chapter9. Antinomie  -二律背反-
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 今日も、会社での僕の仕事は、無かった。
 
 日本に帰ってきて、未だに名刺に位置付けが入らない。
 誰かの補助として同行した取引先で、「どこの部署なんですか?」なんて、訊かれる始末だ。そして、答えられない僕は、どんなヘボい奴にもナメられるようになった。
 同情してくれる奴もいる。
「そんな知識があって仕事できるのに、なんで補佐なんです?」
 ………最後は好奇の目だ。
 
 僕だって知らない。
 僕こそ、教えて欲しい。
 何度掛け合ったって、文句付けたって、人事部長は冷たく一言。“もう少し待て”の一点張りで……。
 眼鏡の奧から僕を見下げる部長の眼は、あまりに冷たい。正式に訴えでもしなければ、この処遇が変わることはないかも……と、不安になるほどだった。
 
 人事部長……長谷川永一は、以前はもっと、笑う人だった。
 一緒に先輩の野球チームに参加したことだって、あったのに。
 気安さも手伝って、帰国当初は配属部署も決まらないことに、ずいぶんとしつこく文句を言った。
 でも、その時はすでに長谷川部長は、この顔をしていた。
 
 
「雅義、最近元気ないな」
 先輩が心配してくれる。
 今までみたいに、間近で顔を覗き込んでくれる。その仕草が、罪なのになあ。
「………そんなこと、ないですよ」
 もうあんなドキドキはしないけど、大好きなカオ……無意識に身体を退いて、愛想笑いを浮かべた。
 あまり惨めな状態を、知られたくなかった。
 僕は今まで通り、先輩の野球チームの盛り上げに参加して、克晴については、いつも同じ報告をしていた。
 
 “毎日、頑張ってますよ”
 
 ───ウソではない。……克晴は頑張ってる。
 僕に、負けないように。
 
 何故あの睨み付けが、あんなにも持続できるのか、わからない。
 
 それでも、あの眼を見るたびに、駆り立てられる───僕の残虐性……。
 本当は違うのに。
 そんな顔、させたい訳じゃないのに。
 克晴を泣かせるたびに、僕の心も泣いていた。
 
 
 
 
「宮村、まだ野球やってんの?」
 元同僚の白石と、社員食堂で鉢合わせてしまった。
 今の状況を冷やかされるのが嫌で、あんまり会いたくなかったのに。でも、意外にも出てきた言葉は、そんな質問だった。
 
「………うん。なんで?」
 定食をつつきながら、6年分老けた横顔に、聞き返した。
 白石はゴシップ好きだから、当時はよく利用したモンだった。先輩の情報とか、一生懸命聞き出したりして……。
「いや……」
 クセのように目線を斜め上に放りながら、顔を顰めている。コイツにしては、歯切れが悪いと思った。
 
「白石………」
 僕も明瞭でない声で、つい呼んでしまった。
 以前の様に、つい、聞き出したくなる。いろんなこと。
 
 会社の理不尽さや、対応の悪さ。人事の意向はどうなっているのか……
 コイツなら、何か知っているんじゃないかと、思ったんだ。
 
 ………でも、それを追求するほどの憤りは、今の僕には欠けていた。
 帰国後、今も一人だったら、理不尽な怒りは、今頃頂点に達していたかもしれない。こっちの土を久しぶりに踏んで、もうすぐ1年が経とうとしてるんだから。
 ───時間が経つのって、なんて早いんだろうな……
 でもそれは、克晴に溺れすぎていたせい。僕は、現実が見えていなかったんだ。
 
 もう少し待っていれば、いずれって……そんな希望的観測に、しがみつく気持ちも、まだあった。
 ………だって、6年だ。それだけ向こうで貢献して、こっちで何もないなんて、あるハズがないじゃん。
 それに会社に対して、一人でこれ以上闘うのも無理だとも、思ったし。
 かといって、友人でもない白石に協力を頼んで、仲間を集めて……それも今更に思えて、惨めな自分を晒すことをしなかった。
 僕は、そんな重大なことですら、カッコ付けだったんだ。
 
 “まさか会社が”そう信じていたことが、何よりの失敗だったのに───
 
 
「ん?」
 同じように定食を頬張りながら、白石が目線で問い返してくる。
「……いや、なんでもない」
 僕たちは、なんの会話もできないまま、その場を別れた。
 6年という月日と、僕の見栄っ張りは、こんなトコにまで溝を作っていた。
 
 何の不安もなく、ただ先輩を追っかけて、白石達と仕事をこなして、笑い合って……そんな記憶が、脳裏に蘇った。
 ───今更……そんな時代を思い出したって、僕には懐かしいと感じることも、できない。
 
 選んでしまったから。
 先輩じゃない。──克晴を……
 
 僕の中には、過去も、今も、未来も、克晴しか……ない。
 
 
 
