chapter3. blank time -空白-
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「ごめんね、イヤな思いさせちゃったかな。咄嗟だったから、つい…ね」
済まなそうに、いっぱい謝ってくれる先生。
違う……僕が今思ったことは……。
何かを感じたのに、何かが心に引っ掛かったのに……わからなくなってしまった。
わかるのは、悲しい気持ちだけ。
何も言えないで石のように固まっている僕を、先生はふわっと抱きしめてくれた。
ベッドに腰掛けたまま、僕を引き寄せて。頭も肩も、先生の体温で全身がくるまれる。
「…………」
一瞬克にぃと錯覚するほど、温かい……。
「天野君は……」
頭上から声が降ってきた。
「本当に、……克にいのことが好きなんだね」
「………」
僕は腕の中で、小さく頷いた。
「その克にいがそんな急にいなくなって……悲しかったね」
僕の胸が熱くなった。
“悲しかったね”その言葉が、僕の身体に染みこんでいった。
いつもは克にぃが聞いてくれた。いつも僕が泣いていると抱きしめてくれた。
克にぃは僕の心を本当によくわかってくれて、悲しみは、魔法がかかったみたいに消えてしまうんだ。
嬉しい気持ちは倍になる。だって、克にぃもいっしょに喜んでくれるから。
そうやって、いつも受けとめられていた、僕の気持ち。その度に浄化されて、前に進むことができたんだ。
それなのに、今は克にぃがいない。僕の気持ちは積み重なっていくだけで、前に進めない。
だから、叫んでしまうんだ。克にぃに聞こえるまで。
僕、悲しいのに。こんなに辛いのに。
わかって、わかって!
張り裂けぶ心の声。克にぃに届くまで叫び続ける。
その声を、先生が聞いてくれた………拾ってくれたんだ。
押しつけられている白衣の胸に、しがみついた。
「せんせい……せんせい……」
どんどん胸が熱くなる。先生も、僕を抱きしめる腕に力を込めた。
温かいよ……克にぃみたいだよ……。
「うわあぁんっ……、克にぃっ! 克にぃーッ!」
この抱擁が、克にぃじゃないなんて。
僕はまた、涙が止まらなくなってしまった。声を張り上げて、涙が涸れるまで、泣き続けた。
「うっく……えっく……」
しゃくり上げて、目を擦る。どれだけ泣いていたか分からない。
涙も枯れ、声も枯れ、疲れ果ててしまった。
桜庭先生の腕の中で、ぐったりと体重を預けたまま動けない。先生はその間中、僕を抱きしめてくれていた。
「落ち着いた?」
首を傾げて、僕を覗き込む。僕は恥ずかしくて、俯いたまま頷いた。
先生の手が、僕の顔をもう一度包む。
温かくて、思わず顔を上げて先生を見た。
「天野君……」
僕を呼ぶ、先生の目が暗く光った気がした。
「………? ……せんせい?」
「あ……なんでもないよ」
にっこり笑ってくれるその顔は、いつもの優しい先生だった。
その時、チャイムが鳴った。
「あ……」
僕は身体を強張らせた。いつまでもここにいていい訳じゃない。
先生も、どうする? というふうに僕を見た。
「教室に戻る? 授業、受けれるのかな」
「…………」
行きたくはなかった。教室でも、泣いてしまいそうだったから。
でも……。
もし、克にぃが迎えにきてくれた時、僕がこんな所で寝てたら心配する。
……そうだ。放課後、来るかもしれない。昨日と今朝いなかった分、放課後ずっと待っててくれるかもしれないんだ。
僕の心に陽が差したように、暖かい気持ちが湧き上がってきた。
──克にぃが、来てくれる!
その思いが、僕を元気にさせた。顔を上げて、大きな声を出す。
「先生、僕もう大丈夫!」
びっくりしてる先生から離れると、ベッドを飛び降りて上履きを履いた。
まだ座っている先生の、近くなった高さの目線を真っ直ぐに見る。
「先生、ありがとうございました! 克にぃが迎えに来るかも! だから、もう平気です」
桜庭先生は目を細めて、にこりと笑った。
「そう、……天野君は強い子だね」
言いながら、頬を優しくなでてくれた。
“強い子”なんて言われたのは初めてだったから、僕は照れ笑いをしてしまった。
教室に行くと、霧島君がとても心配してくれた。
「ごめんね。今朝は……ありがとう」
もう心配かけないように、僕は笑顔を作った。
「どうしたんだよ、何があったんだ?」
それでも心配顔で聞いてくれる。朝の僕の様子は、本当に酷いものだったらしい。
「……克にぃが、帰ってこないの」
声に出すと、また泣きそうになってしまった。
でも、放課後迎えに来てくれる……その想いにしがみついた。
「もう平気。帰りが楽しみだもん」
終業チャイムと同時に、僕は校門に向かって走り出した。
克にぃ! 克にぃ!
