chapter8. remembrancer -追憶-
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「…………」
俺は何も言えずにドアを閉めて、腰タオルのままベッドに戻った。
縁に腰掛けて、太腿に肘を突いて体を支えた。
───こんな格好のまま?
食事はダイニングで、食べるように言われていた。見たきゃ、テレビも新聞もリビングにある。
………でも、こんな格好で、うろつけるはずがない。
「…………」
剥き出しの二の腕や足を見下ろすと、細くて頼りない筋肉が目に入った。
「…………はぁ…」
その体勢すら、保ち続けられない。ベッドに腰掛けたまま、横に倒れ込んだ。
───体力が、無さ過ぎる………
投げ出した手首のプレートを見つめた。シーツに埋もれているそれは、脚のよりは軽いけれど、かなり負担になっている。
───アイツの言い草はともかく、これはマズイか……
……でも、筋肉付けるって…。
腰タオル一枚で筋トレをする姿を考えると、滑稽すぎて失笑もんだ。
「……………」
でも、やらないと、いつまでもこんな格好のままだ。
アイツはそういうとこ、曲げないから……
横になったまま両脚をベッドに持ち上げると、腹筋を使って起きてみた。
「……くっ──痛ッ」
さっき散々弄ばれた後ろと腰の間接が、激しく痛んだ。
それに加えて、想像以上に思うように動けず、起きあがったまま、愕然としてしまった。 あまりの腹筋の無さに、呆れるくらいだ。
───しょうがない……
溜息をついて、覚悟を決めた。
こんなんじゃ、いざって時に動けないまま、逃げることも出来なくなってしまう。
「…………?」
何回か寝て起きてを繰り返すうちに、懐かしい何かを思い出した気がした。
腹筋を使って起き上がるときに、足首に嵌められたアンクレットが重しになって、上体を起こしやすい。
………ああ、これのせいか…。
俺は、山崎の事を思い出した。
高校の体育の授業──準備運動は、いつも山崎と組んでいた。
「天野、天野! お前、先ね」
と、手招きで呼び寄せては、足首を持つ係を買って出る。
当時俺は、「学校」に時間を取られるのが嫌だった。居残りなんて、言語道断だ。そんな場合じゃないと、思っていたから。
だから授業に集中して、すべてがその時間内で片づくように心掛けていた。
出来過ぎず、出来無さ過ぎず……それを、意識して。
でも、体育で体を動かすのは、好きだった。
比較的、自分から競技に参加してはプレイしていた。
山崎に足首を押さえてもらい、俺はさっさと腹筋30回を終わらせる。
それを見て、ヤツはよく口を尖らせた。
「オレが一生懸命やってんのに、天野はヒョイッとやっちまう」
交代して俺が足を押さえると、ひいひい言いながら、起き上がっていた。
「そんな色々デキるんだから、もっと部活とか打ち込めばいいのにさ」
勿体ないとばかりに、眉を寄せて。
「必要ないから」
その度に、俺は笑った。
───恵以外、なにも必要無いから。
今も、過去も、未来も………
そう思っていた。
恵のために何かになろうとは思っても、自分のために何かしたくて、打ち込むことは何も無かった。
しいて言えば、語学か……。
英語は何かと役に立つし、知識として興味があった。
「……………」
久しぶりに心が動いたことに、驚いた。
数回やった腹筋運動にへばって、シーツに張り付けになりながら、天井を見上げていた。
思い出すんだ……そんなこと……
こんな状況で、昔の平穏だった頃を思い出すなんて……
横になったまま、プレートが重りになっている両腕を、肘を伸ばして持ち上げてみた。
「………くっ……」
これだけで、随分な運動量になることに、気が付いた。
それからの数日間、俺は出来る範囲で今まで以上に体を動かす事に、注意を払った。
少し動き始めると基礎体力が戻ってきたようで、腹筋も続くようになった。
───運動と言えば、あれが……初めてだったかな……
……父さんに教えてもらった、キャッチボール。
───まだ、片手でボールを持てないほど、小さい時だった……
腹筋なんてしていると、無心のつもりで、脳みそが動き始めるらしい。
気が付くと、いつの間にか、心は昔に馳せていた……
父さんは、俺に何でもさせようとした。
習った中から、好きになれるモノを選べばいい。それを続けていけ、と。
俺はといえば、恵が生まれるまでは、与えられる事を必死になって、こなしていた。
いい子でいるように。褒められるように。
父さんの褒め方は、周りに見せつけるような遣り方だったから……
俺は子供心にそれを読み取って、周囲の人間にも、気を抜けなかった。
“天野晴海の息子”
“天野監督の自慢”
そこに自分のポジションを置かされて、俺は「いい子」に育つしかなかった。
………結局、器用貧乏になった、だけだったな……。
───山崎に、そう言ってやればよかった。
ふとそう思って、苦笑いをしてしまった。
眼鏡の奥の、きょろっとした目が、不満そうにまた何か言うのが、簡単に想像できる。
「………ふ…」
口の端を上げている自分に気が付いて、腹筋で起き上がったまま膝を抱えた。
何も着ることが許されない、裸のままで……
「──────ッ」
膝と胸の間に、顔を埋めて、溜息をついた。
────あんなヤツのために、身体を作る……だって?
