chapter11. a wave motion of living -波動-
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「克晴」
オッサンが手に何かを持って、すぐに戻ってきた。
「……!!」
────まだ、なんかする気か!?
半身を起こして、肩越しに、足元に立つ悪魔を睨み付けた。
「起きないで。そのまま寝てて」
俺を俯せに横にならせると、手にしていた容器からクリームを少し取って、尻に塗りつけた。
「…………!!」
左右に割り開かれた中心に、冷たいモノを押し付けられて、腰が震えた。
やっぱり、まだ続きをやるんじゃないか! 俺は身体を捩って、オッサンの手を払おうとした。
「はは…残念だけど、違うよ」
乾いた声で笑う。
────?
「………ッあ…」
指が中に少し入ってきた。
何が違うって……ヤろうとしてるクセに……
「コレは軟膏。キズ薬だよ…かなり痛そうだったからね」
「────!」
オッサンの指は、丹念に肌に擦り込むように蕾の回りにもそれを塗りつけた。
「…………」
俯せのまま、俺は何も言い返せずに、尻を触られていた。
「シャワー浴びるとき、ここは激しく洗っちゃダメだよ」
そんな台詞を置きみやげに、来た時とは打って変わったように静かに、部屋を出て行った。
───何を今さら、気遣うフリなんか……
俺が高熱出してたって、立てないほどフラフラしてたって、お構いなしに掘ってたくせしやがって……
出て行ったドアを眺めながら、そう思った。
シオらしい背中に、腹が立つ。アイツはいつだって、自分が被害者みたいな態度を取る。
──シャワー、浴びるか…。
苦々しいイヤな気持ちを洗い流したくて、俺もベッドから這い出た。
蛇口を捻って、熱いシャワーを頭から浴びる。
───ッ ……
大量の水滴の塊が、あっという間に髪を顔に張り付かせた。下を向いた頬を伝い、お湯が鼻や口へ回り込む。激しすぎるシャワーに、呼吸困難になった。
それでも息を止めて、痛いほどの水圧に打たれ続けた。
こんな所に閉じこめられて…酷い事をされ続けて。どれだけ苦しめられてきたか。
「くっ………」
酸素を欲して開いた口の中にも、水流が伝う。
かなり苦しくなって、タイルの壁に手を突いた。その手首には、重く分厚いプレートの呪縛。
俺の自由になるのなんか、このシャワーの水量くらいだった。
それなのに───
自分への罰のように、熱い滝の下から動けなかった。
……遣り切れない。
……何かが、堪らなく辛い。
恵に会えないこと、無理矢理のセックス、服従の強要。
奪われた自由……俺の未来……
それだけじゃない。……もっと、もっと───心が渇く……どうしようもなく、乾いていく。
──いったい、なんだってんだ……
目の中にも、お湯が入る。
俺は構わずに、手を突いた壁のタイルを睨み続けた。
どんなに打たれ続けても、熱いシャワーは気分転換に、ならなかった。
「くそッ……」
汚れた内腿を、ゴシゴシ擦って洗った。あいつに付けられた刻印を、削り落とすかのように。
何もかも、洗い落として、排水溝に流したくて………
『克にぃ、僕が洗ったげる!』
『……メグが?』
お風呂で恵と洗いっこした時のことを、思い出した。
「だって、克にぃ、こすりすぎだよ! 赤くキズになっちゃってるよぉ」
泡立ったボディスポンジを俺から奪い取ると、怖い顔を作ってみせる。その顔が可愛くて、つい笑ってしまった。
「克にぃ、僕、しんけんに怒ってるのに!」
「そか、ありがとな。でも……メグの手じゃ、くすぐったそうだなぁと思って」
「ちゃんとやる! あっち、向いて!」
でも、思った通りくすぐったくて、俺はすぐに恵からスポンジを奪い返した。ずるい! とか言って拗ねだすから、直接くすぐって、笑い転げさせた。
「ふ……」
久しぶりに恵の笑顔を思い出して、俺の口も端が上がった。
……あの時も……俺は今みたいに、アイツに付けられた痕を落としたくて擦っていたんだ。
そんなことで落ちるはずのない、刻印。内腿に付けられた、キスマークってやつを。
あの時の悔しい思いも、恵が浄化してくれた。
メグが笑い声と一緒に、吹き飛ばしてくれた。恵と一緒の日々が、赤紫の痣も消し去ってくれたんだ。
───俺独りが、こんなトコで一生懸命こすったって、何も落ちやしない。
俺に刻まれた傷跡は、どんどん増えていき……やがて全身を覆って、肌の色さえ変えてしまう気がした。
「ふぅ……」
冷たい物が飲みたくて、タオルで髪を拭きながら、ダイニングへ向かった。
ついこないだまで、裸で座らされていた椅子。腹に当たると冷たい、テーブルの木目。
それを横目に通り過ぎて、カウンターの向こうへ行こうとした時、視界の端で何かが動いた。
「……………?」
生きる物など、この遮断された空間に居るはずがない。動く影なんて、自分とオッサン以外、ずっと見たことがなかった。
─────エッ……!?
