳ねて、全身が痺れる。絶頂を感じて、克にぃのお口に熱いのを出してしまう。これはホントはイヤなんだけど、平気だからっていつも言われる。
気持ちいい。克にぃ。
抱きしめて。僕を呼んで……
「………………」
眩しい朝日の中。人影が動く。
…克にぃ?
目を凝らすと、朝日かと思ったのは、天井の蛍光灯みたいだった。うっすらシルエットが浮き上がってくる。
「ん……」
頭がぼんやりして、霞がかかったみたい。視界も、はっきりしない。
「……せん…せい?」
桜庭先生が、僕を覗きこんでいるみたい。先生のさらさらの髪が、僕の前で揺れてる。
「うん、気分はどう?」
声を聞いても、なんだか実感しない。ここは、ウチじゃないの?
「…ぼく…?」
「さっき、貧血で倒れちゃったんだよ。ずっと寝てた。心配したよ」
声はそう言って、僕の頬を撫でてくれた。
……気持ちいい。せんせいの手…、克にぃみたい……。
僕はその手に、頬を擦り寄せた。何だか、体も動かない。僕、どうしたんだろう。朝の幸せの時間のあとみたいに、怠い。
「僕、克にぃといっしょな気がしてて…」
ほんとに先生なのかな…。克にぃは…?
「いま、朝かと思っちゃった」
いつもみたいに微笑んだ。克にぃが笑い返してくれるから。先生の影は、優しい声で教えてくれた。
「……うん。まだ学校だよ」
ガッコウ…。ガッコウ? そうか、朝じゃないんだ。
「その克にぃが心配してると思うから、呼んでくるね」
え? 心配してるの?
「………ハイ」
だめだよ。僕のことで心配しちゃ…。はやく起きなきゃ。頭が霞んで考えがまとまらない。
僕、どうしちゃったんだろう。本当に、怠い…。やっとのことで、ベッドの上に起きあがる。
「ん……」
座り直したとき、お腹が疼いた気がした。やだ…、こんなとこで。さっき克にぃの夢を見ていたからかなあ。僕は恥ずかしくなった。
その後、僕を心配して飛び込んできた克にぃに、飛びついて抱きついてしまった。
本物の克にぃだ……。
会いたかった。抱きしめてほしかった。克にぃに包まれて、僕の魂は穏やかさを取り戻す。
「ホントに何でもないのか? 熱出してないか?」
帰ってからも、克にぃは心配してくれた。でも僕も、なにがなんだか、わからないから。
「うん。なーんとも、ない!」
元気に笑って見せた。克にぃの側にいるんだもん、元気だよ! 僕は嬉しくて、首に抱きついた。
「克にぃ、大好き!」
「ああ、俺も。メグ…愛してる」
目を見合わせ、笑いあって、深いキスをする。世界のぜんぶを置き去りにして、克にぃと二人だけの空間に浮かぶ。
どうして、このままじゃいられないんだろう。二人がこうして、抱き合ったままじゃいられないのかな。
無理だと判っていても、願わずにはいられなかった。
どうか、もう辛いことは起こらないで……
誰の泣き顔も、…もう見たくない。
でも、数日後、克にぃはふっと姿を消してしまった。二度とその姿で、僕の前に現れることはなかった。
そして、僕は二重の「絶望」を知った。