この数日間、俺は冗談じゃなく、腰タオルだけでダイニングを、往復させられていた。
食事するのにその格好は、余りにも惨めで───ニヤニヤしながら絡められる視線にも、辟易した。
パジャマ禁止になった、次の日の朝……
理性を無くしたオッサンに、いきなり押し倒されて、犯された。
その後も、どれだけ挑発してしまうのか知らないけど…身の危険を感じるような、セックス三昧だ。
そんなんで、食欲なんか湧くはずもない。運動する割に食べない俺の身体は、細いまま引き締まってきていた。
「────はぁっ……」
もう一度溜息をついて、ベッドにひっくり返った。
“僕のために、綺麗な克晴でいて……”
あいつの言葉が、蘇る。
バカバカしい……そんな理由で、やってられるか!
今は簡単に持ち上がるようになった両手首を、目前に掲げた。
電灯の逆光で側面が光る、滑らかな銀プレート。
………自分のために。
そう思わなきゃ。
───メグに会った時に、でっぷり太ってたら……笑われる……
泣かれるかな……
『克にぃみたいに、おっきくなりたい!』
『克にぃみたいに、かっこよくなりたいよ!!』
目を輝かせて、見上げてくる恵。
いつも、俺を目標に頑張ろうとしていた。
その俺が太って、人相が変わってたりしたら……やっぱ、泣くかな………
また口元が緩んでいる自分に、気が付いた。
「………ふっ……」
自嘲気味に息を吐いて、持ち上げた腕で顔を覆った。
真っ暗になった瞼の裏に、恵の笑顔が、次々と浮かぶ。
───メグに会った時に……そんな時が…来るんだろうか……?
会えたとして……今まで通りに接する事が、できるんだろうか……?
───なんにしても……頑張らなけりゃ………服を取り戻すためにも。
オッサンの行動は、相変わらずだった。
気の向いたときに、俺を玩具にする。その行為に朝昼晩は、関係なかった。
ただ、以前より室内にいることが、多くなった気がする。「行ってくるね」と、ベッドの部屋に、顔を出さなくなったんだ。
「…………?」
ダイニングから廊下に繋がる、扉の向こう──
俺の世界の限界の向こう側で、ヤツはよく電話をしている。仕事の話しをし出すと、携帯したまま廊下の向こうに出て行くんだ。
今も、朝食の途中で携帯が鳴り出して、オッサンはドアの向こうに消えた。
その声を聴くともなしに聴いていて、気が付いた。
───英語……? …それも激しいスラング混じり……
学校や塾で習うような英会話レベルじゃ、とても聞き取れない。かなり言い合っているように、声高に喋っているのだけは、判った。
仕事か何か知らないけど、電話を終えて戻ってくると、比較的不機嫌なことが多い。
また、荒れそうだな……
そう判断した俺は、早々に部屋に戻ることにした。
あれから二週間は経つのに、未だに着る服がない。裸体を晒している分、悪魔の性欲を必要以上に煽っていた。
「……………」
食事も途中で、俺は席を立った。
「どこ行くの? 克晴」
タイミング悪く、携帯を切りながら、戻ってきてしまった。背中に突きつけられた言葉に、俺は足が止まった。
「まだ、食べ途中じゃん。……しかも食器、片付けもしないでさ」
暗く沈んだ声が、ゆっくりと近づいてくる。
背後から首に腕を回されて、唇が耳に当てられた。
「……………!」
腰に巻いたタオルの下に、手が伸びる。
「………ゃ…」
出そうになった拒否を、下唇を噛み締めて呑み込んだ。
「……どうしたの?」
わざとらしく心配な声を出して、オッサンは耳に直接、声を響かせる。
「………っ!」
俺は首を振って、緊張する身体を解そうと、深呼吸を繰り返した。
「……だいぶ筋肉、戻ったね」
首に回していた腕を、胸に移動させる。
指が、胸の中心を這った。
「…………んっ…」
嫌でも、身体が反応する。タオルの下の手が、後ろをまさぐった。
「…………ッ!」
「でも、まだまだ細すぎるよ。しっかり食べなきゃ」
適当に感じるように、気まぐれにあちこち触る。
不機嫌なままの沈んだ声が、俺の心臓を早くさせた。
こんな時は、ろくなことがない……。