それは、ジジ…と、一瞬変な音を立てて、次の瞬間、耳を疑う音を発した。
小学校の授業で習った通りの“声”……ミーンッと聞こえるその音で、それは鳴きだした。
────セミ!?
オッサンが今朝着ていたジャケットが、イスの背に掛けてある。その肩の影に、5㎝くらいの蝉が、脚を広げてしがみついていた。
「………………」
余りに近いその距離で、蝉は自己主張するように、鳴き続ける。煩すぎて、ビーンッと耳につんざくような声だった。
俺は……驚いて、その場にそっとへたり込んでしまった。
冷たい床板に尻餅をついて、ジャケットを見上げる。透明の羽に、焦げ茶のスジが幾何学模様のように、綺麗な模様を作っている。
真っ直ぐな二枚の羽の下にある、膨らんだ緑っぽい身体から6本の脚が伸びて、しっかりとジャケットを掴んでいる。
「………………」
俺が居るのも気にせずに、目の前でミンミンと鳴き続けている。
………なんで、セミが……
いつまでも、目に映るそれが信じられなかった。
声だけだったら、真横で聴かされたって幻聴だと思い込んだだろう。そのくらい、今の俺の世界では、この光景は現実感がなかった。
外の世界との繋がりの一切を断たれて、手に入る情報と言えば、文字か、テレビの映像だけ。
風さえそよがない。生の空気すら、ここには無いんだ。
だから、“生きて動くモノ”を直接目にするなんて……
今までの、俺のリアルの中の空虚……それと真逆の光景だった。この非現実空間に、現存する生命が迷い込んで来たんだ。
────うわ………
…………なんだって、こんなとこに……
まだ、信じられない。
オッサンにくっついて、運ばれてしまったんだろうけど。……よりによって、こんな所に来るなんて。
「………………」
目の前の生物を、穴の空くほど眺めた。どう見ても蝉で……大樹にでも留まっているかのように、鳴き続けている。
────可哀想に……。
そう思わずに、いられない。俺と同じ空間に、閉じこめられた。7年間地中にいて、やっと出てきた地上では、たった一週間の命。
……たった一週間しかないのに……こいつは何日、生きたんだろう?
───あと何日、残っているんだろう。
煩く鳴き続けるセミを見続けながら、ボンヤリ考えていた。
真っ直ぐの羽……震わせる訳じゃないから、動かない。脚もしがみついたまま、ぴたっと留まっている。膨らんだ下腹だけが動いて、鳴き声に合わせて、尻を前後に揺らしていた。
こんな身体から、どれだけってくらいの声量が、飛び出している。
「………………」
眺め続けて、聴き続けているうちに、可笑しくなってきた。
こんな部屋ん中で、どんだけ鳴いたって、意味なんか無いのに。コイツは、鳴き続ける。それはもの凄い、自己主張に見えた。
──あと何日なんて…考えない。ここがどこかなんて、関係ない。
……諦めたりしない。
コイツなりに、自分のやるべき事を、遂行してるんだ。
今、この時を生きてる限り、鳴き続ける。それが、コイツの生きている証なんだから……
……凄いな……コイツ………
……凄いな………生物の生命力ってヤツは───
鼓膜に直接届く激しい振動に、心臓まで揺さぶられた気がした。胸が熱を持ったみたいに、熱くなる。
血流が回り出したかのように、指先まで熱くなっていく気がした。
───なんだ…俺……セミに、感動してんのか……?
そう思うと、余計可笑しい。この俺が………
「………はは」
思わず、声に出して笑ってしまった。吐息のような声だったけど、その瞬間、ぴたっとセミが鳴きやんだ。
「………………!」
煩い鳴き声が、何分続いていたんだろう。いきなり帰ってきた静けさに、鼓膜が着いていかない。ボワーンと、変な耳鳴りを起こした。
静寂を取り戻した室内は、再び時間を止めていた。
外の世界との繋がりが、ブツリと途切れた気がした。
「…………」
連動するように、俺の心臓も冷えていく。
………煩いけど……心地いい振動だったと、止まってから気付かされた。
それは、生命の波動───
……今の鳴き声は、まさにそれだった。
「……おまえ、また空を飛べると…いいな」
ピクリともしないセミに言葉をかけて、俺はそっとそこから離れた。