 大事な大事な、克晴。
 大好きで、愛しくて……
 
 なのに、どうしてこうまで、非情になれるんだろう。
 どうして、こんなにまで執拗に、虐めてしまうんだろう。
 
 ───開かない心。
 僕を拒否し続ける、あの眼………
 
 ……判ってる。
 優しくしなけりゃ、どんなペットだって懐かない。
 反射して返ってくるのは、自分の行為そのものなんだ。
 
 なのに、どうして………
 愛しいと、思えば思うほど、優しくできない───
 
 
 
 
「………ん……」
 僕の腕の中で、ぐったりと身体を横たわらせている、克晴。
 僕の打ち付けに反応しながらも、支えられない身体はシーツに埋もれて、動きが鈍かった。
 
 ───なんか、つまんないな……
 
 以前の克晴だったら、嫌がりながらも反応してしまう身体を隠そうと、あちこちに力が入って、可愛かった。
 背中を反らせたり、身体を捩ったり……よく動いてたのに。つい抵抗してしまうのだろうその腕を、押さえ付けるのも好きだった。
 
 ───やっぱりな……
 同時に、そうも思う。それは、心配していたタネのひとつでは、あったんだ。
 
 寝続けていれば、誰だって筋力は落ちる。強制的に動かなければ、体力はどんどん落ちていくばかりだ。
 
 僕はそれを判っていたから、敢えて重いアンクレットをオーダーした。
 逃走防止もあったけど、日常生活の中で、筋肉への負荷が必要不可欠なことを、知っていたから……。
 
「克晴……筋肉、落ちたね」
 動かない腹筋をつつきながら、腰を動かす。
「…………んんっ…」
 抵抗は見せるけど、やっぱつまんない。威勢がいいのは、目線だけだった。
 
 ……ダメだよ。そんなじゃ。
 僕が惚れ直した……19歳の克晴に、戻ってくれなきゃ。
 
「筋トレして、綺麗な克晴でいて───」
 
 そう約束させたのに。
 いっぱい酷いことして、やっとハイと言わせたのに。
 ……ハイって言わせた後も、クスリ使っちゃった。あれをヤルときの嫌がる姿、やっぱり見たくて。
 シリンジの先端を、克晴の蕾にあてがって、ピストンを押し込む。
 その瞬間の、腰の跳ねる様子……呻く声……
 ───色っぽい克晴……その後の、乱れる様子も、サイコーにイイ。
 
 クスリを使ったときだけ、あの瞳は潤む。濡れた眼になるんだ。
 震える唇を少し開いて、紅い舌を覗かせる。そのまま仰け反って喘ぐ時も、下唇を噛んで声を抑える時も、その濡れた目で……僕を睨む。
 ──艶めく肌……誘う目線。
 焦らせば焦らすほど、腰を押し付け返してきて、揺らす。もっと刺激が欲しいと、中で搾る。
 
 あの乱れっぷりが、普段の克晴からは想像出来ない。
 アレが見たくて、僕はつい、「お仕置き」を強いてしまうんだ………。
 
 
 
 
 
「……………」
 僕は溜息をついて、携帯電話を切った。
 聞きたくなかった声に、苛ついて。
 とっくに通話は途切れていたのに、ボタン一つ押せずに廊下に立ち尽くしていた。
 アイツの声を、頭から閉め出したくて……克晴のことばかり考えて、心を埋めていた。
 
「………はぁッ」
 自分の部屋に入ると、パソコンデスクのイスにドサッと腰を下ろした。
 背もたれに寄り掛かって、天井を見上げる。イスの回転に合わせて、ゆるく天井も回転した。
 
 ───イライラする
 こっちに帰って来さえすれば、なんとかなると思っていた。
 僕の曲げられてしまった時間も、元の軌道に乗せ直せると、信じてたんだ。
 
 ………まさか、またアイツの声を、聞くハメになるなんて……
 
 
 
 収まらない胸のモヤモヤが、克晴に向いてしまった。僕は、感情がすぐ表に出てしまう。
 この苛立ちは、克晴のせいではないのに……抵抗を封じているその身体を乱暴に扱い、痴態を晒させた。
 克晴は、何の文句も言わない。……文句は言ってもいいのに。非難の目を、ちょっと向けるだけだ。そこにまた、僕のコントロールできない感情が煽られる。
 
 
 
 
 真っ白い天井に、克晴の顔が浮かんだ。クスリを使ってない、普段の取り澄ましたカオ……
 
 感じてない。気持ちよくなんかない。
 何されても、負けない。
 ───俺は平気だ……オッサンなんか、認めない!
 
 その体に訊けば訊くほど、克晴のオーラはそう言って煌めく。その心は硬く閉じていく。
 
 
 
「………かつはる」
 声に出して、呼んでみる。ダイニングを隔てた、すぐ向こう側にいるのに。
 確実に触れられる距離にいるのに。
 そっと、手を伸ばしてみた。
 
 天井の克晴が、滲んで歪んだ。
 
 
 ────その心は、あまりにも遠い………
 
 


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