心の中で呼びながら、辺りを見回す。
後ろから走って付いてきてくれた霧島君も、きょろきょろ探してくれる。
でも、僕を待っててくれるはずの人影は、そこにはなかった。
「…………」
やっぱり──なんて思いたくない。
まだ……用事があって、遅くなってるだけかも……だから、まだ時間が掛かるんだ。
克にぃが来ると信じて疑わなかった時は、迎えが少しくらい遅くなったって気にしなかった。
霧島君が付き合ってくれたし、絶対来るって思っているから、不安になどなるはずがなかった。
……でも今は。
もう、どのくらい待っているだろう。
克にぃ……会いたいよ。
早く来て。僕、ずっと待ってるんだよ……。
地面に膝を抱えて座り込み、顔を半分膝に埋めた。霧島君は、僕の隣で立ったまま、門扉に寄りかかっている。
「なあ天野…」
「………うん?」
「……もしかしたらさ、克にい、家に帰ってるかもよ?」
「!!」
頭上からの声に、僕はがばっと顔を上げた。
霧島君を見上げる。
「………うん、うん、そうだね!」
そうか、そうだよ! もうかなり遅い時間だもん。家にいるのかも!
なんで思い付かなかったんだろう。いつもの癖で、迎えにくることばっかりを考えていた。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなってしまった。
「ありがとう、霧島君!!」
急いで立ち上がる。お尻の泥を叩くことも忘れた。
……克にぃ!!
心が急ぐ。会いたい、早く会いたい!
僕の足は走り出していた。克にぃに向かって───
「あ、天野!? おい!」
後ろから叫ぶその声も、すでに僕には聞こえなかった。
何度、この気持ちを味わえばいいのだろう。
広いベッド。住人が欠けた空っぽの部屋。それを見て、やっぱり克にぃはいないのだと、思い知らされた。
「───ッ!!」
ドアを開けたその場所で、僕は蹲った。顔を両手で覆って、うめき声を出す。
もしかして、今度こそ…と期待しては裏切られる。
どん底に突き落とされる。繰り返し、繰り返し、僕の気持ちはその度に悲鳴を上げる。
もう駄目だよ! 耐えられない!
克にぃがいない! 克にぃがいない! 克にぃがいない! 克にぃがいない!
張り裂ける心。
心を閉じて、世界を閉じて、僕の中の克にぃだけを追いそうになる。
それでも、まだ信じられない。
まだ僕は、克にぃを待ってしまうんだ。
その一筋の期待だけが、僕をこの世界に繋ぎ止めていた。
期待しちゃ、いけないの? もう待っちゃ、いけないの?
下宿って……専念て………それはなに? なんでこんな急に?
まだ信じられないよ。本当に、克にぃがいないなんて。
僕の横から、いなくなっちゃったなんて……。
だって、克にぃから聞いてないんだ。直接、聞いてないんだ!
「酷い……酷いよ、こんなの」
喉から声を絞り出した。
何の説明もない。いきなり帰って来ないなんて。
「僕のわかる言葉で説明してよ! ───克にぃッ!!」
指の隙間から、ポタポタと涙が床に零れる。
涸れたと思った涙は、まだいくらでも溢れてきた。
僕は泣き続ける。
真っ暗な部屋で、広いベッドの上で。
うずくまって、ただ涙を流して。抱えた膝の間に、はたはたと滴が落ちていく。
「僕の横に、克にぃがいない」
どうしてもその事実が、信じられなくて……。
そして、いつまでも僕は待ってしまった。
今日じゃなくても、明日なら。
4月が終わったら……
この夏が終わったら……
───もしかしたら
つい思ってしまうその期待を、一秒ごとに繰り返して──